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▼ 33



季節も冬に差し掛かってきたある日、仕事を終わらせて自室に戻ろうかと歩いていた廊下で見慣れた後ろ姿を見つけた。あっと思って頬が緩んで気持ちがほっこりして。そして、触れたくなる。本当にどうしようもないなぁ。恋は盲目ってこのことを言うのかな、と苦笑いをこぼしてから小走りでその背中に近付いた。

「伏見先輩!」
「…あ?」

振り返った表情は少し疲れているように見えた。やっぱりここ最近は忙しかったから先輩も疲れているんだな、と思っていれば穴が開くかと思うぐらいジッと見つめられて首を傾げる。顔に何かついているだろうか。どうかしましたか?と怪訝になって聞けば伏見先輩は私の顔から目を離さずに口を開いた。

「…お前、誰」
「ひ、酷いことをサラッと言わないでください…。天風です」

しばらくお互い睨み合うような形で向かい合って、それから伏見先輩は思い出したように、ああお前かと呟いた。自分の後輩の顔まで忘れちゃったんですか。さすがにそれは傷付きますよ。だけど、それだけ疲れているということなんだろうか。

「眼鏡」
「え?ああ、これですか」
「かけると雰囲気変わるな」

誰だか分からなかった、と伏見先輩は言うけれど多分それだけが理由ではないのだと思う。明らかに疲労困憊の色が見えていて、なんだか申し訳なくなる。きっと伏見先輩は自分が疲れているだなんて一言も口には出さないだろう。だから、私を頼ってもくれない。

頼られることがないなら自分から先輩の重荷を奪って背負うしかない。でも、きっと伏見先輩はそれをいいとは思わないような気がした。この人はこう見えてとても真面目な人だから。だから、何気なく盗むしかないのだ。勘付かれないように、いつも通りを装って。

「どうですか?似合ってますか?」

普段、私は視力が低い訳ではないから眼鏡をかけることはない。今かけているのはブルーライト眼鏡で、パソコンの画面の光を防ぐものだ。今日は一日中パソコンの前に張り付いて生活していたからか、なんとなく目が痛くなって今までかけていた。

「本当はずっとかけていてもいいんですけど、ちょっと邪魔で。でも、これなら伏見先輩とお揃いですね」

小首を傾げて笑う。眼鏡ってあまり慣れないけれど、伏見先輩とお揃いならそれでもいいかなと思った。常日頃かけていれば普段からずっとお揃いなんだなとか考えて、それもいいかもしれないと内心ほくそ笑む。だけど、そんな私とは対照的に伏見先輩は大きな溜め息を吐き出した。

「…お前ってほんとにさぁ」
「えと、似合いませんか…って、わわっ!?」

腕を引かれて壁に背中を押し付けられた。驚いて先輩の顔を見上げれば自分の顔の真横に拳が叩きつけられて、ビクリと肩が跳ねる。逃げ場がなくなって少しだけ恐くなった。怒っているんだろうか。何か拙いことを言ってしまっただろうか。行き場のなくなった両手を壁に張り付けて、動けなくなる。

「っ先輩、あの、」
「なんでお前はいつもそうなんだろうな」

苛立っているような、嘲笑っているような、少し震えた声。いつもそう、って何のことですか?ちゃんと言ってくれないと分からないですよ。そんなことを考えても口にするのは恐くて唇を噤む。口を挟んだらもっと怒ってしまうかもしれない。そう思ったら、ただ黙って怯えることしか出来なくなった。

「馬鹿なくせに、こうも簡単に掻き乱しやがって」

何のことだか全く分からない。だけど、私が伏見先輩に何かしてしまったのだろう。怒られるのかな。それは少し、嫌だな。ぎゅっと目を瞑って次に飛んでくる叱責の言葉を待つ。だけど、降ってきた言葉には苛立ちも怒りも含まれていなかった。

「ほんと、調子狂う…」

なんとなく弱々しくて、切なげな声。そんな声を聞くことは今まで一度もなかったから少し驚きながら恐る恐る瞳を開いて先輩を見上げた。伏見先輩の表情はさっきよりも穏やかだった。その理由が分からなくて伏見先輩?と名前を呼べば、いつもの声の調子に戻って私を見下ろす。

「眼鏡、普段はかけんな」
「え、ど、どうしてですか」
「どうしてだと思う?」

どうして、だろうか。やっぱり似合わないからだろうか。それともお揃いが嫌なんだろうか。そう聞いてみれば伏見先輩はバーカと言って私の額にデコピンする。不正解だったらしい。だけど、それ以外私には答えが見つからなかった。

駄目だ、降参。呆気なく諦めて白旗を上げて、どうしてですか?ともう一度首を傾げれば、唐突に伏見先輩の顔が近付いて思わずまた目を閉じてしまった。だけど、いつまで経っても何か変化がある訳ではない。ただ、カチャリと金属が鳴るような音が鼻先で聞こえた。

何とも言えない解放感が顔に広がったような気がした。瞼を上げれば今まで目の前にあった筈のレンズがない。あれ?と思って顔を上げれば私の眼鏡をくわえている伏見先輩がいて、その姿が酷く妖艶に見えて一気に顔が熱くなる。そんな私を見て伏見先輩は小さく笑い、眼鏡をしまって囁いた。

「こういうことするのに邪魔だから」

唇が重なったのは一瞬だった。だけど、それだけで私にとっての効果は絶大で、火を噴くんじゃないかと思うぐらい顔が赤らむ。眼鏡をかけるなって、確かにキスするのには邪魔かもしれないけれどこんなの、

「ずるい、ですよ…」
「それはこっちのセリフ」
「えっ、…ひゃっ!?」

急に耳に噛みつかれて声が上がった。思った以上に大きくて高い声が出たから慌てて口を両手で押さえる。ここは廊下なんだから誰が通ったって可笑しくはない。もし今の声を聞かれていたらと思うと恥ずかしさが込み上げてくる。だけど、より一層縮こまった私を面白いと思ったのか伏見先輩は噛みついたところをペロリと舐めた。

「ッん…!」
「…やっぱり耳弱いな」
「ッふ、伏見先輩!からかわないでください!」
「からかってなんかいねぇよ」

そう言われて抱きすくめられて今度こそ身動きが取れなくなる。それから肩口に顔をうずめられて固まって、何かされるんじゃないだろうかと内心びくびくしていたけれど何も起こらない。ただ、抱きしめられているだけ。そのことに安堵してホッと溜め息を吐き、右往左往させていた手をそっと背中にまわした。

やっぱり、こうされるのが一番落ち着く。キスをされることよりも、今みたいに触れられることよりも、こうして抱きしめられことの方がずっと安心できる。身体全体に伏見先輩の体温を感じられて、すぐそこにいるんだって実感できる。温かさと柔らかい香りに誘われるようにすり寄れば、伏見先輩は溜め息混じりに呟いた。

「…無意識なのがムカつく」
「むいしき…?何のことですか?」
「分かれよ、鈍感」

それだけ言って、あとは黙って私を抱きしめる。どうしたんだろうか。やっぱりいつもの伏見先輩じゃない気がする。なんて言えばいいのか分からないけれど、いつもなら癖の舌打ちの一つや二つするだろうに。それに、さっきまであった怖い雰囲気がどこにも感じられなくて逆に戸惑ってしまう。

「あの、伏見先輩、怒ってないんですか…?私、また変なこと言ったりしませんでしたか…?」

だからさっき私を追い込んで何かしようとしたんじゃないんですか?さすがにそれを声に出すのはどんな答えが返ってくるのか分からず恐くて出来なかった。けれど、今日の伏見先輩はなんだかいつもより覇気がない。疲れているからだろうか、と思っていると伏見先輩は本日何度目か分からない溜め息をこぼす。

「…別に怒ってない」
「じゃ、じゃあ、なんでさっき苛立ってたんですか?」
「それはお前が狙いもしないであんなこと言うところが…」

そこまで言って伏見先輩はまた黙り込む。あんなことって、何のことだろう。うーんと少し唸って考え込む素振りを見せて、だけど結局答えが見つからずに小さく首を傾げれば今度こそ舌打ちをされた。

「…渚」
「は、はい」
「お前、やっぱりムカつく」

理不尽…!私が何をしたって言うんですか。そう非難めいた言葉を口にしようとしたけれど、腰にまわされた腕に力が入ったのを感じて黙ることにした。まるで甘えられているかのように感じられて、どうしようもなく愛おしく思えたから。珍しいな、と思いながらもなんだか大きな子どもを持ったような気分になって黒い髪に何度か指を通す。そうしていれば、でも、と伏見先輩は私にしか聞こえないくらい小さな声を出して。

「…たまにはお前に振り回されるのも、悪くない」

そう言って私のことをぎゅっと抱きしめた伏見先輩の体温はやっぱり温かかった。




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