nowhere | ナノ


▼ 37


誰かに名前を呼ばれたような気がした。透き通っていながらも、奥底まで沈んでいくような不思議な声。耳に響いて、頭に響いて、骨に響いて、内臓に響いて、そして心臓に辿り着く。何かを呼び覚まそうとしているかのような声は叫ぶようにして私の名前を呼んでいた。

それが誰のものなのか、ハッキリとはしなかった。大切だった父親の声だったような気がする。大好きだった姉の声だったような気もする。昔の友人のような気も、先生のような気も、はたまた赤の他人の声だったような気もする。そして、聞いたこともない筈の母親の声かもしれないと思った時、反響していた音は鳴り止み、真っ暗闇だった世界が色付いたような気がした。

「渚」

ごめんなさい、と小さく笑う。結局、私を世界を暗闇から引きずり出してくれるのは、私にとって一番の存在というのは、父でも姉でも母でも、ましてや友人や教師、他人でもなかった。こんな親不孝者でごめんなさい。もうどこにもいない家族に謝ってから瞼を上げれば、自分を見下ろす静かな色と目があった。

「…起こしたか」

髪を軽く撫でられながらそう言われ、緩く首を横に振ることで答えを出す。もしこの人が私の名前を呼んでくれていなかったら、あの呼び声の波に呑まれてしまっていたかもしれない。誰かも分からない声に自分を見失っていたかもしれない。ゆっくりと身体を起こせば素肌が外気に晒され、少し寒かった。

淡いランプの光が時計を照らしている。まだ夜中だ。昨日寝たのは何時だっただろうか。思い出そうとして、すぐにやめる。思い出すまでもないことだった。お腹のあたりをさすれば、くすぐったいような気持ちになって苦笑い。少しだけ、顔が熱いような気がする。

「眠れないんですか?」
「…まあ、そんなところ」
「えと、怖い夢でも見ました?」
「お前と一緒にすんな。ガキじゃあるまいし」

指で軽く額を弾かれる。それもそうだ。怖い夢なんて、こんな年になったらなかなか見ない。怖いものがあるのかさえ分からない伏見先輩なんて、なおさらに。なら、どうして眠れないんですか。そんなことを聞いたところで答えは返って来ないと思った。答えなんて、ないような気がした。

ふと視線を落とせば目についたものがあった。それから、自分自身に少し驚く。どうして今まで気付かなかったのだろうか。確かに服を着ていれば気付くことは無理だろうけど、私は――――行為の最中に気付けなかったのは私に余裕がなかったからなのか、それとも目をそらしていたからなのか。

「伏見先輩、それ…」

手を伸ばしかけて、止めた。触れるのが躊躇われたのだ。そこに何か得体の知れないものを感じたから。私が触れていいものなのか、分からなかったから。それは過去を表しているような気がしてならなかった。私の知らない伏見先輩を知っているような気がしてならなかった。

それはタトゥーのようだったけれど何か違うと本能的に感じ取っていた。焼き消されたような痕の残る赤の紋様。伏見先輩は何も言わない。黙ったまま、私と目を合わせない。興味はある。だけど、それは何ですかと聞くことは出来なかった。

「…痛いですか?」
「別に痛みなんてない。ただ…」

そうじゃない。聞くことが出来ないんじゃない。聞く必要なんてない。そう思った。そう思い込ませた。それはきっと私が臆病だから。当たり前だけど、伏見先輩には私と出会う前の過去がある。私の知らない伏見先輩がいる。その事実を知るのが怖かったから。

「時々、妙に疼く」

伏見先輩はここではない別の場所を見ていた。そこに私はいない。不安になる。怖くなる。消えてしまいそうな気がして、どこか遠くへ行ってしまいそうな気がして。それを黙って見過ごせるほど私は強い人間ではなかった。

気付いた時には私の手は伸びていた。そっと焼き付いた痕に触れれば少しだけ先輩の身体が強張る。そんな姿を見て大丈夫ですよ、と声に出していた。何が大丈夫なんだろうか。誰に向けて言った言葉なんだろうか。自分でも分からなかったけれど、それでも口は勝手に動いていた。

「伏見先輩は、伏見先輩です。それは、私が保証しますよ」

私が私であるように、貴方も貴方なんですから。そんなよく意味の分からな言葉を並べ立てた私は、ただ純粋に怖かったのだろう。この人が自分の傍から離れて行ってしまうことが。きっと今の私はすごく歪な笑みを浮かべている。そんな私に伏見先輩が吐き出した言葉は酷く現実味がなかった。

「俺がここを抜けるって言ったら、お前、どうする?」

ここって、どこですか。冗談を言おうとした唇を無理やり塞いだ。どこかなんて、分かりきっているじゃないか。自身に悪態を吐いて嘲笑う。伏見先輩がセプター4を抜ける。あり得ない話ではなかった。でも、現実味はこれっぽっちもなかった。

きっと想像がつかないのだろう。ここから伏見先輩の姿が消えるなんて。私が配属された時からここに先輩はいて、それからずっと一緒にいる。それが当たり前だと思っていた。なのに急にいなくなるだなんて、想像できる筈もない。だからこそ、この口から吐き出した言葉は私の本心なのだと思った。

「ついて行きます、…って言ってほしいですか?」

言い終えてから少し挑発的な言い方になってしまったかなと思ったけれど、撤回するつもりはなかった。後悔もしていなかった。これが本音だと断言できた。ようやく交わった視線に安心して微笑む。気持ちは落ち着いていた。

私はこの場所をすごく居心地よく感じている。ここにならずっといたいと思える。できることなら死ぬまでここで尽くしたい。そもそも私は青に属するクランズマンなのだから抜けるなんて御法度だろう。あとで宗像室長に何をされるか分かったもんじゃない。だから、ここにいる。でも、そんな理由はきっと立て前だ。

「ここにいる限り、私は伏見先輩の部下のままでいられます。それって、離れようとしたって、そう簡単には離れられない仕組みだと思いませんか?」

組織である以上、勝手に離れていくことは許されない。それは部下である私も上司である先輩も同じ。離れることが絶対に出来ないと分かっているから安心できて、信用できる。故に、ここは居心地がいい。

「だからもし伏見先輩がここを抜けるつもりなら、私が全力で阻止します」

たとえ剣を抜くことになったとしても。私には到底太刀打ち出来ない相手だなんて分かりきっているけれど、それでも止める。ボロボロになったって、首だけになったって、しがみついてでも噛みついてでも絶対に止めてやる。

「それでも先輩が別の場所へ行ってしまったら、懲りずに奪い返しに行きますよ。どんな手を使っても」

まるで小さな子どもが取られたお気に入りの玩具を取り返すような言い方だと自分でも思った。馬鹿だと笑えばいい。蔑めばいい。でも、私は本気ですから。真っ正面から青い瞳を見据えてそう言い放つ。それから答えを待つことなく、すぐに眉を下げた。

「…すみません。重たいですね、こんなの。ごめんなさい」

二度の謝罪と自嘲の笑み。普通じゃない。もし、普通の女の子が私の立場にいたとしたら、迷うことなくついて行くと答えていたのではないだろうか。この場所をそんな立場的に縛る場所だなんて考えないだろう。好きな人のことを縛り付けようだなんて思わないだろう。普通なんかじゃ、ない。こんな愛し方をする女なんて、普通では――――……

視線を落として自分の手を見た。本当に私は何なのだろう。どこまで欲深くて、何を求めているのだろう。強欲の塊。こんなの、気持ち悪いだけじゃないか。自分自身を蔑んで、嘲笑する。だけど、それまではなにも反応を見せなかった伏見先輩は何が楽しいのか、くつくつと喉を鳴らし始めた。

「重たい、ねぇ…」
「嫌、ですよね、そんなの」
「いいや?」

え、と声を上げる前に押し倒されて身体がベッドに沈んだ。どこか強引な行動に目を丸くさせていれば、手首を押さえつけられて動けなくなる。ランプの明かりの加減で先輩の顔は影っていて窺えない。でも、明らかに今までの雰囲気とは違う気がした。

「あの、伏見せんぱ、」
「渚…」
「っ、…ッ!」

艶っぽい吐息混じりの声にゾクリとした。なに、これ。背筋を何かが駆けていくような異様な感覚に身体が震える。そんな私を見下ろして伏見先輩は笑い、胸の辺りに唇を落とした。チクリと僅かな痛みと共に植え付けられた赤い花が咲く。

それはちょうど先輩の胸にある焼き付けられた痕と同じ位置だった。でも、お揃いですねなんて笑っていられる余裕はない。伏見先輩の瞳は澄んでいるようで、どこか澱んでいた。心臓がドクドクと音を立てて鳴る。ああ、私はきっと期待している。

「渚、お前はさぁ」
「は、はい、なんで…っ、!」
「俺をどうしたいわけ?」

腰をゆるりと撫でられて思わず声を上げそうになる。それを歯を食いしばって堪えて先輩を見上げた。どうしたい、だなんて考えたこともない。いつも考えているのは受け身の、どうされたいかで。だから、咄嗟に答えが出てこなくて視線をさまよわせた。

「そんなの、急に言われてもわかんな…んっ、あッ…!」
「いいから答えろよ、渚」

伏見先輩は歪んだ笑みを携えたまま残された痕に舌が這わせる。ザラザラとした舌の感触が肌を滑って肩が跳ねた。頭がクラクラする。身体が熱くなる。下半身の疼きに無意識のうちに足を寄せて、でも思考は必死に働かせた。

「わ、たし、は…!」

どうしたいのだろう。私は怖い。この人が私を置いてどこか遠くへ行ってしまうことが、どうしようもなく。そうなるぐらいなら最初から縛り付けておけばいい。誰かに奪われてしまうぐらいなら、その人を消してしまえばいい。私から離れられないようにしてしまえばいい。

真っ黒で歪な感情。やっぱり普通じゃない。愛執と愛欲が交差するのを感じて固く目を瞑り、叫ぶようにして言葉を吐き出すことしか出来なかった。

「私はっ、できることなら伏見先輩をずっと私に繋ぎ止めておきたい…。貴方を手放したくありません!」

こんなのだだをこねているようにしか思えないけれど、それは間違いなく私の気持ちそのものだった。でも、嫌われたかもしれない。そんなことを思いながらきつく閉じた瞳から涙が落ちそうになるのを感じた。だけど、それは頬を伝う前に触れた唇に止められた。

「束縛なんて重くて汚くて、なにより醜い」

言葉の割には声に嫌悪の色はどこにも見えなくて、ゆっくりと瞼を上げれば目尻に唇が落ちてくる。見上げた先にある瞳の色はやっぱりいつもと違う。だけど、その色が私の涙を止めた。思考を止めた。心を救った。

ああ、この人なら本当にどんな私でも受け入れてくれるのかもしれない。驚きと喜びと恐怖と安心。いろんなものがぐちゃぐちゃに混ざり合って、感情が制御出来なくなる。それでも、涙を堪えて微笑みながら今一度問いかけた。

「っ、嫌い、ですか…?」

手を伸ばして頬に触れた。弧を描いた口元がもう一度私の名前を呼ぶ。渚、と。他の誰でもない、私に向けられた名前。耳許に寄せられた唇はどこか恍惚な色を含んだ言葉を、甘い溜め息混じりに囁いた。

「…そういうの、たまんない」

瞳には愛情と劣情。そうして私はまた、この人に堕ちていく。




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