nowhere | ナノ


▼ 28



誰かを好きになる。そういう経験はもちろん以前にもあった。告白されて嬉しくて受け入れたり、逆に告白して緊張しながら受け入れてもらったり。ただ、その想いは結局お互いに一時的なものでしかなかった。だからこそ、こうして私は今一人きりなのだろう。

初めてだった。いつその背中を追い始めたかも分からず、いつこんな感情を抱いたかも分からない。前に先輩たちから、それは一目惚れだと言われて否定したが、よくよく考えてみれば強ちそれは間違ってないのだと思う。気付かないうちに好きになっていて、自覚することも忘れていた。

「もしかすると初めて会った時から、もう好きだったのかもしれません」

考えたこともなかったけれど、もしかすると。配属されてすぐに顔を合わせて緊張しながら挨拶をした私に、伏見先輩がめんどくさそうによろしくと言ってくれたあの時から。慣れないことばかりで失敗ばかりする私を馬鹿にしながらもちゃんと指導してくれたあの時から。

気付けばこの人の役に立ちたいと願っていて、必死になって後を追いかけていた。そんな経験、私の人生の中では一度もなかった筈なのに。誰かを好きになるのは、ただ何となくという理由ばかり。何となくで一緒にいて、キスして、抱かれて、そして別れる。理由なんてなかった。意味もなかった。

「でも、今までとは何か違うんです。先輩といると、いつもなんだか胸のあたりがすごくあったかくて」

太陽にも似た温かさと明るさと、それから存在の大きさ。一緒にいるとどうしようもなく嬉しくて、離れているとどうしようもなく寂しい。安心したり、不安になったり。自分の感情がうまくコントロール出来ないくらいに乱されて、でもそれでもいいと思えて。

「…幸せなんです。私みたいなのが先輩の部下でいられるなんて、奇跡にも近いじゃないですか」

もしパラレルワールドという並行世界があったとしてもこんなこと、他のどの次元の世界に行ったってないことだと思う。だから、傍にいられればそれでいい。騙されたって利用されたって、その現実は悲しいことかもしれないけれど、現に私は今ここで伏見先輩と一緒にいる。それだけでいい。でも、欲を言うなら――――……

そこまで考えてハッとする。私、いったい何を言っているんだ!なに勝手にこっぱずかしいことを話し始めているんだ!一気に羞恥心が込み上げてきて顔が沸騰しそうになるぐらい熱くなる。きっと真っ赤になっているだろう顔を隠すように俯いて、呟くように口を開いた。

「す、すみません。変なこと言いました。忘れて、ください…」

途中から声は萎み、消え入りそうなものになっていった。私の馬鹿。これ、本人に言うことじゃないじゃない。こんなのただの告白じゃない。ああやだもう恥ずかしい。きっと疲れすぎて頭もまともに回っていないんだ。でも、話してしまったことはもう戻らない。

視線を落としてぶかぶかの袖を弄る。どうしよう。この状況どうしよう。伏見先輩の顔を見ることなんて到底出来ず、悶々と解決策を考える。なんとかして空気を変えなければ。何か話題、何か違う話題を持ってこよう。そう思って開きかけた唇は、そのまま固まった。

「…渚、」

時間が停止したように動けなくなった。渚って、誰。確かそんな名前をしていた人がいたような気がする。でも、誰だっけ。私にはすぐにそれが誰の名前だか分からなかった。だけど、数秒してそれが自分のものだということに気付いて咄嗟に顔を上げる。唇に、柔らかい何かが触れた。

それは一瞬のことだった。体感的にも時間的にもそうだったのだと思う。一瞬だけ唇に何かが触れて、一瞬だけ伏見先輩の顔が近くに見えて、そしてすぐに消えた。耳元にかかる吐息と背中にまわされた腕に呆然とすることしか出来なかった。

「な、んで…」

頭はフル回転している筈だ。なのに、状況を理解することは出来なくて掠れた声が出た。分からない。何が何だか全然分からない。だけど、肩が震えた。どうしてか、視界が少しだけぼやけた。不格好な笑みが口元に浮かんで、声が震えた。

「なに、してるんですか、伏見先輩。こういうことは、するべき人とするものでしょう…?」

駄目ですよ。自由気ままにこんなことをしたら。そんなことをしていいのはそういう仕事の人だけなんですから。それか遊び人。伏見先輩はそのどちらでもないじゃないですか。ああ、もしかしてこれはスキンシップの一つなんですか?だとしたら笑えないですよ。

そんなことを考えながら、内心泣きそうになっていた。こんなの、変だ。おかしい。だって、これじゃあまるで――――行き場をなくした手をぎゅっと握りしめた。違う。そんなことはない。そんなの、あり得ない。

「やめてくださいよ…。私、自惚れちゃいますから」

あくまで笑顔を貼り付けて、震える声を絞り出した。お気楽で単純で馬鹿で間抜けでドジで鈍感で、そんな私だからこういうことをされると簡単に受け取ってしまう。そんなの先輩にとっても迷惑でしょう。だから早く、冗談だよって言ってください。

「自惚れろよ、好きなだけ」

そう思うのに、どうしてだろうか。喉の奥から込み上げてくるものをかみ殺して、こぼれ落ちそうになる何かを必死に耐えている自分がいる。分かってる。私は都合のいい、馬鹿な女だから。だから、心のどこかで期待してしまっている。

「俺は興味もない奴にこんなことしない」

こんな救いようのない私は、伏見先輩にとって無関心の対象ではないのだろうか。どうでもいい存在ではないのだろうか。もしそうでないのであれば、私は幸せの先にある欲を望んでもいいのだろうか。私は本当にこの人の言葉を信じてもいいのだろうか。

そう考えてから気付く。ああ、そうだ。信じてもいいのか、ではない。信じるか、信じないか。自分の行動一つで全てが決まるのだ。握りしめていた手をゆっくりと動かして、そっと先輩の背中に添えた。崩れてしまいそうな顔を肩口にうずめた。

「わたし、勘違いしますよ?」
「勝手にしてろ」
「っ、ずっと付きまといますよ…?」
「…しつこい」

身体が離されて、向き合う形になる。先輩の瞳は私だけに向けられていた。泣きそうになっているところを見られたくなくて顔を伏せてしまいたかったけれど、その瞳から目を離せない。綺麗で真っ直ぐで誠実な色。そこに嘘や偽りなんて、少しもなかった。

「お前が好きだ」

たった一言。でも、それだけで私の瞳から涙が落ちるのには十分だった。ぼろぼろと頬を伝い、流れ落ちていく。今までの苦しさとか辛さとか痛さとか、全て洗い流してくれるのではないかと思うぐらいに、ぼろぼろと。そんな私を見て伏見先輩は呆れたように言った。

「お前、ほんとによく泣くよな。どこにそんな水分あるんだよ」
「だって、仕方ないじゃないですか、っ。わたし、本当に伏見先輩のこと…!」
「…分かったから、もう泣くな」

少し困ったように私の目尻に溜まった涙を指で拭う伏見先輩はそのまま顔を近付けてきた。反射的に目を瞑ってしまった私には先輩がどんな顔をして私を見ているのか分からない。だけど、瞼に触れた唇の柔らかさに目を開けば、そこには深くて優しい色を纏った瞳があった。

傍にいられればそれでいい。それ以上、望んではいけないのだと思っていた。全てが偶然の作り出した奇跡だと信じていたから。だけど、私がこの人を好きになったのは偶然なんだろうか。この人が私を想ってくれているのは偶然なんだろうか。

「伏見先輩」

少なくとも私はこう思う。私がこの人を好きになったのは偶然ではなく、必然なのだと。運命なんて不確かなものなのかもしれない。幻想に取り憑かれた乙女心なのかもしれない。けれど、こんなにも愛しいと思える人は伏見先輩だけだと思うから。

「好きです。誰よりも、貴方のことが」
「…知ってる」

優しく触れた唇。その時の口づけは甘い涙の味がした。





prev / next

[ back to top ]



「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -