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▼ 32



怠い。ぼんやりと天井を見上げた。外は雨が降っているのだろうか、ぱらぱらと窓に雨粒の当たる音がする。それすらも耳障りに聞こえて枕に顔を埋める。うるさい。頭いたい。なんとなく苛々して涙が出そうになった。

どうやら宗像室長は本物の未来予知能力を持っているらしい。まさか本当に倒れるだなんて思っていなかった。感心。だけど、少しだけ悔しい気持ちもした。何故だろう。頭が働かないせいか、今日は嫌なことばかり考えて、嫌な感情ばかりが湧き上がってくる。

ゴホゴホと軽く咳をしてから嘆息。ずっと寝ていたからだろう、血の味がした。鉄っぽい気持ち悪い味。血を見ることなんてここに配属されてから当たり前のことになっているから慣れているけれど、好きになることは絶対に出来ない。色も、臭いも、感触も、全部。

真っ赤で、鉄臭くて、染み付いて、ドクドク出てきて止まらなくて――――想像してぎゅっと目を瞑った。好きになれる筈がない、あんなもの。たとえ自分の身体を巡っていたって、気持ち悪くて仕方がない。そして、怖かった。だって、きっとあの人は――――……

「生きてるか、渚」

真っ赤で真っ黒な視界が晴れていくような感覚に目を開けた。どうしてだろう。どうしてこの声を聞くと全ての感情を忘れ、ただ澄み渡った世界を見ることが出来るのだろう。ぼんやりとそんなことを考えて、見上げたその先にいる伏見先輩を見て苦笑いを浮かべた。

「どうやって、入ったんですか…?鍵、かけてた筈じゃ…」
「強行突破した。詳しくは秘密」

それ、不法侵入じゃないですか。口にしようとした言葉は咳になって吐き出された。また血の味。顔をしかめて口元を押さえる。不味い。美味しくない。そんな当たり前の感想を頭の中で出して、喉の奥にある何かを飲み込んだ。やっぱり、不味い。

「ったく、急にぶっ倒れるとか馬鹿か、お前」
「え、へへ…、馬鹿は何とかって、よく言いますけど、迷信だったみたいですね」

人間、誰だって風邪ぐらいひく。それを私は我が身を呈して証明したわけだ。我ながらあっぱれ。なんて考える私はやっぱり伏見先輩の言うとおりただの馬鹿だ。思考回路がぐちゃぐちゃになっているらしくろくな考えが出てこない。

「調子は?」
「えと、なんと言いますか…、ほわーっとしてます」
「なんだよ、それ」

呆れ顔を向けられて、すみませんと笑う。正確に言うなら、あまり思考が定まらなくて頭がズキズキする。咳が出て、鼻づまりも酷い。その名の通り、風邪の症状と言っていいだろう。それはあまり風邪をひいたことのない私でも分かるほど明らかだった。つまり、意外と辛い。

仕事、まだ残ってたのにな。あれは誰が処理するんだろう。もしかして伏見先輩なのだろうか。そう考えると罪悪感でいっぱいになって、こんなところで寝ているわけにはいかないのではないかと思えてくる。だって、これじゃあまた足手まといじゃないか。

唇を噛みしめる。乾いたそこは歯を立てれば簡単に切れそうだった。少しだけ犬歯を唇に当てて力を入れる。血が滲む。鉄の味がする。そんな一連の動作を想像して、それから本当に歯を立てようとした。だけど、それは唇に軽く触れた伏見先輩の指に止められた。

「…何してんだよ」
「唇を、切ってみようかなって」
「はあ?熱で脳みそまでやられたか」

強ち間違っていないような気がして小さく笑った。そんな私を見て先輩は軽く舌打ちをして、熱で火照った頬に手のひらを当てる。冷たかった。でも、その手にも血は通っている。この人にもたくさんの血が流れていて、深く傷付ければ溢れ出すのだ。

「伏見先輩は、血って好きですか?」

唐突にそう切り出して、きっと驚いているだろう顔を見上げた。案の定、伏見先輩は少しだけ目を見開いて私のことを見ている。いきなり何を言い出すんだ、この馬鹿は。といったところだろうか。そう、私は馬鹿だ。血が怖いくせにそれを欲しがる正真正銘、臆病者の馬鹿だった。

しばらく沈黙が続いた。お互いに視線を外さなくて、結局折れたのは伏見先輩の方。溜め息を吐いてからベッドに座って私の髪を撫でる。いつもより優しい手つきに目を細めて喉を鳴らしていれば、猫みたいだなと伏見先輩は微かに笑い、それから静かに呟いた。

「…血は、嫌いじゃない」

そうだと思った。簡単に受け入れられた。だって、この人が必要な時は躊躇なく人を殺せることは知っているから。楽しみながら傷付けられることも知っているから。あまりこんな言い方はしたくないけれど、伏見先輩には血の色が似合う。純粋にそう思った。

だけど、私はそうじゃない。そんな覚悟、持っているような人間なんかじゃない。

「私は、駄目なんです。父が死んだ時のこと、思い出しちゃって」

死に様を見た訳ではないし、どんな死に方をしたのかも知らない。だけど警察官が殉死だなんて、そんなの血だらけになったことぐらい子供でも分かる。想像してしまうのだ。父親が血の海の中に倒れて、一人苦しみながら死んでいく光景を。

想像だけならいい。だけど、たまに夢となってそれが現れることがある。一面血の色で、その中心に父親がいて助けてくれって手を伸ばしてくる。だけど、その手を掴もうとした瞬間、息絶える。恐くて仕方ない。泣いてしまいそうになって、もう嫌だと何度も思う。

「でも、私が嫌いなもの、伏見先輩が好きなら問題ないです」
「なんでだよ。別に俺はお前をその夢から助けることなんざ出来やしない」
「それでもいいんです」

もう、慣れましたから。浮かべた笑みはどんな形をしていたのだろう。分からない。だけど、もう五年近くその夢を見続けてきたんだ。恐くても耐えられる。だから、悪夢のことはどうだっていい。大切なのは私に出来ないことが先輩には出来るということ。そして、私が先輩を支えるということ。

「伏見先輩の嫌いなものを、私が好きになればいいだけの話ですから」

そうすればプラマイゼロでしょう?だから、それでいいんです。吐き出すようにして言った私に対して伏見先輩はそれ以上そのことについては何も言わなかった。ただ、髪の毛に細い指を通しているだけ。私を安心させるように頭を撫でるだけ。

「…食欲はあんの?」
「ない、です。見たくもないですね」

食べないといけないと分かっていても脳が拒絶信号を送る。見たら、吐きそう。喉から這い上がってきたものにまた咳をする。確か枕元にミネラルウォーターがあったはず。ごそごそと手探りで漁って指先に触れたものを引っ張り出した。が、すぐさま奪い取られた。

「水分、取ってないのかよ」
「…ずっと寝てたので。忘れてました」

先輩の手にあるペットボトルの中身は減った形跡が少しもない。まあ、寝込んでからついさっきまで意識がなかったから当然と言えば当然のことなんだけど。起き上がって水を飲もう。そう思って腕に力を入れた瞬間、ぐらりと視界が傾いた。

まずいと感じてすぐさま枕に頭を預けた。くらくらする。このままだと起き上がれない。少しだけ待って、それからにしよう。そう思って身体を動かそうとした私の肩を押し止めたのは伏見先輩だった。

「起きなくていい」
「でも、水…」

喉は乾いてるから水は欲しい。だから、と思っている私を余所に伏見先輩はペットボトルのキャップを開け、中身を口に含んだ。その光景を見て、先輩が飲んでどうするんですかと非難の声を上げようとした私の口は次の瞬間には塞がれていた。

急な行動に身動きが取れなくなり、なされるがままに唇を開いていた。途端に流れ込んでくる生温い水。何時間ぶりかに与えられた水分が喉を潤す。だけど、同時に飢えた何かが目を覚ましたのも事実だ。

「っ、伏見、せんぱい」
「なに」

離れた唇。平然としている伏見先輩とは違い、私の身体はさっきより熱い。どうすればこの欲を満たせるだろう。言いごもる私を見て伏見先輩は眉を寄せて、何だよともう一度聞いてくる。恥ずかしい。だけど、欲しい。

「あ、あの…もっと、飲みたい、です…」

足りないと思った。もちろん水のこともそうだけど、それ以上に別の何かが。口に出すとさらに顔が熱くなったような気がして慌てて目をそらす。だけど、顎を掴まれて視線が交わった時、もうすぐそこに伏見先輩はいた。逃げることなんて出来ないくらい、近くに。

「せんぱ…んッ」

最初よりも少し強引に感じた。動かないようにと肩を押さえられ、顎を掴まれて口を開けさせられる。それでも、やっぱり水は美味しい。乾ききった喉が喜びの声を上げて、その全てを吸い取っていく。私も水を飲んだことで少しは楽になって満足した。だけど、行為は終わらなかった。

入り込んできたザラザラとした舌の感触に身体が強張った。まさかと思って肩を押そうとした手はシーツの上に縫い付けられるように押さえつけられて抵抗が出来なくなる。反射的に逃げようとして顔を背けようとしてもそれは適わず、完全に支配権を譲り渡してしまった。口内を蹂躙され、身体から力が抜けていく。

「…ふ…ぁ、せんぱ…んン…!」
「んっ…」

息が出来なくなって声を上げれば名残惜しそうにリップ音を響かせ、唇が離れた。ハァハァと息絶え絶えになっている私とは対照的に伏見先輩は余裕な顔で私を見下ろしている。どうして同じことをしてこんな差が、と思いながらも曖昧に笑った。

「かぜ、移っちゃいますよ…?」
「そんな柔じゃない」

ぺろりと唇を舐められて顔が熱くなる。だからどうしてこんなに差があるんだ。隠れるようにして布団を頭から被れば喉を鳴らして笑う声が聞こえてくる。それから布団の外に出ている手を握られて、恐る恐る顔を出してみる。

「先輩…?」
「寝付くまでここにいてやる。だから、寝ろ」

目をまん丸にさせて伏見先輩のことを見る。それから、嬉しさで頬が緩んだ。だからこの人は優しいんだ。だからこの人が好きなんだ。ありがとうございます、と笑えば早く寝ろと言われて苦笑い。枕に頭を落として、その手を強く握り返す。

「手、握っててくださいね」
「ああ」
「…離したら、ダメですよ」
「分かってる」

今日はあの悪夢はみないだろう。見るのは、きっと幸せな夢だ。



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