nowhere | ナノ


▼ 42



それはまるでその人自身の力を表すと同時に心情や状態すらも如実に表しているような、そんな出で立ちをしていた。一方は厳格に、一方は不安定に。まるで正反対。だから、はっきりなことを言ってしまえば少し安心したのだ。ああ、赤よりも青の方が強いのだと。そう、錯覚したのだ。

「終わった…?」

双方のダモクレスの剣が空から消えたのを見て思わず溜め息混じりに呟いた一言。クラン同士の衝突が幕を閉じた。どちらが勝ったのだろう。状況はどうなっているのだろう。そんな疑問が浮上しようと、外で傍観している人間には想像することしか出来ない。

私はビルの前にいた。情報車では隊員たちが忙しなく働いていて、だけど私は元から特務隊の人間で情報課には所属していない。もちろんデスクワークぐらいなら人並みには出来るけれど、ここは屯所じゃない。戦っている人たちを命懸けでバックアップする場所。まだ経験も浅い私に出来ることなんて何もなかった。

邪魔になるのは嫌だった。だから、伏見先輩にも気付かれないようにそっと抜け出した。そして今、目の前に立ちはだかる高層ビルをぼんやりと眺め、自分の無力さを思い知り打ちのめされる。今の私には本当にやれることがない。たとえ戦うことが許されたってやっぱりまだ足手まといのまま。中途半端で嫌になる。

溜め息を吐き出して、両手の拳を握りしめた。その時だ。建物の入り口が開いて宗像室長を筆頭に、見覚えのある青い服が姿を現したのは。ハッとなって顔を上げてそれを視界に入れ、その青が誰一人欠けていないことに安堵する。良かった。勝ったんだ。ホッと息を吐いて、そして右手を上げた。

「お、お疲れ様です、宗像室長」
「ええ、天風君もご苦労様です」

相変わらずの穏やかな声はつい先ほどまで戦っていた人間とは思えないほど落ち着いていて、一瞬中では何も起きなかったのではないかと疑ってしまう。だけど、確かに私は二つのダモクレスの剣が空に浮いているのを見たのだ。戦いは間違いなく起きた。だけど、そんな様子が一切なくて。

「あの、状況の方は…?」
「大人しく王の拘束を許してくれました。クランズマンはまだ中にいます」

思わず聞いてしまった私に宗像室長は隠すことなく答えてくれたけれど、咄嗟に内容を把握することができなかった。大人しく王を引き渡した?暴力で知られる赤のクランが?私自身、対峙したことは一度もないから勝手なことは言えない。それは分かってる。だけど、何か裏があるようにしか思えない。

どうして。そう考えようとした私の視界に写り込んだモノに一瞬で意識を持っていかれることになった。その時私を支配していたものはいったい何だったのだろう。恐怖か焦燥か、それとも高揚か。ただ、一つだけ言えることがある。私の意識は、興味は、たった一人の男にだけ向けられていた。

「赤の、王…」

震える声で呟くようにして口から零れ落ちた言葉。たくさんの青の中に一つだけ存在する赤。宗像室長ではない王を初めて目にした私だったけれど、この男が赤の王だということぐらい一目で分かった。格が違う。そこにいるというだけで威圧され、呼吸の仕方すらも忘れそうになる。

そんな下賤な民の私と王として君臨する男。どういう訳か、視線がバチリと交わった。

「…そうか。お前か」

何がだ、なんて考えられなかった。頭の中が真っ白になって脳が動きを止める。声が出ない。指一本動かせない。瞬き一つ出来ない。視線が外せない。身体中から気持ち悪いくらいの汗が噴き出して止まらない。だから、私に向かって伸ばされた手を叩き落とすことも振り払うことも出来なかった。

ほんの一瞬のことだった。赤の王の指先が私に触れた。刹那、全身の毛が弥立ち、何かが奥底で爆発したような感覚に襲われる。途端に沸き上がってくる赤くて黒い、土石流のような感情と吐き気と熱い何か。なんだ、これ。頭の中がぐるぐるになって倒れてしまいたくなる。だけど、目と目がそれを許さない。

「…なるほど。コイツはとんだ劇薬だな」
「何をしている、周防。身勝手な行動は…」
「別に何もしてねぇよ、俺は」

触れたのはほんの一瞬のことで、その後は宗像室長と赤の男のそんなやりとりが続けられて。ようやく視線が外れて男は私の前を通り過ぎる。何もなかったかのように、私の前には誰もいなくなる。事後処理の喧騒。それでも私はまだ動けずにいた。

変だ。おかしい。いつもと自分がどこか違う。身体が熱くて脳みそが熱くて、気持ち悪い。ドクドクと血液が流れていく。世界がぐにゃりと曲がって、もう何も見たくない。何も聞きたない何も感じたくない。

そんな私の視界が突然真っ暗になって、音が遮断される。後ろから現れたたった一人の手のひらと、聞き慣れた声によって。

「奴の目を見るな。呑み込まれるぞ」

特にお前みたいな奴はな。付け加えられた言葉にはどこか苛立ちが混じっているように感じた。私にはその意味がよく分からない。けれど、それでもいい。どうだっていい。真っ暗闇で無音で無感動な世界であれば、今の私はそれでいい。

全身から力が抜けてストンと地面に崩れ落ちた。ようやく身体が動くようになって震えながらも口に手を当てる。何もかも吐き出してしまいたかった。だけど、それを理性が拒む。ガタガタと肩を揺らして必死に堪えて、そんな私の姿は周りから見れば酷く滑稽なものだっただろう。

「、渚?どうした?」

でも、恐くて恐くて仕方がない。おかしいんだ。絶対、何かが。でも、その何かが何なのかが分からない。それがどうしようもなく恐ろしい。まるで自分が自分の知らないうちに別物になってしまったようで。もう元には戻れないような気がして――――……

「…チッ、おい渚!」
「ひッ!?す、すみませんすみません!」

肩を掴まれて無理やり振り返らされて怒鳴られて。あまりにも理不尽の行動だったけれど、別のことに気を取られていた私は瞬間的に謝り続けていた。すみません。私が悪かったです。だから、助けてください、と。きっと最後の言葉の意味は伝わらなかったのだろう。伏見先輩は訝しげに私の額を裏手で叩いた。

「なに謝ってんだよ、この馬鹿」
「いつっ!、ご、ごめんなさい…」
「だから何で謝ってんだよ」

その問いかけにすぐに答えることが出来なくて、言葉を詰まらせる。怖かったからです。そう言ったところできっと私は救われない。自分自身でも何が恐くて、何がおかしいのか分かっていないから。

「何でも、ないです。ちょっとびっくりしただけです」

だから、誤魔化すことが正しいと思った。それが私にとっても先輩にとっても一番の答え方だと思った。狡い。そう分かっていても、隠さなければならないと直感した。ごめんなさい、と眉を下げて笑う。そうすれば引き下がってくれると私は本気で考えていたのだろうか。

「誰が嘘言えって言った」
「、え…?」
「それで隠してるつもりか?バレバレなんだよ」

本当は、期待していたのではないだろうか。こうして伏見先輩が私の嘘を見抜いてくれることを。踏み込んできてくれることを。この言いようのない恐怖と嫌悪と孤独感に気付いてくれることを。顎を掴まれて顔を寄せられる。抵抗なんて出来る筈がなかった。

「言え。周防尊に何をされた」

冷たくて鋭い声色に不思議と恐れはなかった。それどころか真っ青な瞳を見て、酷く安心した。そうして世界は赤から青へと変化する。ぐちゃぐちゃになって霞んでいって涙が止まらなくなる。急に泣き出した私に伏見先輩はぎょっとしたように手を離したけれど、私は構わず涙を流し続けて溜まっていたものを吐き出した。

「よく、分からないんです。でも、なんだか、こわくて、変な気分になって、気持ち悪くて…っ」

途中からは完全に自分の体調のことになっていたけれど、それでも止まらない。しゃくり声も混ざりながら勝手に吐き出して、いったいどれだけの迷惑を先輩にかけているのだろう。でも、楽になりたかった。聞いてほしかった。受け入れてほしかった。

ひとしきり全てを包み隠さず告白して、すんすんと鼻を鳴らし、ごしごしと手の甲で目元を擦って涙を拭う。それから、笑った。急に泣き出してすみません。気にしないでください。そんな私を見て伏見先輩は溜め息を吐き出す。そして、急な訪れた浮遊感に思わず声を上げた。

「わっ!?ふ、伏見先輩!?」
「もうここに用はない。戻るぞ」

しゃがみ込んでいた時よりも幾分か視界が上がり、そのくせ平行だった筈の伏見先輩との目線は離れた。しばらく何が何だか分からなかったけれど、膝裏に入れられた手の感覚と触れ合う身体の近さから状況を理解する。と同時に顔が燃え上がるほどの熱を持った。

「わ、私は一人で歩けますから!だから…!」
「腰抜かして立ち上がれなくて、挙げ句気分が悪いですとか言ってたのはどこのどいつだよ」
「うっ…」

何も言えない。伏見先輩の言ったことはどちらも的を射ている。きっと今の私は自分で立ち上がって歩こうとしたってできない。しばらく待たないと足に力が入らないだろう。吐き気までとはいかないけれど気分が悪いのも嘘ではない。このまま動くことは億劫だと自分でも分かっていた。

だけど、だからと言って抱き上げなくたって。俵を抱えるみたいにしてくれたりすれば良かったものを。他の人の目もあるのに、どうして。内心、先輩にとってら理不尽であろう悪態を吐きながら、どうしようかと視線を右往左往させる。だけど、私の心情なんてお見通しなのだろうか、伏見先輩は私を見ることなく舌を打つ。

「大人しくしてろ。暴れたりしたらこのまま落とすからな」

少し苛立ったように吐き捨てられた言葉に私は縮こまることしか出来なくなる。この人ならやりかねない。勘に触ることをすればきっと躊躇なくこの手を離す。それを想像すると抵抗する必要性を感じられなくなる。いや、もしかするとそんなものは最初からなかったのかもしれない。

もう気力なんてほとんど残っていなかった。疲れた。気持ち悪い。それを自覚した瞬間に今まで頭の隅に追いやっていた精神的な疲労が込み上げてきて、諦めて頭を胸に預けて目を閉じた。ああ、なんだかすごく眠い。

「最初からそうしてればいいんだよ、バーカ」

そうだったのかもしれない。だって、こんなにも苦しいのだから。だけど、そうすることが出来なかったのはきっと恐かったからだ。目を閉じてしまった後、意識をなくしてしまった後、果たして私は私として存在出来ているのか。この身体の奥の方で燃えている何かに呑み込まれてしまうのではないのか。

「、伏見先輩」
「なに?」
「…っ、伏見せんぱい、ふしみせんぱい、」

薄れていく意識の中で私は意味もなくその名前を譫言のように繰り返した。服をぎゅっと握って離さないようにして、次に目が覚めた時も伏見先輩がすぐそばにいてくれることを願った。

私は私のままだ。その証拠が、何よりも欲しかった。



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