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▼ 38



むむ、と唸りながら指先に神経を集中させる。揺らさないように全身に力を入れて左手をぴんと張って、ピンク色のエナメル液のついた筆を持つ右手を左手の爪に近付ける。やっぱりどちらの指も僅かに震えていた。それでも、とより一層身体を固くさせればなんだか肩が痛くなってくる始末。集中、できない。

「…くさい」

そして、隣から聞こえてきた声で完全に集中力は途絶えた。一気に身体中から力が抜けていって脱力。肩凝った。首を軽く左右に傾ければ、なんとも言えない音が鳴って眉を寄せる。それから顔を横に向ければ、本から目をを上げた伏見先輩の不機嫌そうな顔と鉢合わせることになって自然と縮こまる。

「す、すみません。もう少しで終わりますから、ちょっとだけ我慢してください」
「とか言いつつその状態、一向に変わってるように見えねぇんだけど」

そう言われて手元に視線を落とす。磨いてツルツルになって、だけどそれ以降は手が施されることなく普段通りの白っぽいピンク色。確かに数分前から何も変わっていない。おかしいですね、と真顔で首を傾げれば容赦なく頭を叩かれた。い、いたい。

「お前、爪の手入れするのにどんだけ時間かけてんだよ」
「えと…、ざっと一時間ぐらいですかね。いつものことですけど」
「馬鹿か」

今日の伏見先輩はいつも以上にズバズバとものを言ってくるような気がする。そんなに嫌なのだろうか、この匂い。確かにアルコールというか薬品のような臭いが部屋に立ち込めているのは感じるけれど、何度も経験している私は慣れてしまっているのであまり気にしない。ただ、そういった経験のない伏見先輩はそうではない。

もう一度すみませんと肩をすぼめれば舌打ち。なんで女ってそんなめんどくさいんだよ、と愚痴にも似た声を漏らすのを聞いて私には苦笑しか出来なくなる。確かに面倒くさい。男の人は何もしなくてもいいけれど、女は素の自分よりも綺麗になりたいという本能的な願望があるから、そうも言っていられないのだ。

「一時間も爪にかけてる暇あるなら別のことやった方がマシだとか思わないわけ?」
「だって、変になったら嫌じゃないですか。そう思うとなかなか塗れなくて…」
「あー、はいはい。分かったからさっさと終わらせろ」

鼻が曲がる。そう言って顔を歪める伏見先輩は本気でこの臭いが嫌いらしい。でも、この臭いを長時間嗅いでいたら気持ち悪くなってくるのも事実だ。こうなったらもう思い切ってやってしまおう。そんな決意を抱いてまた爪に筆を近付けた。

だけど、やっぱり何故か指は震えたままだった。意識しすぎなんだろうか。もっと軽い気持ちでやった方がいいんだろうか。そんなことを考えていたら今まであまり気にしていなかった筈の臭いが気になって気分が悪くなってきた。さらには、早く終わらせろという視線を横から感じて堪えきれなくなってヤケになる。ええい、どうとでもなれ!いざ!

「…あ、」
「へたくそ」
「うぐっ…!む、難しいんですよ!」

ずれた。まっすぐ塗れなかった。出だしから躓いてがっくりと肩を落とす。ここから修正したら二度塗りで汚くなるような予感。でも、これじゃあ不格好のままだから何とかしなくては。ゆっくりと震える手でマニキュアを塗っていく。息が、詰まる。

「チッ、ほんとにめんどくせぇ…」
「わ、分かってますから!早く終わらせますから焦らせないでください!」

これ以上変なことになったら厚塗りになりすぎて修正不可なんですから。それだけ言ってあとは黙り込み、目の前にある指にだけ意識を寄せる。いつになく真剣だと自分でも思った。たかが爪の為にこんなに精神力を削ることになるなんて。馬鹿みたいだとは思うけど、これもきっと女という人種の特権なのだろう。

カチカチと時計の針の動く音だけがした。他の音は何もない。伏見先輩も読書に戻ったのか、何の反応もなくて、ただ臭いだけが部屋の中に充満していく。頭がぐるぐるとしそうな臭い。換気は徹底してくださいとある注意書きは今のところ無視だ。全部終わってからしますから。そう考えてどれだけ経ったのだろう。耐えかねたように伏見先輩が溜め息を吐いた。

「…ハァ。おい、渚」
「待ってください。あと指三本と片手分ですから」
「全然進んでねぇな」

ぐさぐさぐさ。飛んできた弓矢の鋭い鏃が私の心臓部に突き刺さる。これだけ時間をかけて、まだ二本指しか終わっていないのだから馬鹿にされても仕方がないのかもしれないけれど、私も必死なんですよ。叫びたい衝動を我慢して心を落ち着けようと深呼吸。そんな私の手から伏見先輩はピンクの液体の入った小さな瓶を奪い取った。

「あっ、伏見先輩、駄目ですよ!まだ終わって…」
「こっち来い」

伏見先輩が自分の前を指差す姿を見て、きょとんとなった。私、隣にいますよ?そう言って首を傾げると、いいから早くしろと眉を寄せて急かされたのでいそいそと膝立ちで動きながら先輩の足の間に移動する。それから向かい合って、沈黙。先輩?と声をかければ少し不機嫌そうな短い声が飛んでくる。

「逆」
「え?」
「背中こっちに向けて顔はあっち」

はあ、と煮え切らない返事をして身体を反転させれば突然後ろから抱き込められて肩が跳ねた。なんで急に。腰にまわされた腕にびっくりしながら内心何かされるのではとビクビクする私の耳に吐息がかかる。僅かに声を漏らして身を捩らせようとすれば、動くなと耳元で低い声が聞こえてきて固まった。

「あ、あのっ、伏見先輩…?」
「ちょっと黙れ」

そう言って私の手を取った伏見先輩は迷うことなく私の爪にピンクを滑らせた。何の気負いも見せないその行動に少し驚いて、だけどまるで剣を凪ぐかのような素早さと正確さにただひたすら目を奪われる。別にどうということもない。ただ、マニキュアを塗っているだけ。でも、そこに伏見先輩らしさを見たような気がする。

なんとなく冷たい何かが皮膚の上に張り付いた爪に触れ、広がっていく感覚。誰かにやられるとそれがとても不思議なことのように感じる。そんなことを考えているうちに右手はピンクに染まり、左手もあっという間に塗り終えてしまう。はい終わり、と言われて手を離された時には私の指は数分前とは別物になっていた。

「わっ、すごい綺麗…。先輩、器用なんですね」
「お前が不器用すぎるだけだろ」

呆れたように言われるけれど、そんなことはない。確かに私が不器用なのも理由の一つにはあるかもしれないけれど、伏見先輩は普通の人よりも手先が器用だ。だって、こんな簡単に且つ綺麗に出来るなんて。羨ましいと溜め息を零す私の肩に顎を乗っけた伏見先輩は面倒くさそうに口を開く。

「で、お前はなんでこんな女々しいことしてんの?」
「…うっ、酷いですね。私も女ですよ?出掛ける時はこれぐらいします」

乾かすために手をパタパタと振ったり息を吹きかけたり。そんなことをしながら明日のことをぼんやりと考える。ここ最近、忙しくて全然休みを貰うことが出来なかったけれど明日は珍しく非番なのだ。

「久しぶりの休みなんです。楽しまないと」
「楽しむって、何して」
「そうですね…。ショッピングしたり友達とお茶したり、いろいろとしたいなって思ってますけど」

実際、友人とは連絡を取っていないから明日は買い物だけかな、と一人明日の予定の想像に耽っていれば、お前友達いたのか、という声が横からしてむっと頬を膨らませる。当然でじゃないですか。一応ですけど、ここに配属される前までは私も普通の高校生だったんですから。

「意外と世渡り上手なんですよ、私。友達は男の人も多いんです」
「…へぇ?」

あ、乾いたかな?なんて思いながら爪に触れようとした私の手を伏見先輩はさっきよりも少し強い力で掴んだ。驚いて横を見れば私の顔を覗き込んでいる青い瞳と目が合う。やっぱり、少し不機嫌そうな色。どこか苛立ちを含んだ、黒とは言わないけれど灰色がかったそれ。

「伏見、先輩?」
「…なんかそういうのムカつく」
「え?そういうのって…、どういう、ッ!?」

手を持ち上げられたところまでは理解できた。でも、指に噛みつかれたところからは混乱による思考停止で何をされているのか分からなくなった。何がどうなっているの。ザラザラとした舌が指の腹をゆっくりとなぞる感覚に息を呑む。思わず出掛かった声を慌てて空いた手で口を押さえることで止めた。

自分の身体はそんなに熱くない。だけど、伏見先輩の口内は熱い。いや、実際はそんなことはなくても、ただ私が過敏に感じとっているだけなのかもしれない。指先を舐めて、柔らかく噛んで。それだけでは終わらずに手のひらも手の甲も指と指の間も舐められていく。その度に見える先輩の赤い舌がどうにもいやらしく見えた。

「っや…、伏見、せんぱ、い…」

身を捩って伏見先輩の胸に頭を押し付けて、震える手で口を押さえるけれど声は漏れ出して止まらない。それに満足したのか伏見先輩の口元が楽しげに歪む。わざとらしいリップ音を奏でて唇が指先から離れれば、濃いピンク色に彩られた爪が唾液のせいで更に艶やかに見え、羞恥で顔が真っ赤になった。

「…〜ッせ、先輩っ、急に何して…ッ!」
「舐めて」

非難の声を上げようとした唇にそっと人差し指が触れた。手入れなんてされていない。だけど、綺麗な細い指。何も言えなくなる。見下ろしてくる瞳から目を離せなくなる。何も考えられなくなって恥ずかしさとかも消え去って、力が抜けた。

「舐めて、渚」

返事をする前に軽く開いた唇の間から指が入り込んできてくぐもった声が出た。何がなんだか分からなくて目を大きくさせていれば、爪が舌先に当たって反射的に舌を中に引っ込める。舐めるって、どうやって?さっき伏見先輩がやったように?自分がされていた時のことを思い出して少し鼓動が早くなった。

見様見真似だけど、と恐る恐る舌で指に触れた。それから滑らせたり、絡めたり。時には這うようにして舐めてみたり、吸い付いてみたりとするけれど、本当にこれで合っているのかどうかも分からず、不安になって視線だけを上げた。

「…んっ、」

瞳を伏せて、小さく声を漏らす伏見先輩にキュンとする。いつもは私が受け身だからか、なんだかこういう状況はとても珍しい気がする。そんなことをぼんやりと考えながら見上げた先にある瞳が僅かに開かれた。だけど目が合った瞬間、あからさまに視線が外される。

「、もういい、渚」
「ふぇ?…んむっ」

唐突に指を引っこ抜かれて間抜けな声が出た。なんだか呆気ない。普段の先輩ならもっと何かとんでもないことを要求してきそうなのに。そう思って、あれで良かったんですか?と首を傾げて尋ねる。そうすれば伏見先輩は舌打ちをして、ぼそりと小さく呟いた。

「…あんまやると、抑え効かなくなる」
「えっ?」
「お前は休みでも俺は明日も普通に仕事あるんだよ」

そう言って大きな溜め息を吐き出す伏見先輩を見て複雑な気持ちになった。そうか、休みなのは私だけなんだ。罪悪感と、それからほんの少しの虚無感。それを感じた時、どんな形であってもこの人と一緒にいる時が何よりも楽しくて、幸せなのだということに気付く。

「や、やっぱり私、明日は最低限の用事を済ませたらすぐに戻ってきます。それで先輩のこと、手伝いますから」

だから、今度一緒にどこか行きましょうね。気付いた時にはそう口にしていて、だけど言ったことに後悔はなかった。そんな私のことを伏見先輩はジッと見つめて、また盛大な溜め息。それから急に首筋に噛みついてきた。瞬間、感じた小さな痛みに状況を理解して声を上げる。

「え、ちょっ、どこに何してるんですか!?そこ、隠せないじゃないですか!」
「隠れないところに付けたんだから当たり前だろ」

なに馬鹿なこと聞いてんだ、と平然と言われて顔が熱くなる。これじゃあ他人に見られる。誤魔化せない。どうしよう、と顔が真っ赤になっていくのを感じながら俯けば喉を鳴らして笑われて。放り出された私の手を取った伏見先輩はそのまま指を絡めて私の身体を引き寄せ、耳元に唇を近付けて囁いた。

「虫除け。悪い奴に捕まんなよ」

頭がクラクラするのは、きっと部屋中に立ち込めたマニキュアの臭いのせいだけじゃない。




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