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▼ 43


ぼーっとして足をぶらぶらと投げ出しながら天井を見上げた。朝と何も変わらない光景。何も変わらない空気。それを何も変わらないと感じている私も、きっと朝の私と何も変わっていない。そのことに気がついた時、ついさっきまでの恐怖や不安が一気に払拭されたようでホッと安堵の溜め息を吐いた。

目が覚めた時、伏見先輩はそばにいてくれた。私は私のままだった。胸の底にあったわだかまりも嘘のように消え、気分も良くなった。どうやらあの時感じた全ての不安は杞憂に終わったらしい。

ただ、時々何かがざわつくような感覚は消えないままだった。それが少し気懸かりではあるものの、それ以外に大きな変化は何も見られない。だから、その小さなしこりを気付かないことにした。忘れることにした。それはやはりまだ恐怖が残っていたからかもしれない。

「…シャワー、浴びないと」

シンと静まり返った部屋の中でぼやく。ずっとぼんやりとしていたからお風呂に入るのを忘れていた。もう夜も遅いからシャワーだけにしよう。そう思って風呂場へと向かって服を脱ぎ捨てる。なんだか、とても疲れていた。

別に戦ったわけではない。特別大変な仕事をしたわけでもない。それなのに、怠い。風邪の時とはまた違った症状に自分でも戸惑いながら、きっと大したことはない。ぐっすり寝て明日になれば元気になっている。そう思い込ませることしか今の私には出来なかった。

頭上から降ってくる水が髪を濡らし、素肌を濡らし、流れ落ちていく。そのまま疲れも流し去ってくれればいいのに。そんな現実的には無理なことを考えながら今日のことを思い返す。波瀾万丈。その一言で片付けてしまうのは間違っているかもしれないけれど、たくさんのことを見た。

王同士の戦い。ダモクレスの剣。それから――――

「赤の王、かぁ…」

密室に呟き声が響く。初めてだった。宗像室長ではない王を目の前にしたのは。見た目は宗像室長と同い年ぐらいの普通の人。だけど、明らかに常人とは違う雰囲気。戦ったわけじゃない。前に立っただけだ。たったそれだけなのに圧倒的な何かを見せつけられ、私は動くことすら出来なかった。

それじゃあ、駄目なのに。いざという時どうするつもりだったんだ、私は。他の先輩に助けられるつもりだったのか。壁に手をついて俯く。水が鼻筋を、顎を、唇を滑りながら落ちていくのを見ながら頭を横に振った。このままだと、何も変われない。

変わらないと駄目だ。たとえ王を前にしたって臆することなく戦うことが出来るくらい、強くならないと駄目だ。自分の力に自信を持って、それを行使して――――淡島副長に言われた言葉が一瞬脳裏を過ぎったが振り払う。影響?不安定?そんなの気にしていたら戦えないだろう。

強くなると誓った。伏見先輩の背中を守れるようになりたい。役に立てるようになりたい。そう思って今まで稽古を続けてきたのは誰だ。他でもない私自身だろう。なら、恐れるな。顔を上げて蒸気で曇った鏡を手で擦る。そこに映し出されたのは強い眼差しを持った私だ。

「、え?」

だけど、見慣れないものが写り込んで思わず声を上げた。おかしい。鏡に手を伸ばしてもう一度ガラスの表面を擦るけれど、映るものはやはり変わらない。どうしてか、胸が高鳴った。ドクドクと煩いほどの音を立て、身体から出てくるのではないかと錯覚するほどの鼓動。

「なに、これ…」

右胸の鎖骨の辺りにそっと触れた。昨日まではなかった筈の赤い何か。うっすらと滲んだように皮膚の表面に現れたそれは、何かの模様のようにも見える。だけど、どうしてこんなものが?何か付けてしまったのだろうか。そう思って洗い落とそうと皮膚を赤くなるまで擦った。

それから鏡に映った自分をもう一度見つめ返す。歪な赤は、消えてなんていなかった。また心臓が大きな音を立てて揺れ始める。なんで。どうして。呆然としながらもう一人の私を眺め、笑う。違う違う違う。これは異変なんかじゃない。ただの、日常的な変化だ。

「痣、かな…?」

声は少しだけ震えているように思えた。そんな自分を叱咤するようにぐっと拳を握りしめた。大丈夫、痣だ。どこかにぶつけたか引っ掻いたかしただけの、単なる傷だ。それ以上でも、それ以下でもない。

だけど、それはどこかで見たことのあるもののような気がした。でも、どこで?分からない。思い出せない。浮かび上がったかのように唐突に姿を見せたそれ。嫌な予感がした。胸の内に巣くった悪魔が微笑んだような気がした。

「…まあ、いっか」

それでも、その僅かな予感を見て見ぬフリをした。だって、認めてしまうことが恐かったから。



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