nowhere | ナノ


▼ 03


仮眠室にはもちろん誰もいなかった。扉を閉めて壁を背に息を吐き出す。自分の中にある全てを吐き出すかのように、大きく。

可笑しくはない。だけど、正しくもない。私は本当に馬鹿で何もできなくてどうしようもない人間だ。そんなこと分かりきったことだったじゃないか。それなのに今になってそれを再認識するだなんて。

「…ばかだ」

何の為に、誰の為に。市民を守ることが私たちの責務である筈なのに、私の目的はそれとは違う。そんなの、なんの覚悟もない人間だ。副長も室長も先輩たちもみんな、全ての責任を背負っているのに。

「あの人の為だけに、ここにいたいだなんて…」

ガンッと大きな音を立てて頭を壁に打ちつける。こんなことしたら頭痛くなるのは当たり前で、だけどそうでもしないと何をすればいいのか分からなくて。もう一度頭を壁にぶつけた。

「ばかだ…っ」

あの人ためなら何だってする。命令されたら多分人殺しだってやれる。そんな自信がある。誰を一番に優先して守るかって言われたら市民でも室長でもなく、あの人だって言い切れる。

「ばかだ…!」

先輩だから尊敬してる。尊敬してるから命令を聞く。守りたいと思う。そんな軽いモノじゃない。私のこの感情は完全に一線から逸脱している。そんな私情を挟んでしか動けない自分がここにいる資格なんて、ない。

ガンッ。鈍い音がして視界がぼやける。なら、いったいどうすればいい?自分の思いを捨てて職務を全うすればいいのか。本当に自分にそんなことができる?ここを辞めて外側からここを眺めればいいのか。本当に諦められる?

どちらも、できるわけがない。頬を生暖かいものが伝っていって、声が漏れそうになった。歯を食いしばるけれど、堪えきることが出来ずに微かに息が零れる。

結局ずるずると壁に向かって腰が落ちていって、へたり込んでしまった。こんな情けないことしてたら駄目だ。そう思っても力が全然入らない。駄目だ。駄目だよ、何もかも。

「天風」

耳に入った声にびくりと肩が揺れた。聞き覚えがありすぎて間違えるはずもない。ドアが開く音なんてしなかったのに、なんでこのタイミングで。近付いてくる足音にも顔を上げることは出来なかった。

「…天風、聞いてんの?」

返事しないと。はい聞こえてますって笑って言わないと。そう思うけれど今ここで口を開いて出てくるものは嗚咽だけだろう。そんな弱くて女々しくて情けないところ、見せたくなかった。それでも、神様は意地悪だ。

肩を掴まれて無理やり振り向かされ、そして先輩の綺麗な青い瞳が見開かれた。でも、その双眸はすぐにスッと細められて、あの時のように私自身を見据えられたような気分になった。

見透かされている。この人に嘘なんてものは通用しない。この人に嘘なんて吐きたくない。でも、これは不可抗力だ。迷惑なんてかけたくない。足を引っ張るなんてこと、したくない。

「ッ…大丈夫です、から…ちょっとお腹いたい、だけです」

震える声を振り絞る。涙は止まらないけれど泣き出すようなことにはならなかった。これで先輩がいつものように素っ気ない返事をして部屋を出て行ってくれればいい。

だけど、本当にそれでいいんだろうか。

「嘘言うな」

私よりも背の高い先輩と目線が合うことなんて今までなかった。でも、今は違った。座り込んだ私の目線の先に片膝をついた先輩の瞳があった。

「俺以外の奴にはどんな嘘を言おうが構わない。そんなことは俺の知ったことじゃない」

迷いもない。曇りもない。綺麗な空色だ。その色に映り込んだ私は酷く汚く、醜い。そんな私に向かって先輩は手を伸ばす。体温の冷たい先輩の手が私の頬に触れた。

「俺にだけは嘘を言うな。俺の前ではお前でいろ」

細い指が目元に溜まった涙を拭う。その手つきがとても優しく感じられて、私も先輩に手を伸ばしていた。袖の先を緩く掴んで俯く。もう、限界だった。

「伏見、先輩…」
「なに」
「…ッふしみ、せんぱい…っ」

逃げられる筈もなかった。私がどうしようもない人間である以上、この人から離れることは不可能だった。それぐらい私にとって伏見先輩はどうしようもない存在だった。

「、わからないんです…、何のためにここにいて…っ…これから、どうすればいいか…ッ」

私には選択肢がない。他のものを選び取ることが出来ない。私には、この人しか選べない。でも、そんな人間がここにいるなんて可笑しいじゃないか。だってここは私が伏見先輩を守るためにある場所じゃない。

みんなが必死になって戦っている現場なんだ。死ぬかもしれない場所なんだ。そんな中で私みたいなのがいたら邪魔になる時が来るかもしれない。

「だから、もし伏見先輩が私のことを邪魔だと思った時は、…お願いです。私を、殺してください」

その時こそが私が救われる瞬間なのかもしれない。だって、そうなればもう何も考えることも迷うこともなくなるから。自分のことを殺せなんて烏滸がましい願いなのかもしれないけれど、それでも――――

「…分かった。俺が殺してやる」

その言葉に不思議なほど安堵した。この人に殺されるなら何の疑問も不安も未練もないと思えた。今この瞬間にも首を絞められて殺されようが、サーベルの刃で斬り殺されようが、何も。

「だから、俺以外の奴には殺されるな」
「、え…?」

顎を掴まれて上を向かされる。それに抵抗なんてものは最早なかった。ぐっと近付いた伏見先輩の顔と瞳。視界は青かった。先輩の瞳しか見えなかった。それ以外は、なにも見えなかった。

「お前は俺の命令だけ聞いてればいい。他には何もしなくていいから」
「で、でもそれじゃあ…」
「お前は俺の命令を聞く。俺が正しい命令をお前に出す。それでいいだろ」

今まで私はいったい何を悩んでいたんだろう。どうして先輩は私の考えていることが分かったんだろう。聞きたいことはたくさんあったけど、どれも声にはならなかった。止まりかけていた涙がまた溢れ出して、流していく。

救済なんて、解放なんて、そんなものは必要ないのだと知らしめられた。私の考えは全て否定された。だけど、悲しくはなかった。嬉しかった。

「天風は俺のためにここにいればいい」

私の存在が誰よりもこの人に認められたという事実が、どうしようもなく嬉しかった。そして実感する。やっぱり私にはこの人しかいないんだって。この人がいればそれでいいんだって。

「…伏見先輩。あの、厚かましいお願い、していいですか?」
「まあ、内容によるけど」

気怠げな声に思わず苦笑いが零れる。でも、涙は止まらない。段々と口元も歪んできたように感じる。もう、笑えそうにない。顔を伏せて袖を掴む指先に少しだけ力を込めた。

「泣いても、いいですか」

声が震えた。肩も震えた。きつく閉じた瞼も震え、痛いくらいに噛み締めた歯も口も震えた。内から出てくるものを押さえ込むことが出来ないとでも言いたげに全身が震えていて、そんな身体にもう一人分の体温が加わった。

「泣けよ。好きなだけ」

袖を掴んだ指は離れなかった。ただ、頭の後ろに回された手が私の額を胸に押し付ける。あったかい。誰にも崩れた顔を見られないようにその暖かくて、思っていたよりも厚い胸にすがりついた。

「先輩のせいですから…っ、ぜんぶ…」
「…人のせいにするなよ」
「だって、悩んだんですっ…どうすればいいか…、ッわかんなくて」
「はいはい。分かったから」

泣くならちゃんと泣け。耳元で言われた言葉に私は声を上げて泣いた。





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