nowhere | ナノ


▼ 46


今、何時だろう。夜だろうか朝だろうか、それとも昼だろうか。

カーテンを閉め切った室内は暗くて日の光を入れようとはせず、時間感覚を忘れさせる。時計を見るのも億劫で、ただベッドに凭れかかって時が過ぎていくのを待っていれば、いつの間にかシーツはぐしょぐしょに濡れていた。

このまま自分も流れて消えてしまえればいいのに。そうすれば、もう何も考えることも感じることもなくなるのに。奇妙な爆発は未だに収まることがない。身体が熱くて、気持ち悪くて、制御できない感情に脳みそが溶けそうで。

消えてしまいたい。目を閉じて、そう願う。だが、それを拒んだのはドアが閉まる大きな音。ハッとして瞼を上げれば視界に入ったその姿に胸の内に宿る獣が暴れ出し、それを押さえつけるように縮こまって、だけど動揺を堪えることはできずに声を震わせた。

「どうして…」
「他の奴らが、お前の様子がおかしいって言ってたから」

咄嗟に思い出したのは淡島副長の言葉。あの時あの場所にいなかった伏見先輩にも誰かが零したのだろう。絶対に知られたくなかったのに。この人の前でだけは気丈に振る舞っていたかったのに。人知れず、苛立たしげに唇を噛む。

嘘を吐くなと言われた。俺には本当のことだけを言えと、本心のままでいろと、そう言われた。私だってそれを貫きたい。素顔のままでいたい。だけど、知られたくないことだってある。どうしても隠し通したいことだってある。

「ッ、来ないで…っ!」

拒絶の意思を口にした途端、視界が赤に染まった。声を出す暇もなく自分の身体が赤い何かに包まれる。燃やされる、と咄嗟に思って目を瞑ったけれど熱くない。痛みもない。そうして気づく。燃やされるのではなく、自分自身が燃えているのだと。

赤い力を制御することなんてできる筈もなく、ただ怯えながら蝕まれていくだけ。それでも、と震える身体を両腕で抱きしめる。無駄だとは分かりながらも、どうにかして抑えつけたかった。だって、絶対に見られたくなかったから。

近づく足音にハッとして顔を上げようとしたが、それより先に肩を掴まれて胸元に手をかけられていた。その瞬間、悪寒のようなものが全身をビリビリと駆け巡る。駄目だ。いけない。本能的にそう察して隊服にかけられた手を止めるために掴んだ。

「い、いや…やだ…ッ」
「暴れんな」

冷めた声。冷めた視線。肩をビクリと揺らして動けなくなる。怪我したくないだろ、と感情の読めない声色で言葉を続けられて背筋が凍りついた。全身から滲み出た嫌な汗は止まらない。

伏見先輩は私が抵抗を止めたのをいいことに躊躇なく服を脱がせていく。ボタンが弾けても止まることのない強引で、荒っぽい手つきに恐怖を覚えて行き場を失くした両手をぎゅっと握りしめる。

そうしている間に服で隠れていた素肌が露わになる。当事者である筈なのに何をされるのか分からず、事の成り行きを見守ることしかできない私の肌に触れた伏見先輩の指は迷うことなく鎖骨へと向かう。そこにあるのは先日唐突に現れた痣のような何か。

「…だからだ」
「伏見せんぱ、っ…いッ…!?」
「だから外に出したくなかったんだよ…!」

皮膚を破り、内側まで届くのではと疑うほど強く立てられた爪に思わず呻き声が漏れた。あまりの痛みに歯を食いしばり逃げようと抵抗するけれど、それを許すつもりはないと言いたげに空いた手で肩を押さえつけられて動けない。

「ぃ、た…っ」
「いつだ。あの時か?周防尊に会って何をした。何をされた。あの人に認められたわけじゃないんだろ?」

まるで埋め込まれた何かを抉り出そうとしているかのように突き立てられる指。痛みで頭の中が真っ白になる。だけど、痛みとは関係なく私には伏見先輩が何にそこまで焦り、怒っているのかが分からなかった。

私が赤の力に呑まれたことを嫌悪しているんじゃない。最終的にはそこに辿り着くのかもしれないけれど、何か違う。もっと根本的なモノにこの人は苛立っている。それは、いったい何なのだろう。分からない。だからこそ、虚しい。

こんなに感情任せになるのは伏見先輩らしくなかった。こんな風に必死になる伏見先輩は見たことがなかった。だから、伏見先輩が何を考えているのか理解できずとも悟った。ああ、私はとんでもないことをしてしまったと。

「ーーーーごめ、なさい…」

どこで間違えたのだろう。私のなにが悪かったのだろう。私は悪くない。私はなにも知らない。失うことが恐ろしく思えて現実逃避に陥って、責任を全て他人に押し付けて自分の潔白を擁護する。わたしは悪くない。それでも、謝らずにはいられなかった。

「わたし、もうここにはいられないですよね…っ…必要、ないですよね」

言葉にして口に出した瞬間、一気に力が抜けた。本当は許してほしい。ここにいたい。だけど、青のクランズマンとして私はやってはいけないことをしてしまった。許されないことをしてしまった。その責務から逃れることはできない。

「わたしのこと、捨てていいですから」

ぐっと涙を堪えて震える声を吐き出しながら微笑む。見捨ててください。切り捨ててください。そして望むことならどうか、罪の色に染まった私をその手で。

「捨てる?俺が、お前を…?」

ふっと胸に突き刺さる痛みが緩む。指が離れて痛みから解放されると同時に拘束もなくなり、束の間の自由を感じた。今なら逃げることができるだろう。突き放して逃げれば楽になれるだろう。でも、動けなかった。

逃げたところで行く場所なんてどこにもない。苦しみながら彷徨うぐらいならいっそのことここで全てを終わらせたい。だけど、降りかかったのは冷たい無慈悲な刃ではなかった。

「…ほんと、イラつく」
「せん、ぱい?」

ベッドの淵に両手をかけられて首筋に顔を埋められる。抱きしめられているわけではないのに酷く緊張した。

そのまま私を手放せばいいのに。そのまま首を締めてしまえばいいのに。なのに、どうしてそんな風に私に近づくんですか。

そう、それはいつもたった一人で佇んでいる筈の貴方がまるで私に縋っているかのようで。

「あ、の…伏見先輩」
「目、閉じろ」

いきなり何を言い出すのかと思っても、どこか切なげな声に私は従うことしかできない。なにをされるか検討もつかず、僅かな不安を残したまま世界から光を消し去り暗闇へと足を踏み入れる。

真っ暗。何も見えない。その中に取り残された私は何色なのか。青なのか赤なのか。それとも何色でもないのか。

「お前は赤って言われた時、何を連想する?」

予想以上に近くで聞こえた声に身体が硬くなる。意識を集中させれば確かに間近に人の気配を感じて、無意識のうちに息を潜めていた。

何かが動く。カチャリと軽い音がする。コツンと額に何かが当たって熱を感じる。吐息が近い。鼻を掠める。そこにいるという実感。安心して流されるように口を開く。

「炎…でしょうか」
「なら、青は?」

赤。青。ぎゅっと両の手を握って胸のうちに渦巻く重たい淀んだモノを押し留める。私は赤と青の狭間に漂っていた。そして、青から赤へと流れていこうとする。それを引き留めるように私の腕を掴んだのは、伏見先輩の手だった。

「水…?綺麗な、川の流れを」
「お前が単純なバカで助かった」

馬鹿にされているのだろうか。説明も何もなく、なんのことだか全く分からない私は不安から瞼を上げようとするけれど伏見先輩は言葉でそれを制した。そのまま固く握っていた手に指を滑り込ませ、繋がる。

「イメージしろ。その青を、水を、秩序を」

分からなかった。今の私に青は残っているのか。その片鱗すら消え失せてしまったのではないか。赤に塗り替えられてしまったのではないか。怖くて怖くて仕方なくて、恐怖で尻込みして前に進めない。

でも、そうして一人で蹲っていた時に差し込んできた温かい光のようなものがあった。真っ暗闇の中で淡い光に包まれて、忘れかけていたものを思い出す。私は知っている。これは、他でもない青の力。

ゆっくりと瞳を開けた先にある世界は真っ青だった。いつの間にか全身から溢れ出ていた赤い炎は鎮まり、その代わりに青い光が全身を包み込む。それでも不安定に揺れる私のそれを助けるように繋がれた指から流れ込む伏見先輩の青と混ざり合い、溶けていく。

その時確かに私と伏見先輩は同じ青だった。その事実がどうしようもないほど嬉しくて切なくて、一粒だけ涙が零れた。

「炎なんて水で消せる。もしその炎が大きすぎてお前の水が足りなくなっても、俺がそんなモン消してやる」

ぐっと握られた指に力を入れられれば、ほんの僅かに胸の奥に残っていた残り火すらも消えていくように感じた。不思議な感覚だった。青から赤に。そしてもう一度、赤から青に。

「お前は青だろ。赤なんて所詮仮初めの道具だ。利用すればいい」
「っ、でも利用なんて、そんなのどうすればいいのか…」

現に今の私は一人では赤の力を青の力で打ち消すことはできなかった。そう考えると自分の身を纏っていた光がふっと消えてなくなる。伏見先輩がいなければ、そのまま呑み込まれていたかもしれない。そんな私に何ができる。顔をそらして卑下すれば、伏見先輩は馬鹿にしたように鼻で笑った。

「お前、ほんとにガキだな。一人じゃ何もできない」
「…知ってます。私は、弱い」

いつの間にか伏見先輩なしじゃあ何もできなくなってしまったんです。寄りかかって生きることしか、できないんです。言葉通りの無力。悔しくて唇を噛み締めて、歪む視界のピントを合わせようと目に力を入れた。

そんな私の耳に入るのは、昔は怖がっていたけれど今となっては当たり前のように感じる舌打ち。それからまた胸元を開かされて戸惑ったけれど、口を開く前に赤くなった鎖骨のあたりを舐められてゾクリとした。

「そんなのは俺が教え込んでやる」

それはまるで獣が仲間の傷口を舐めるような、本能に身を任せた行為のように感じた。ざらざらとした赤い舌で傷を舐めて、刻み込まれた痕を塗りつぶすように吸いついて印を残す。何度も、何度も。

ぺろぺろと身体を舐める姿はどこか扇情的で、それを見下ろすようにして見ている私の唇からは熱っぽい溜め息が漏れた。やっぱり好きだ。どうしようもないほどに好きだ。何があっても離れたくないほど、好きだ。

背中と後頭部に手を添えて軽く抱き寄せ先輩、と掠れた声を出せば唇を話して上目遣いがちに見上げる瞳と目が合う。それがなんだか可愛らしく思えて、自然と口元には笑みが浮かんだ。

「わたし、青を想像した時、本当は水じゃなくて別のものを考えてたんです」

前髪を凪いで、レンズという隔たりを無くした瞳の輪郭をハッキリと見えるように露わにさせて。なんだよ、と眉を潜めて言う姿に苦笑を漏らしながらも、実はですねと頬を赤くさせながら小さな声で呟く。

「伏見先輩の瞳の色も、青だなって」

私のことをジッと見つめていたその青が微かに見開かれたような気がした。私は私でなんとなく気恥ずかしくなって曖昧に笑って羞恥を誤魔化す。だけど、結局私がなによりもこの人に頼りきっている事実は誤魔化せなかった。

「伏見先輩。もし私が自分から赤に染まりたいって言い出したときは、煮るなり焼くなり貴方の好きにしてください」

たとえば、赤の力に溺れたとして。たとえば、青を見限ったとして。たとえば、赤に心を奪われたとして。たとえば、青の力を全て失ったとして。

そうなる時があるとするならば、私は神でも王でもなく、ただこの人に断罪されたい。

だけど、本気で告げた信念と願望を伏見先輩は何をするわけでもなく容易く振り払う。身体を上げて、私と正面から向き合った伏見先輩はさして興味なさげの声を当たり前のように吐き出した。

「そんな日、来るのかよ」

言うなれば、この人は今の私の言葉を信じてはいなかった。むしろ、自分の言葉だけを信じていた。そして、私自身を信じきっていた。ああ、敵わない。首を横に振って否定を示す。いいえ、そんな日は絶対に来ません。

「貴方の色のまま、死なせてください」



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