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▼ 27



ふらふらと自室の中を歩く。疲れた、本当に。身体も頭も早く横になりたいと言い張っていて五月蝿い。だけど、まだ寝るわけにはいかなかった。始末書と報告書と、それから今日終わらせられずに持ち帰った資料の整理をしなければ私の今日は終わらないのだ。

疲れきった私という一つの固体がその現実を受け入れたくないと抗って、結局別の考えを持ってくる。ああ、そうだ。お風呂にお湯を張らないと。不意にそんなことを思い出して壁を伝いながら風呂場へと向かう。さすがにシャワーを浴びずに寝るのは嫌だからなぁ。ぼんやりと考えながら蛇口を捻った。水が出ない。

「え、…うわっ!?」

突然、頭上から冷水が降ってきて慌てて蛇口を閉めた。あり得ない。最悪。がっくりと肩を落としてずるずると浴槽に寄りかかる。ぽたりぽたりと髪の毛から水が滴って服を濡らしていくけれど、なんだかもうどうでも良かった。このまま寝てしまおうか。

目を閉じて本格的に眠りに入ろうとした時だ。ドアを叩く音がして意識が覚醒する。まずい、誰か来た。どんなに疲れているとは言え、さすがに居留守を使うわけにはいかない。そんな理性が働いてふらつきながら玄関まで出てドアを開けば、驚きと呆れの混じった顔が待っていた。

「…どういう状況だよ」
「えと、…察してくださると嬉しいです」

浴槽にお湯を張ろうとして蛇口を捻ったらシャワーになってて頭からずぶ濡れになりました、なんて恥ずかしくて言える筈がない。赤くなっているだろう顔を隠すように俯いていれば、風邪ひくぞと呆れたように言われる。それもそうだ。苦笑いを漏らして先輩を部屋の中に招き入れた。

私の自室は必要最低限のものしか置いていない。女の子らしい可愛いものもなければ、オシャレな家具もない。寝て起きて、たまにご飯を食べるような寝床でしかない。一人の女として、同年代の女性から見れば鼻で笑われるかもしれない。だけど、こんな部屋だからこそ伏見先輩を招くのに何の抵抗もないのだと思う。

「それで、どうかしたんですか?申し訳ないんですけど今日はご飯作る気力はなくって…」
「別に飯食いに来たわけじゃない」

話がある。後ろから聞こえてきた声にタオルで髪の毛を拭いていた手を止めた。伏見先輩は私のベッドに腰を下ろして私のことをジッと見ていた。雰囲気からしてあまり楽しい話ではないと察して、濡れたタオルをテーブルに置いて私も先輩の隣に座った。

「話、ですか。もちろん聞きま…へっくしゅ!」
「…着替えれば?」
「うー…、いえ、大丈夫です。服はあんまり濡れてないですから」

そう言いながら鼻をすする。やっぱり寒い。それでなくても疲れている身体に冷水を浴びせるとか、本当に風邪をひくかもしれない。なんでシャワーなんかにしてたかなぁ。数分前の自分を思い出して溜め息を吐く。そんな私を見て伏見先輩も深い溜め息を漏らし、自分の着ていた上着を私の肩にかけた。

「っ、え?あの、伏見先輩…?」
「着とけ。ないよりマシだろ」
「で、でも、濡れて…」
「お前に風邪ひかれる方が色々と困るんだよ」

そう言われて一瞬きょとんとなったけれど、その意味を少し考えてみた。私が風邪をひく。私が仕事を休まなければならなくなる。先輩の仕事が増える。確かにそれは困りますね。なるほどと納得して、それじゃあお言葉に甘えてと袖に腕を通した。

自分の身体よりもいくらか大きい黒のカーディガンはまだ先輩の体温が残っていて温かかった。その温もりがすごく優しい感じがして、なんだかくすぐったい。それに、伏見先輩のにおいがする。なんてことを考えて一人で顔を赤くした。

「怪我の方は?」
「あ、はい、問題ないですよ。治療ならしてもらいましたし、今はほとんど痛みもないです」

ほら、このとおりと真っ白な包帯が巻かれた左手を見せる。ガラスの破片がいくつも突き刺さってると医者に言われた時は気を失いそうになったけど、今ではもう取り除いてもらっているから支障はない。音波でやられた耳も、ほとんど元通りになっていた。

何も後遺症は残っていない。明日になればきっと昨日のように全て元に戻っている。今日の出来事なんて最初からなかったように。身体の方はそう出来ているんだ。でも、心は違うのだと思う。きっと私は今日のことを忘れられない。

「…すみませんでした。宗像室長の指示とはいえ、勝手なことをして」

挙げ句の果てには死にかけて、先輩に助けてもらってしまった。あの時、ストレインに身体を乗っ取られた時とほとんど何も変わらない。どうしてこう自分は何も学習しないのだろう。本当に呆れる。そんな自己嫌悪に呑まれている私を余所に伏見先輩は口を開いた。

「俺と手合わせした時のこと、覚えてるか」
「え?ああ、はい、もちろんです」

随分と懐かしい話を持ち出すんですね。そう言ってから思い出を振り返り、苦笑い。あれは我ながら酷かった。伝説の一戦と呼んでもいいかもしれない。それくらいこてんぱに負かされた。それも極短時間で。

あれが伏見先輩と剣を交えた最初のことで、同時に最後だった。宗像室長の時を例外としてあれ以来、私は今日に至るまで伏見先輩にはもちろん誰かに向かって剣を抜いたことはない。でも、その記録も今日で途切れた。

「怒ってくれて構わないんですよ?私は先輩の命令に背いたわけですし」
「その話はどうでもいい」

即座に一蹴されて今度こそ目を丸くさせる。あれ、てっきり怒られる話だと思っていたのに違ったようだ。なら、何の話をしようというのだろう。今までの自分の不始末を思い返してみるけれど、ここで改めて言われることは見つからなかった。でも、伏見先輩は私のそんな疑問なんて気にもせずに続ける。

「天風、お前は勘違いしてんだよ。俺はお前が思うほど完璧じゃない」

いったい何の話ですか、と思わず声を上げたくなった。勘違い?完璧じゃない?関連するキーワードを見つけ出そうと脳内の知識を振り絞るけれど、何のことだかさっぱり分からない。伏見先輩は完璧ではなかったとしても、完璧に近い人だろうに。

考えていることが顔に出ていたのだろうか。伏見先輩は少し疲れたような表情で溜め息を吐き、視線をそらす。その行動は伏見先輩にしては珍しいことのように思えた。まるで、私から逃げているように見えたから。

「…俺がお前を騙していたって言ったら、どうする」
「それは…、内容によりますけど。とんでもない内容であれば、怒るかもしれませんね」

そこまで言って考える。つまり私は先輩に騙されていた、ということなのだろうか。ちくりと胸の辺りが痛んだような気がする。そっか、騙されてたんだ。そのことは悲しい。寂しい。だけど、それならなおさら向き合わなければならないだろう。全てを聞く権利が私にはあるだろう。

「どういうことなんですか?先輩」

聞きたくないという気持ちもあったけれど、知らなければならないという義務的な思いの方が強かった。声は少しだけ震えた。でも、逃げない。泣かない。そんな私を見て諦めたように伏見先輩は口を開いた。

「お前は戦える。人並みにな」
「え、でも今日のアレは端から見れば完全に私の負けでしたよ?」
「勝ち負けは関係ない。現実問題として、今回お前は戦えただろ」

まあ、そうですけど。そう呟いてふと何かが思いつく。この人は遠回しに何かを伝えようとしている。私に気付かせようとしている。その何かが何なのかは今までの会話を聞いて、すぐに分かった。

「もしかして私に剣の才能がないって言葉は嘘だったんですか…?」

私の言葉に対して伏見先輩は何も言わずに難しい顔をしていた。どうやら間違っていないらしい。そうか、先輩はそんな嘘を吐いていたのか。そんな驚きと同時に私には一つの希望が見えたような気がした。

「つ、つまりこれから頑張れば強くなれるってことですよね?」
「…まあ、そうなるけど」

強くなれる望みがある。ついこの前まで自分にはもうこれ以上何も望めないと考えていた私にとって、それは喜びの塊のような言葉だった。疲れなんてどこかに飛んでいってしまったかのように気持ちが高ぶり、声が弾んだ。

「私、頑張りますから!今までよりももっとたくさん訓練して、それで…」
「ちょっと待て。お前、俺の話聞いてた?」

突然、伏見先輩が私の言葉を遮ったのできょとんとなる。もちろん聞いていましたけど。どうかしました?と首を傾げれば、やっぱり馬鹿かと呆れ顔で言われた。そんな急にひどい。何がおかしいって言うんですか。頬を膨らませれば、やはり返ってきたのは溜め息だった。

「あのな、俺はお前を騙して私情のために利用してんだよ。なのになに喜んでんの、お前」

なんでって、喜んでいるのは私にもまだ強くなれる希望が見つかったから。それだけ。そもそも伏見先輩は大袈裟すぎる。私に剣を握らせないようにしていただけのことを、そんな騙すだなんて形容する必要はないだろう。別に私の生死に関係する話ではないのに。そんなことを考え、悩みながら気になったことがあったので一言。

「私情って、なんですか?」
「…言いたくねぇ」

苦虫を潰したように顔を歪める伏見先輩を見て、ああこれは本当に言いたくないんだなと察する。でも、きっと伏見先輩のことだ。何か事情があったに違いない。一人で納得して割り切って気になっても詮索しないようにしようと決めて――――でも所詮は納得したのなんて私一人だ。

「騙されて利用されて、お前はなんで俺を責めようとしないんだよ」

私がこの人のことを納得させられるようなことを言えるのだろうか。無理だと思う。だって自分でもその疑問の答えがはっきりとは分からなかったから。どうしてだろうか。先輩を責めるなんて選択肢は元からなかったように思える。それは何故だろうか。

「そんなこと、出来るわけないですよ」

視線を手元に落とす。確かに私は剣を握ることを許されなくて悩んだ。苦しんだ。辛い思いもした。ここに配属されて今までの人生をこの人の手で縛り付けられてきた。私にはきっと伏見先輩を責める権利も恨む権利もあるのだと思う。だけど、無理だ。

「先輩のことを考えると、どうしても別の感情に流されてどうでもよくなるんです」

憎いとか腹立たしいとか、そんな感情が湧いてくることはなかった。ただ、あるのは温かくて優しくて明るい何か。この感情に名前をつけるとするなら――――自覚すると同時に笑みが零れて私は顔を上げた。そして伏見先輩の青い瞳を見つめ、微笑んだ。そう、この気持ちは――――……

「きっと、伏見先輩のことが好きだから。だから、誰よりも傍にいて、役に立ちたいと思うんです」

誰かのことをどうしようもないほど愛しく想う、そんな気持ちなんだろう。





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