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ああ、厄介なことになりそうだなぁ、と頭を抱える。屯所を出る前から胸騒ぎはしていたけれど、やっぱり悪い予感からは逃れられそうにない。
淡島副長に連れられて、学園の校長に交渉をしているところまでは良かった。穏便だ。この様子だと武力行使にはならない。そう思っていた。
確かに相手側の守りは固かったからこのままだと何時間交渉が続くのか分からないなぁ。そんな風に他人事に思いながら立っていたのは事実だ。紛れもない事実、だけど。
伏見先輩が動いたのは見ていた。あんまりこういう硬直状態が好きじゃないことは知っていたし、痺れを切らしたのかな?とも思った。
だけど、まさか急に腕を引かれて思わず声を上げそうになったら口を塞がれて引きずられるように私まで連れて行かれることになるとは思ってもいなかった。
これは拉致だ。もごもごとくぐもった声を上げても、ただただ引きずられるだけ。あの時の秋山先輩と弁財先輩の哀れみのこもった視線は一生忘れない。
「生徒の個人情報、どこで管理されてる?」
部屋から連れ出されて、溜め息を一つ吐いて言われた言葉がそれだ。それより前に一言あるでしょう!と思いながらも口に出せない辺り、弱い。
その言葉の意図が分からないほど私も能天気ではない。だからこそ、咄嗟にこれから何をするつもりなのかを理解して、口ごもる。
「お前、元ここの生徒なんだからそれぐらい知ってンだろ」
「えと…。はい、一応、ですけど…」
伏見先輩の言うとおり、私は一応この葦中学園に在籍していたことがある。在学途中でセプター4に入ったため卒業はしていない中退生なわけだが、一通りの知識はあった。
「どこ?」
「職員室にあると思います」
「…俺の言いたいこと、分かってるよな」
うっ、とまた言葉を詰まらせる。分かってますとも。だからこそ、あの場から抜け出してきたんでしょう。
職員室には職員がいる。はっきり言って、そこで個人情報を見せてくださいと言ったところでさっきの交渉と同じことが起きるだけ。やるなら手薄なところを攻めるしかない。
やっぱり実力行使になってしまうのか。とほほ、と肩を落としていれば早く言えと急かす声が聞こえてきて堪らず盛大な溜め息を吐いた。
「生徒会室のデータペースになら、おそらく…」
「よし、行くぞ」
至極当然のように歩き出した伏見先輩の背中をしばらく見つめてから、もう一度溜め息を零して私も後を追う。ここまで来たら最後まで付き合わなければ。
正直なところ、今の伏見先輩と二人きりになるのは少し居心地が悪い。お互い屯所での一悶着を忘れたわけではないだろう。
でも、そんな雰囲気を少しも臭わせない伏見先輩は先ほどのことなんてなかったかのようにいつも通りで。それが、なんだか逆に不安だった。
なんだろう。どこか引っかかる。違和感が拭えない。なにか大切なことを見落としている気がする。
そんなことを考えているうちにふと気づく。さっきまで前にいた筈の伏見先輩がいない。
「あ、あれ…?伏見先輩?」
いつかのようにまた迷子になってしまったのでは。思い出したくもない過去が走馬灯のように脳裏を過ぎってヒヤリとした。
振り返れば伏見先輩はいた。何かを感じ取ったかのように、噴水の方を眺めている。だけど、そこには何もない。誰もいない。
「どうかしました?」
「…いや」
何でもない。そう言ってまた何事もなかったかのように歩き始める伏見先輩にまた焦燥を感じた。
まただ。また、この人の意識が別のところに引き寄せられている。瞳がどこか遠くを見ている。私の知らない、ナニか。
貴方は、なにを見ていたんですか。なにを探したんですか。【後ろ】を振り返って、なにを掴もうとしたのですか。
言いようのない不安と、理由のない確信に足が動かなくなる。先輩が見ていた場所には誰もいない。だけど、誰かがいた。そんな気が無性にする。
「…だれ、」
ジッと眺めたところで何も浮かび上がってはこないし、過去にも戻れない。誰なのだろう。誰が、伏見猿比古を掴んで離さないのだろう。
興味はある。だけど、それ以上に恐怖の方が大きかった。もし、その人が伏見先輩にとって大切な人なのだとしたら私という存在は?
私という、天風渚という存在は、果たしてこの人に必要とされるのだろうか。
「いやだ」
必要とされなくなったら、私はどうすればいい?諦めて離れる?そんなの嫌だ。絶対に嫌だ。ようやく見つけた私の色を、誰かに奪われるなんて。
会いたいとは思わない。できる事なら、もう二度と伏見先輩に関わってほしくない。
「おい、渚。早くしろ」
「っ、は、はいっ」
この人の背中を追うのは、この人の隣に並ぶのは、この人の腕の中にいるのは、私だけでいい。
言葉にもならない、形にもならない。身勝手な欲で、大きな身体を抱きしめた。
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