nowhere | ナノ


▼ 50



カツカツとヒールが鳴る。普段より速く、大きく鳴る足音。それは他でもない私の足元から響くものだけれど、どこか他人事のように聞こえた。

早く自室に戻りたい。寝たい。疲れた。特別忙しくもなく定時に仕事を終えて帰っている今だけど、なんだか妙に身体が重かった。

風邪でもひいたのだろうか。日頃の疲れが溜まっているのだろうか。きっと、そのどれでもない。別に疲れているわけじゃない。本当に重いのは身体じゃない。もっと内側の見えないところなのだと思う。

「馬鹿みたい」

溜め息混じりに吐き出して、だんだんと足が動かなくなっていく。誰もいない長い廊下で立ち止まれば、追いかけるように鳴っていたヒールの音も止まる。

馬鹿みたい。もう一度内心呟いて、宙を仰ぐ。ただの天井。封鎖された空間。外に飛び出したかった。

深いところまで踏み入れてはいけない。そんなことは十分理解しているつもりだ。だけど、なんだか一人だけ置いていかれたような気分だった。

「…伏見先輩のバーカバーカ」

私はいったい何なのだろう。どんな存在なのだろう。無理だと分かっていても、やっぱり一番になりたくて。

きっと疲れてるんだ。だから、こんなことしか考えられないんだ。早く帰って寝よう。

そう自己完結して、また歩き始めてからすぐのことだった。突然後ろから腕を掴まれてひっぱられる。突然のことに反応が遅れて体勢が崩れ、身体が傾いていくのを感じた。

瞬間的に思考がフルスロットで活動して、これから起こるであろうことを脳内に叩き出す。あ、倒れる。馬鹿みたいに客観的だった。

「ッ、ひやあ!?」

だけど、頭を床に打ち付けるーーーーことにはならなかった。引きずり込まれるような形で数歩後退して、そのまま壁よりも柔らかいものに背中が当たってそこに落ち着く。

あれ?おかしいな。痛くない。どうしてだろう。視界も天井ではなく正面にある壁を映し、足も床についていた。

私、倒れたんじゃなかったっけ。混乱する脳はぐるぐると自問自答を繰り返していたが、やがて五感が直感的に気付いた。

視覚が腰にまわされた見覚えのある腕を。嗅覚がいつの間にか嗅ぎ慣れてしまったその匂いを。そして、聴覚が自分の名前を呼ぶ気怠げな声を。

「ひっ!?ふ、ふし、ふし…!」
「誰がバカだって?」

サッと顔面から血の気が引いていくのを感じた。まずい。聞かれてた。目の前が真っ白になって、すぐさま弁論を考え始める。

なんて誤魔化そう。なんて言い訳しよう。まるで遊んでいたら物を壊してしまった子供のような思考回路。でも、今の私にはそうすることしかできない。

「あ、あの、これは少し調子に乗ってみただけで!そんなこと本当は思ってなくて!」

面白みの欠片もない言葉の羅列に自分でも頭が痛くなる。もっと頭のいい答え方をできないのか、私は。

でも、たとえば?たとえばどんなことを言えばいいんだろう。そんなの思いつけば苦労はしない。思いつかないからこうして陳腐なことしか言えない。

先輩はどんなことを考えているのだろうか。私に陰口を叩かれて怒っているのだろうか。それは弁明のしようがない。怒られても文句の言いようがない。

どうしよう、と内心ビクビクしながら腕の中で縮こまって黙り込む。だけど、降ってきたのは苛立った声ではなかった。

「えと、伏見先輩…?」
「…つかれた」

首筋に顔を埋めて、のし掛かるように抱きしめられる。言葉の通り、疲労の色の滲んだ声。口には出さず、えっと驚いた。

今までどんなに大変な仕事の時も伏見先輩は弱音を吐かなかった。それがプライドからだったのか、強がりだったのか、はたまた慣れたことだったからかは分からない。でも、それは疲れたという言葉一つも同じことだった。

「おつかれさま、でした。…何をしてたかは、知らないですけど」

伏見先輩がこんなことを私に言うのは普通じゃない。本当に疲れているのだと思う。だけど、素直にそれを心配する気にはなれなかった。

だって、それは私の知らないことが原因なんでしょう。私の知らないところで、私に知られたくないことをしていたんでしょう。

卑しい人間、面倒な女だと思われるかもしれない。それでも口を突いて出てきた言葉は本音で、もう取り返しがつかない。

今度こそ怒られるかな、と半ば諦めのような気持ちを抱きながら視線を落とす。でも、予想に反して返ってきたのはクスリと小さな笑い声一つ。

「お前さっき泣いてたよな」
「なッ!…泣いてなんかないです。聞き間違いですよ、きっと」
「嘘つけ」

断定するかのような言い方に少しムッとして拳を握りしめた。泣いてない。泣く理由なんてどこにもない。先輩には何も関係ない。ほんの僅かなプライドを捨て切ることができずに去勢を張る。

「顔も見てないのに本当に泣いてるかなんて、分からないじゃないですか」

それは精一杯の皮肉だった。それ以上のことを口にすることはさすがにできなかった。どうしてって、怖かったから。

言葉の裏にある真意は頭隠して尻隠さず状態で、この人になら一瞬で察しがついてしまうほど幼稚なものだろう。

本当はずっと離れたくなかった。私だけを見ていてほしかった。そんなこと無理だと分かっていても、本能は強欲に愛を求める。

いつから私はこんな汚くなってしまったんだろう。ハッと鼻で笑って自己嫌悪の渦に呑まれてーーーーだけど、そんな私を抱え込んだまま尚も伏見先輩は笑う。喉を鳴らして、楽しそうに。

「渚」
「、はい」
「妬いた?」
「はい。……はい!?」

思いも寄らない言葉に反応が鈍った。咄嗟に振り返って顔色を確かめようとするけれど、生憎身動きが取れる状態ではない。壁を見つめて今この人がどんな表情でいるかを想像しなければならない。

予想ではきっと、笑ってる。それがなんとなく勝負に負けたような気がして反抗的に口を開いた。

「そ、そんなのどこにも感じる必要ないじゃないですか!だから妬いてなんかいな…むぎゅ」
「今日はやけに強情だな」

片手で頬を挟まれて、くぐもった声しか出なくなる。反論を言わせるつもりもないんですか。私の意見は総無視ですか。

ジタバタと腕の中で暴れて非難を示せば、ハァと溜め息を吐かれて喉元に手を当てられてビクリと肩を揺らした。

ついさっき外から帰ってきたのか、いつもより手が冷たい。その冷たい指が首を滑った。

獣は喉元に噛みつかれれば相当の確率で命を落とす。それを考えると、私の命も今この人に握られているようか気がして無意識のうちにゴクリと喉を鳴らせば、伏見先輩はまた小さく笑った。

「分かるよ、お前のこと」
「えっ…」
「お前分かりやすいし。なに考えてるとか、なに感じてるとか、それぐらい声で分かる」

どういう訳か、無性に泣きたくなった。強張っていた身体から一気に力が抜けて、全身を委ねるように背中を預ける。それでも倒れずに済むのは、伏見先輩が私のことを支えていてくれているから。

黙ったまま俯いた私に伏見先輩は追い打ちをかけるように決定的な言葉を吐き捨てる。まるで嘲るように。だけど、不思議と嫌な気はしなかった。

「泣くほど妬いたんだろ?顔も名前も知らない奴に」

泣きたくなったのは悔しかったからじゃない。安心したから。嫌な気がしなかったのは諦めたからではない。理解されていたから。

私のことは末端から全て知り尽くされていた。去勢を張るなんて、らしくないことは無意味だ。腰にまわされた腕に触れて、ぎゅっと握って、今度こそ負けを認める。

「ごめんなさい」
「なんで謝るんだよ」
「だって私、先輩に色々言いました。私が一人で勝手に…嫉妬、しただけなのに」

口に出せば、すごく簡単なことだった。今まで必死になって違う違うと言い続けたそれは、間違いなく本音だった。

私は誰かも知らない人間を妬んでいた。この人を盗られてしまうのではないかと恐怖した。伏見先輩はモノでもなんでもないのに。生き方はそれぞれなのに。

ごめんなさい、と俯きながら謝れば頭上からは小さな舌打ちが聞こえてくる。やはり怒っているんだろうか。居心地が悪くて早くここからいなくなってしまいたい。そう思っても解放される兆しは一向になく、ただただ時間だけが過ぎていく。どうしよう。

「名前」
「へ?なまえ?」
「いいから呼べよ」

先に沈黙を破ったのは伏見先輩の方だった。名前を呼べと、真意の掴めないことを唐突に切り出してきて一瞬戸惑う。だけど、その声に苛立ちは含まれていない。それが救いで安堵して、一度息を吐いてからいつものように名前を呼んだ。

「伏見先輩?」
「それ苗字。名前。あと先輩いらない。この際敬語もやめろ」
「…は!?」

急に何を言い出すんだ、この人は。今度こそ戸惑いは動揺に変化した。名前?タメ口?何が何だか分からなくなって、しばらくぼんやりと壁を眺める。

だけど、ようやく活動を始めた脳が状況の整理をして答えを叩き出す。それを理解することは容易く、実行することは困難極まりない。

「む、むむむりに決まってるじゃないですか…!伏見先輩は私の上司ですよ!?そんなことできるわけ…!」
「言わなかったら、後でどうなっても知らないからな」

まさかの脅迫。どうなるって、どうなるんだろう。伏見先輩のことだ。前途多難な要望を押し付けてくるのも想像に難くない。考えるのも怖くて身震いしていれば、どうすんの?と後ろから催促がかかる始末。背中を冷や汗が伝う。小刻みに唇が震えて、声が裏返った。

「さ、さささ、さる、さる…!」
「…猿猿言うな、ムカつく」
「あいたっ!?」

つむじに拳骨が落とされて悲鳴を上げる。痛い。涙目になりながらも赤面して唇を噛みしめる。そんな簡単に言える筈がない。

だって、今の今まで一度も名前を呼んだことはなかった。ずっと伏見先輩と呼び続けて、それで満足していた。

恥ずかしかった。自分の名前を初めて呼ばれた時も恥ずかしかったけど、今はその時以上に恥ずかしい。私は後輩だからという口実を作って逃げたいぐらいに。

それでも、もがこうが何しようが逃げ場はどこにもなくて。羞恥に苛まれながら口を開いて呟くように声を出した。

「…さ、さるひこ」
「聞こえない」
「酷い…!」

絶対聞こえてたくせに!と喚いても、聞こえないからもう一回と当たり前のように言われるだけ。顔が沸騰して暴発しそうなぐらい熱い。今の状態で先輩と向き合ったら絶対に笑われる。それぐらい酷い顔をしている。

冷静でいられるわけもなく、もうどうとでもなれと投げ出すような気分で息を吐き出して、それからしっかりと名前を呼んだ。

「猿比古…?」
「…ん」

少しだけ声が震えていたような気がした。でも、それで十分だったようで伏見先輩はまた私の首筋に顔を埋める。だからと言って何をするわけでもなく、ただ存在を確かめるように抱きしめる。

どうしたのだろう。何かあったのだろうか。疲れたと本音を口にして、名前を呼べと強要して、なんだか今日の伏見先輩は様子がおかしい気がした。

なんて言えばいいのか分からないけれど、率直に言えば甘えている。或いは、何かを求めている。どうしてそんなことをする必要があるのだろう。それを聞き出す勇気はなかった。

「猿比古」

二度目に呼んだ名前は落ち着いていた。震えることもなく、躊躇することもなく唇から零れ落ちた。

私たち以外誰もいない廊下に反響して、暗がりに消えていく声。伏見先輩は何も言わない。なんの反応も示さない。それでもーーーーー

「…私のこと、もっと頼って」

聞き出すことはできないから、だからせめていつか自分の口から教えてほしい。私を頼らない理由を。隠し続けている真実を。



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