nowhere | ナノ


▼ 35



だんだんと季節が冬にさしかかってきて肌寒い。そろそろ部屋着もあったかいものにしようかな、なんて考えて少し大きめのセーターを着たら袖が余った。どうしよう。これじゃあカッコ悪いかな。まあどうせ部屋着だし別にいいか。そう割り切って部屋を出る。人影のない廊下はひんやり冷たかった。

そのまま向かう先は一カ所で、大して離れていないそこに辿り着いたらすぐにドアを叩く。トントン。軽くノックをしたけれど中から音がしない。なんの反応もない。あれ?と思ってドアノブに手をかけて時計回りに回せば呆気なく開いてしまった。あれ…?

鍵をかけてないなんて珍しい。でも、勝手に入ってしまっていいのだろうか。しばらく考え込んで、結局出た答えはまあいいか。渡すものを渡したらすぐに帰るつもりだし、不用意に置いてあるものに触らなければ大丈夫だろう。失礼しますと一言断りを入れてから足を踏み入れる。それを拒む人はいなかった。

部屋の中はやっぱり静かだ。誰もいない。それでも、必要最低限のものしか揃えられていない室内は大好きな香りがする。それだけで安心と他の何かが混ざり合って胸が温かくなる。他人の部屋の中で一人突っ立っているところを見られたら何て言われるかな、と一人苦笑いして、

「何してんだよ」
「ッ!?うわあああ!?」
「っ、うるせぇバカ」

叫んだ。後ろから聞こえた声に可愛げのない大声を出して叫んだ。こればっかりはどうしようもなかったと言える。なんて言ったって、誰もいないと思って油断していたら他人どころかこの部屋の主が気配もなく私の背後に立っていたのだ。誰だって驚くだろう。心臓が飛び出しそうになったのを感じて胸を押さえた。

「び、びっくりしたじゃないですか!急に後ろに立たないで…」

ください、と続けようとして振り返って固まった。静かで誰もいないと思っていたけれど先輩は確かにこの部屋にいたのだ。お風呂に入っていたのだろう、まだ髪を湿らせたままの伏見先輩が後ろにいた。そして私はと言えば、その初めて見た伏見先輩のお風呂上がりの姿に動けなくなっていた。

なんだろう。なんとなくクラクラした。それからどうしようもなく先輩のことを見ていられなくなって顔をそらす。なんて言えばいいのか、色気がすごい。見ている私が恥ずかしくなって言葉を失っていれば、顔赤いんだけどと訝しげに指摘されて我に返った。

「あっ、あの、頼まれていた資料をデータ化して入れておいたので渡そうと思って…」
「…ああ、ご苦労さま」

小さなUSBをひょいと私の手から取り上げてテーブルの上にあるノートパソコンを立ち上げる姿をぼーっと眺める。定時で切り上げた後も残った仕事はしっかりとこなすのだからやっぱりこの人は根は真面目なんだと思う。ただ、それの表現が出来ないだけ。言ってしまえば、きっと心が不器用なだけ。

カタカタとキーボードを鳴らす音が室内に響く。私は、どうしようか。用は済んだことだし自室に戻ろうか。そう思いはするものの、伏見先輩にだけ仕事をさせるというのもどうにも気が引ける。だけど、だからと言って何が出来る訳でもなく迷っていれば、ふと先輩の髪から落ちる水滴が目に留まった。

「髪、乾かさないと。風邪ひいちゃいますよ?」
「めんどい」

めんどいって、そんな一言で片付けていいものだろうか。ずっと頭を濡らしていたら寒いだろうに。それに、自然乾燥なんてしていたら髪が傷んでしまいそうだ。考えを巡らせながら部屋の中を見渡して肩で一息。

「ドライヤー、あります?」
「たぶん洗面所」

伏見先輩の視線は変わらず液晶から離れない。でも、答えてくれたということは私がしようとしていることを理解した上で止めるつもりはないということだろう。そう結論付けて洗面所に無造作に置いてあったドライヤーを持ってきてコンセントを繋いだ。

白いタオルで軽く水分を拭ってからドライヤーで温かい風を送りながら髪に指を通す。仕事の邪魔にはならないように出来る限り静かに、優しく。誰かの髪を乾かすのなんていつぶりだろう。覚えていない。昔は姉と一緒によくやり合っていたものだけど、今となってはそんなの懐かしい思い出の残骸だった。

それに、男の人の髪を乾かすなんて。そんな経験は当たり前のことかもしれないけれど一度もないから少しむずがゆい。伏見先輩の髪、綺麗だな。自分とは違う毛質を指に感じながらそんなことを考えて一人頬を赤く染めた。別に誰かに指摘された訳でもないのに自爆。本当に私って奴は冷静さに欠けている。

しばらくキーボードとドライヤーの音しかしなかった。伏見先輩も集中しているのだろうし、私も先輩の仕事の邪魔はしたくないから黙ったまま。さらさらと髪が指の間を流れるようになってドライヤーを止める。さっきまで水に濡れてしんなりしていた髪も元通りになっていた。

それで私の仕事は終わり。お役御免。手持ち無沙汰になった手はまだ髪から離れることなく、そのまま柔らかく頭を撫でた。なんというか、つまらない。暇だ。いや、そうじゃない。なんだか、寂しい。背中に抱きつきたくなるような衝動をぐっと堪えていれば唐突に伏見先輩が振り返り、何の前触れもなく私の顔を覗き込む。

「構ってほしい?」

この人は後ろに目があるんじゃないだろうか。どうして顔を見てもいないのに分かってしまうんだ。呆然として何も言えずに動けないでいれば伏見先輩はニヤリと笑う。図星か、と。確かにそうかもしれない。けれど、それを素直に肯定するのもなんだか恥ずかしくて、頭を撫でていた手を引っ込めた。

「い、いえ、私のことは、お気になさらず。仕事が残っているのでしたら続けてください」
「別に今やらないといけない物でもない」

そう言って椅子を引いて自分の膝を叩く伏見先輩に私はうっと言葉に詰まる。そこに座れということですか。とんだ罰ゲームですよ、それ。どうせなら引っ張られて無理やり座らされる方がまだ気が楽なのに、自分から行くなんてそんな無茶な。想像しただけで顔が赤くなって、でも傍に寄りたいのも本音だった。

こういう時に限って伏見先輩は手を引いてくれない。かと言って腕を広げて待っていてもくれない。ただ、そこにいるだけ。一見とても冷たい。だけど、それが伏見先輩なのだと思う。冷たい仮面を被って、温かい心を隠す。それも、故意ではなく無意識に。器用でありかながら、不器用でもある感情表現。私はそれに愛しさを感じ、同時に憧憬したのだ。

変わり者なんだろう。この人も、そして私も。人知れず苦笑して、近付いて、触れた。視線が平行になって照れくさくなって曖昧な笑みを浮かべれば伏見先輩は表情を変えずに頬に手を寄せる。冷たそうに見える先輩の手は案外、温かい。感じる体温の心地よさに目を閉じれば溜め息混じりの声が聞こえてくる。

「…お前も大概、物好きな奴だよな」
「どうしてそう思うんですか?」
「普通、一度は自分のことを襲った奴の部屋にのこのこやって来る馬鹿はいない」

呆れたように吐き捨てられた言葉に瞼を上げて真っ正面から青の瞳を見つめた。だって私、馬鹿ですから。無理やり犯してきた相手を本気で好きになるような、どうしようもない馬鹿ですから。手を伸ばして黒い髪を耳にかける。そのまま形のいい耳に触れて、頬に触れて、首筋を伝って鎖骨の辺りに指を這わせる。そんな私の手を伏見先輩は止めるようにして掴んだ。

「…誘ってんの?」
「えっ、」

驚いて瞳を見返せば、そこに映る色に微かな戦慄を覚えた。青の中に見え隠れする黒くて赤い何か。それを見たのはこれが初めてではない。あの時見たものと同じ。だけど、あの時とは別の意味で、そのあまりにも真っ直ぐな瞳から目をそらすことが出来なかった。そして湧き上がる感情は止め処なく溢れ出して止まらなくなる。

愛しいと叫んだ。愛して欲しいと渇望した。ただ、この人で満たされたいと懇願した。

掴まれた手を動かして指を絡めて握る。それから空いている方の手で肩を掴んで私よりも大きな身体を引き寄せた。距離がなくなる。息が止まる。ただ、口付けたのは唇ではなく、無防備な喉元。上下に動いたそこに小さく笑みをこぼした。

「好きです、伏見先輩」

喉元にキスをして、そのまま微笑みかけて、愛の言葉を口にして。私にはそれぐらいの愛情表現しかできないけれど、それで伝わるのなら十分。そう思っていた私のことを伏見先輩は抱き上げて、そのまま乱暴にベッドの上に落とした。突然のことに驚いて思わず悲鳴を上げたけれど、見上げた先にある冷徹なまでの色に何も言えなくなる。

「怖いか?」

覆い被さった伏見先輩は私を見下ろしてそう聞いた。淡々としていて、冷たくて、それでも熱を含んでいる声。そこに感情はない。きっと、どう答えたところでこの人はもう私に逃げ道を用意してくれないのだと思う。あの時のように、泣いたら止めてくれるなんてことは絶対にしてくれない。だけど、それで構わないと思った。

「それを言うなら、怖かったの間違いですよ」

信じているから。誰よりも、この人のことを。どんな形であろうと、必ず私のことを――――背中に腕をまわして先輩の身体を抱き寄せる。そうすれば伏見先輩は首筋に顔を埋めて、堪えていたものをぶちまけるように大きな溜め息を吐き出した。

「…らしくねぇ」
「私が、ですか?そんなことないですよ。いつも通り、恥ずかしいし緊張してます」
「違う」

強い否定の声に少し驚く。らしくないって、それならいったい何が?私は至って普通だろう。こんなに心臓はドキドキしているし、顔だって少し熱いし、ほんの少しの期待を抱いている。いつもと何ら変わらない自分。どこもおかしなところなんてない普通の自分。だけど、自分だからこそ気付けないこともあるのかもしれない。

「何なんだよ。普段は簡単に笑って泣いて、ガキみたいなくせして…、なんでこういう時は女なんだよ」
「伏見先輩…?」
「時々お前が誰なのか、分からなくなる…」

顔を上げた伏見先輩の瞳に写り込んだ自分の姿。そこに存在している私は確かに私だけど、伏見先輩の目に見えている私は私ではないのかもしれない。でも、私は他の誰でもない。もし、伏見先輩の知らない私がここにいるのだとしても、それも紛れもなく私。私も気付くことの出来ていない私自身。

「…伏見先輩。私は正真正銘、天風渚ですよ」

そんな私を貴方は受け入れてくれますか。馬鹿でドジで単純で鈍感で平凡で、でも先輩の前では時々女になるらしい私のことを。私はただ、貴方に近づきたくてたまに背伸びしてみたくなるだけ。遠くに感じる貴方の傍にいたくて、役に立ちたくて、何でもしたくて。

「だから、好きなようにしてくれていいんです」

出来れば先輩だけじゃなくて私も嬉しくなるようにしてほしいですけど、と苦笑い。でも、伏見先輩が幸せと感じたなら、きっと私も幸せになれるだろうから。だから、私のことを全部受け入れてください。受け入れてくれたなら、私はこの身の全てを捧げましょう。そう言いながら手を伸ばして先輩の眼鏡に手をかける。伏見先輩は抵抗もせずそれに従って、ただ私のなすがままになって、それが少し珍しい。

外した眼鏡を少し離れたところに置いてから、改めてその青い瞳を見上げた。真っ直ぐと私だけを映した瞳。今までレンズ越しだったのに、今は私と先輩の視線の間を遮るものがない。それがなんだか気恥ずかしくて照れたように笑えば、伏見先輩もふっと微かに笑って私の額に自分の額をくっつけた。

「渚」
「はい」

瞳を閉じる。近くに吐息を感じる。体温を感じる。存在を感じる。でも、まだ足りない。これじゃあ足りない。もっと欲しい。絶え間なく欲望を曝け出す本能。それに答えるかのように伏見先輩は冷たくて鋭くて、だけど甘くて優しい言葉を吐き出した。

「抱かせろ、お前を」
「…はい」

あの時にあった恐怖は今はもうどこにもない。それは、お前が欲しいと貴方が静かに言ってくれたから。




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