nowhere | ナノ


▼ 31



忙しい。あっちこっちに駆け回り、悲鳴を上げそうになっている足をずるずると引きずった。疲れた。眠い。すでに疲労で通常の動きをしなくなった脳が欲求の一つを理性にぶつけてくる。眠らせろ、と。瞼が下りてくるのを必死になって止め、嘆息した。

外に出る仕事が増えてから以前よりも疲れが溜まりやすくなった。きっと他の先輩たちは昔から実戦に立ってきたから今となってはそれが当たり前となっているのだろう。だけど、今までデスクワーク専門だった私には簡単に慣れることは出来なかった。

まず体力的に無理だ。やっぱり運動不足なのだろう。すぐに筋肉痛になるし息切れもするし疲れるしでやってられない。それに加えてデスクワークも変わらずしているから目の疲労もあって、いつも自室に戻ってベッドに横になれば即意識を失うほどだった。

「おい、天風、大丈夫かよ。ふらふらしてんぞ」
「っていうか時々白目剥いてるし。寝てないのか?」
「…ああ、はい。まだ、仕事あるので終われないと言いますか」

近くにいた先輩たちに声をかけられるほど今日の私は酷いらしい。確かに眠すぎて時々意識を飛ばしている。足元も覚束ない。睡眠欲は人の三大欲求の一つだ。足掻こうとしてもなかなか打ち勝てる相手ではなかった。

「少し休んだ方がいいんじゃないか?倒れるぞ」
「それ、宗像室長にも言われました」
「…お前な、室長に言われてんだったら尚のこと休めよ」

身体は丈夫だから大丈夫です倒れません。なんて言っておきながら実際は倒れる寸前まできていた。あの時はまだ疲れなんてこれっぽっちも出ていなかったから考えもしなかったけれど、宗像室長は未来予知の能力も持っているんじゃないだろうか。だけど、寝るわけにもいかない。

「今日は夜勤なので。休むにも休めなくて…」

時計を見上げる。まだ夕方だ。私の今日の仕事はこれからで、映像の分析とか資料のメモリー化とかなんだとかやらなければならないことがたくさんある。日付が変わる前に片付けばいいな、と力ない乾いた笑い声を漏らしていれば、それならと秋山先輩が口を開いた。

「その映像とか天風のところに送られてくるのは夜なんだろう?」
「はい。たぶん7時ぐらいだと思いますけど」
「ならそれまで仮眠室で寝てればいいんじゃないか?そうすれば2時間ぐらいは寝れるだろうから」

言われてから、そういえばその手があったと手を叩いた。どうやらそこまで頭が回らなかったらしい。たったの2時間とはいえ、少しでも身体を休めることが出来れば気分も変わって仕事がはかどるかもしれない。そうすれば早く仕事も終わる。一石二鳥だ。

「それじゃあ、少し寝てきますね。なんだかすみません…」
「いいよ。気をつけて行くんだぞ」

途中で倒れないように、と笑って私の背中を叩いた先輩は優しい。ありがとうございますと頭を下げてから部屋を出た。向かう先は仮眠室。自室で寝るというのも一つの手だが、そんなことをしたら二度と起き上がれないような気がしたのでやめた。

どれだけ経験すればこの状態に慣れるようになるのだろう。やっぱり数ヶ月は大変なんだろうか。しばらくこの疲労困憊が続くと思うと先が思いやられる。でも、挫ける訳にはいかない。重たい身体を動かしながらいつもより長く感じる道のりを歩いた。

ようやく仮眠室にたどり着いた時には眠気は上限を超えていた。眠いどころの話ではない。もう、倒れたい。閉店時間のシャッターのようにガラガラと落ちかかる瞼を食い止めて、ドアを開け放つ。そしてそのままソファーにダイブ――――という訳にはいかなかった。

今まさに飛び込もうとした場所には先客がいた。足を投げ出して腕で顔を隠しているが、その人が誰なのかを私が間違える訳もなく。先ほどよりも幾分か和らいだ眠気を蹴り飛ばし、足音を立てないようにしてソファーに近寄った。

「伏見先輩…?」

反応はない。胸が上下しているのを見る限り、どうやら寝ているらしい。姿を見ていないと思ったら先輩も仮眠中だったようだ。なんだか自分と伏見先輩が同じタイミングで寝ようとしたということに胸が温かくなる。だけど、同時に申し訳なくなった。

私がもっとしっかりしていれば伏見先輩の仕事も減らせて、仮眠を取らせるほど疲れさせなくて済むのに。情けないような悔しいような気持ちが押し寄せてきて溜め息を吐き出す。これじゃあ駄目だ。全然駄目だ。もっともっと、役に立てるようにならないと。

やっぱり仕事に戻ろう。先輩が休んでいる間に少しでも終わらせよう。そう思って近くにおいてあった毛布を手にとり、伏見先輩の上にかける。このまま寝ていたら風邪をひいてしまうかもしれない。伏見先輩が風邪をひいたら私だけではない色んな人が困るだろうから。

「…ん、」
「っ、…伏見先輩?」

腕が投げ出されて顔が晒される。青い瞳は開かれない。どうやら起きたわけではないらしい。ほっと胸を撫で下ろして息を吐き出した。それからふと気付く。眼鏡、取らなくていいのかな。普段と変わらず眼鏡をかけたままの状態で寝たままの伏見先輩の姿を眺めながらそんなことを考えた。

もし何かに当たったりしたら危ないのではないだろうか。怪我してしまうのではないだろうか。しばらく静かに考えて、それから恐る恐る伏見先輩の顔に手を伸ばした。そのまま眼鏡に手をかけて、あまり顔に当たらないようにと注意しながら時間をかけて外していく。いつの間にか爪先立ちになっていて、身体は緊張で震えていた。

おそらく、そんな日常的な一瞬の動作のために一分ほどかけたのだと思う。小さく音を立てて外した眼鏡を近くに置いてあるテーブルに置いてから顔を覗き込む。あどけない寝顔。思わず笑みが零れて、伏見先輩が寝ているのをいいことにそのまま無防備な唇に一瞬だけ自分のそれを重ねた。

誰にも見られてないよね。恥ずかしくなってきた気待ちのやり場に困り、辺りをきょろきょろと見回す。この空間に自分と伏見先輩しかいないことを確認してから安堵と共にこみ上げてきた羞恥を感じて逃げるようにして急いで踵を返す。そんな私の腕が強い力で掴まれた。

「え、わわっ!?」

そのまま引っ張られて後ろ向きに倒れ込む。頭などを打ちつけるようなことはなかったが、いきなりのことで驚いて身動きが取れなくなった。だけど、ひっくり返すように身体を逆向きに動かされてようやく何が起きたのかを理解し、目の前にある顔を見て上擦った声を出した。

「ふ、伏見先輩、起きてたんですか…?」
「…今起きた」

普段よりもよりいっそう怠そうな声。これは間違いなく寝起きだ。物音を立てた覚えはなかったのだが、私が起こしてしまったんだろうか。せっかく気持ちよさそうに寝ていたのに。そんな罪悪感がこみ上げてきて、思わず縮こまって謝罪の言葉を口にする。

「すみません…、起こすつもりはなかったんですが」
「別にいい。どうせ浅かったし」

夢でも見ていたのだろうか。欠伸をかみ殺しながら目を擦っている伏見先輩を眺めながらぼんやりと思う。そんなことをしていたら伏見先輩は私のことを引っ張って腕の中にすっぽりと収めた。

「あ、あの、先輩?」
「どうせお前も寝に来たんだろ」

なら寝るぞ、と背中に腕を回されて今度こそ動けなくなる。寝るってこの状態で?というか私、仕事に戻らないといけないのに。いろいろな考えが浮かぶけれど声にはならない。確かに私も初めは寝る為にここに来て、実際とても眠いのだ。

人肌に触れて体温を感じると安心してか、一度は隅っこに追いやった筈の眠気がまたやってくる。寝たい。でも、仕事しないと。心の中で葛藤している私だったが、もぞもぞと動いて毛布をかけ直している先輩を見ていると、なんだかそんなことどうでもよくなってキュンとした。

やっぱりこのまま寝てしまおうか。伏見先輩と一緒に。たまには、こういうのもいいのではないだろうか。そう思ってしまうと迫ってくる睡眠欲に勝てそうもなく、瞼を下ろす。だけど、そんな私を抱きしめた伏見先輩の何気ない言葉で意識は再び浮上する。

「…お前、抱き心地いいな」
「ふ、太っててすみませんね…!」
「んなこと言ってねぇだろ。暴れんな」

言われたそばから一人ソファーから落ちかけて悲鳴を小さく上げる。本来このソファーは人が二人も転がれるような大きさをしていない。ひっついて無理やり乗っかっているようなものだから、すこし後ろに転がると落っこちてしまうのだ。寝相が悪いと痛い思いをするのは目に見えている。

私がいると邪魔なんじゃないだろうか。ちらりと伏見先輩の顔色を窺おうとしたが、それは適わなかった。ぐっと抱き寄せられて胸に頭を押し当てられる。距離はもうない。あまりにも近すぎて心臓が止まりそうになりながら、それでもこの人が誰よりも傍にいるということにどうしようもなく安心した。

「…渚」
「っは、はい」

まるで甘えるような声色にドキッとして声が裏返った。それが眠いからだとは分かってる。だけど、意識してしまう。恥ずかしいというよりは、愛しい。そんな私に対して伏見先輩はトドメの一撃とも言える言葉を投下する。

「お前、たまには積極的なことするんだな」
「や、やっぱり起きてたんじゃないですか!?」
「…るせぇ。騒ぐな」

寝させろ、と唸るような低い声が聞こえて身を縮こまらせた。そうだ、私は先輩の睡眠の妨げになっているんだ。ごめんなさい。薄い胸板に額を軽く押し付けて、それきり黙り込む。静かにしていよう。邪魔にならないようにしよう。そう思って塞いでいた唇を伏見先輩は簡単に開けてしまう。

「もう一回」
「へ?」
「もう一回キスしろよ」

身体を離されて顔を覗き込まれて、虚ろなようで、だけど私の顔をしっかりと映し出す瞳と目があう。ああ、きっと伏見先輩は寝ぼけているんだ。それか、これはもう夢なんだ。自分のいいように解釈をつけて理想化して。

そうして私も夢に堕ちる。これは現実ではない。だから、何をしても構わないのだと。

そっと触れた唇は柔らかい。絡んだ視線も柔らかい。何も言わずに抱きすくめられて、その温かさに安堵する。夢の中でもこんなにもこの人の体温は温かいのだと。こんなにも私を安心させてくれるのだと。

「…伏見先輩、眠いです」
「んー…」

眠だけな声に小さく笑う。もう、寝よう。一緒に寝て、それからちゃんと仕事をしよう。だから今は――――少し戸惑いながらも先輩の胸にすり寄る。おやすみなさい、と今にも消えてしまいそうなほど小さな声で呟けば、背中にまわった腕に力が入って私を強く抱きしめた。ああ、幸せだな。口元に笑みを浮かべたまま私は目を閉じた。

「…おやすみ」

眠りに落ちる瞬間、優しい声を聞いたような気がした。




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