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▼ 45



なんだか気分が悪かった。吐き気がした。胸のあたりがムカムカして、胸焼けのようなものを感じて仕事に集中出来ない。頭がモヤモヤして苛々した。

この感覚、どこかで経験したような気がする。そう考えて思い出す。ああ、そうか。あの時だ。父さんが死んだ、あの時だ。

ハァと大きな溜め息を吐いて目元を指で挟んだ。気持ち悪い。なんでこういう時に限って。風邪なんてひいた覚えないのに。思わず舌を打ちそうになるのを我慢して目を瞑る。このままだと、このどうしようもない感情をどこかにぶつけてしまいそうな気がした。

結局、私は何もできなかった。本部の情報課の先輩たちが映像の発信源を特定したけれど、犯人はすでに逃走。確保も出来ず、世間にあの映像が広がった。ネットの動画サイトにも上がっているらしい。

腹立たしかった。何もできず、ただ呆然としている間にこの街の人間全員に十束さんの死が知れ渡った。知らなくていい人たちに十束さんの死が知られた。

その映像を見て面白がっている人は必ずいる。そう思うと耐えられない。そして、十束さんが死んだという根本的な現実を受け止める気にもなれなかった。

「天風、大丈夫かよ。顔色悪くね?」
「…平気です。気にしないでください」

声をかけてくれた日高先輩に返した声は自分でもびっくりするぐらい低くくて、感情がなかった。それにまた苛立って溜め息を吐き出す。どうしようもなく泣きたくなって、目頭が熱くなった。それを隠すように俯いて、ぎゅっと拳を握りしめた。

どうしてですか、十束さん。どうして死んだんですか。どうして殺されたんですか。おかしいでしょう、こんなの。十束さんが殺される理由なんてどこにもないじゃないですか。あんなに優しくて、あったかくて――――そんな人がどうしていなくならないといけないんですか。

受け入れられる筈がなかった。だって、あの日、十束さんは確かに私の前にいて喋って笑っていた。そこにいたんだ。なのに、今はもういない。当たり前だと思っていた存在するという現象が唐突に消え失せた。そんなこと、信じられるわけがないでしょう。

真っ暗な感情を抑え込むように震える息を吐き出す。そんな私を見て、日高先輩は苦い顔をしながらも現実を突きつけた。

「さっきの映像、どうやら赤のクランが流したもんらしい」

なんか、犯人を探してるらしいけどな。そう後に続いた言葉なんて私の耳には入らなかった。赤。その言葉を聞いた瞬間、自分の中にいる何かが震え上がって目をギラつかせた。デスクを叩いて椅子が倒れるのも関係なしに立ち上がる。そうして唇を割って出てきた獣は、理性を飛ばして本能のままに咆哮した。

「な、んで…、なんでそんなことをする必要があるんですか。人が死ぬ瞬間ですよ…?それを垂れ流して何の意味があるんですか!?」

脳裏を繰り返し過ぎるのは拳銃を向けられ、発砲され、十束さんが倒れるまでの一連の出来事。死んだ。十束さんは死んだ。死んだんだ。話せないんだ笑えないんだ。もう、会えないんだ。

どうしてこんなに私が怒る必要があるのか分からない。ただ、どういうわけか父が死んだ時と同じ、またはそれ以上の怒りと悲しさと虚しさが今の私を蝕んでいた。

自分がとんでもないことを先輩に向かって叫んでいたことに気付いたのは室内がシンと静まり返って全員の視線が私に向けられ、しばらくしてからのことだった。ハッと我にかえれば日高先輩は本当に驚いたように目を丸くさせ、私を凝視している。他の先輩たちもそれと同じだった。

「す、すみません!軽率な発言でした。頭、冷やしてきます…」
「天風」

慌てて謝れば後ろから声をかけられて背筋が凍る。淡島副長の、静かな声。逆上した私には似つかわしくないもの。それが無性に恐くて、嫌な予感がした。確かに淡島副長は厳しい人だと分かっているから怒られるかもしれないということは重々承知している。だけど、それ以上に――――

「貴女、今日はもういいわ。上がりなさい」
「っ、体調が悪いわけではないです。大丈夫ですから」
「そうじゃない」

即座に切り捨てられた私の言葉。恐れと、それからまだ残留し続ける怒りで身体が震えた。その先の言葉を聞きたくない。そう願っても、それが淡島副長に届くことなんてない。

静寂に包まれた室内に響いた凛としたその声は私を恐怖と絶望のどん底まで突き落とした。

「私情を持ち込んでここにいられても邪魔なだけだ。自室に戻れ、天風」

今の私に必要性はない。存在価値はない。存在理由もない。邪魔という言葉がぐるぐると頭の中を回って、私がここにいる意味を無くしたという結論を導き出す。緊張していた身体から一気に力がなくなった。モヤモヤしていた頭の中がスッと晴れた。

あのバーで中心のようになっていた十束さんは、きっと私とは違った。たくさんの人から惜しまれる存在だった。十束さんが死んだという知らせを聞いて、彼らは泣いたのだろうか。草薙さんは、美咲くんは、今頃どうしているんだろうか。

何も分からない。だけど、これだけは分かる。私はもう、ここにはいられない。

「あ、淡島ふくちょ…!いくら何でもその言い方…って、おい天風!?」

私を止めようとする日高先輩の手を振り払って押しのけて、何も言わずに飛び出した。ドアが叩きつけられるように閉まったけれど、そんなのどうだっていい。むしろ自分の中にある苛立ちをそこに聞いたような気がした。

どうやって自室まで行ったのかは覚えていない。走って走って、気付いた時には部屋にいて風呂場に駆け込んでいた。浴槽に手をついて、口を手で押さえる。お腹にあるものを全て吐いてしまいたい。そうすれば、この溜まっている思いも感情も何もかもが消えると思った。

でも、そういう時に限って身体は嘔吐を拒絶する。このまま喉に手を突っ込めばいいのだろうか。そうすれば楽になれるのだろうか。

きっと、違うのだと思う。吐いたところで楽になんてなれやしない。所詮は気休めで、またすぐに真っ暗闇に呑まれることになるのだろう。

「、なんで…?」

声が震えて、堪えていた涙が溢れた。十束さんがいなくなって、よく分からない感情に襲われて、挙げ句の果てには上司には不必要と言われる始末。

なんで、どうして。悲しさと怒りと苛立ちと戸惑いとで爆発しそうになって、握りしめた拳を思いっきり叩きつけた。

「なんで私ばっかりこういう目にあわないといけないの!?もう訳分かんないよッ!」

どうして私だけが?どうしてこんな気持ちに?どうして他の人は私と同じようにはならない。私は何もしていないのに。私は、悪くないのに。

痛みなんて気にもならなかった。ただ、この理不尽な世界を呪った。喉が割れそうになるほど大きな声で叫んで自分の気持ちを吐き出して、そして目を疑った。

「なに、これ…」

叩きつけた手を持ち上げて、頭を横に振った。嘘だ嘘だウソだウソだうそだうそだ。ヒステリックのように何度も何度もそう繰り返し呟いて、でも目の前の光景は変わらない。ガタガタと全身が震えて、ただただ自分以外の全てを憎み、恨んだ。

まるで自分のものではなくなったかのように感じた腕は色を纏っていた。それは、私が持ち合わせている筈の青ではなかった。赤だった。真っ赤な、炎のような、そんな赤の力。違う。嘘だ。私は、青い。青い筈なんだ。

揺らぐ赤を見ながら私は声もなく涙を流すことしか出来なかった。ああ、もう、駄目だ。何もかも終わりだ。直感でそう感じた。私は私ではいられない。元には戻れない。

「…もう、いや…、たすけて…」

うずくまって膝に顔を埋める。真っ暗になった世界には、私以外に誰もいない。何もなかった。



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