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▼ 空虚概念



彼女は花のような人だった。例えるならば、全てのものを包み込む大輪のような。例えるならば、全てのものを魅了する薔薇のような。例えるならば、全てのものの傍にいる野花のような。ああ、そうか。彼女は花ではない。ありとあらゆる種類のそれを集めた、花束のような人だった。

いつからだろう。その色とりどりの花が段々と色を失い始め、萎れていくようになったのは。そう自分に問いかけて溜め息を吐く。いつから、なんて分かりきっていたことだった。ただ、その現実から目を背けていたに過ぎなかった。ただ、彼女と向き合うことを避けていただけだった。

「今日も来てくれたんですね、礼司さん」

何も置かれていない真っ白な室内。風に揺れる真っ白なカーテン。清潔そうな真っ白なベッド。薄桃色の寝間着から覗く真っ白な肌。どれも自分のいる場所からは隔離されたように存在していた。今の自分とは何の関係もない、程遠いもの。いつか自分にも訪れるかもしれないと分かっていても、どこか他人事にしか見ることのできない、虚無な空間。

いい気はしない。それなのに此処に来てしまうのは、どこまでも彼女に依存しているからだろうか。馬鹿馬鹿しいと思いながらも決して逃れることのできない現実を思い知り、同時にそれでもいいと一人納得する。メガネのブリッジを人差し指で押し上げ、微笑む。きっと、それもまた現実逃避の一つだった。

「仕事が早く終わったものですから」
「嘘吐きですね。公務員の仕事はいつもいつもこんなに早く終わるものじゃないですよ?」

自分の気持ちを隠すようにして告げた言葉もふくみ笑いと共に一蹴され、意味を失くす。嘘吐き。彼女には私の気持ちなど、手に取るように分かってしまうのだろうか。それとも、裏にある真意には気付くことなく、ただ上辺だけの言葉を鵜呑みにしてそう言っただけなのだろうか。どちらでもあるように感じ、どちらでもないようにも感じる。本当に不思議な女性だった。

「それが、組織の一番上に立つ人なら尚更のことです」

彼女はただの一般人だった。普通の生活を送り、普通の生き方をして、普通に死んでいく筈だったただの人間。それが、どうして王権者などという自分と出会ってしまったのか。どうして全てを理解した上で私を一人の人間として受け入れたのか。どうして、病などに侵されなければならなかったのか。王であっても神ではない私には何も分からなかった。

ふと、ベッドの傍にある服を入れる小さな棚の上に花瓶に挿さった一輪の花があるのが見えた。誰かが見舞いに来て残していったのだろう。ガーベラ。嫌な音を立てて胸のあたりに刃のようなものが深く突き刺さる。違うだろう。考えすぎだろうと自分に言い聞かせる。それでも、まるでその花弁が彼女に死刑宣告を言い渡しているような気がしてならなかった。

たった一本の花。そんなものが私に目の前のものを見ろと理想を打ち砕き、現実を突きつける。そうして私は、また目を背ける。真っ白な彼女には真っ黒な得体のしれない何かが巣食っていて、それは今尚彼女の身体を蝕んでいる。それを私は見つめ続けることができなかった。暗闇と目を合わせることができなかった。情けない。こうして気丈に振る舞う彼女の方が自分よりも何倍も、何十倍も強い。

「礼司さん。今日は夕日が綺麗ですね」

何も言えず、黙り込んでいた私を助けるように彼女は視線を窓の外へと向け、釣られるようにして私も空を見る。空は橙色に染まり、太陽が地平線の彼方へと姿を隠そうとしていた。また、夜が来る。胸に重たいものを感じながら、チラリとベッドの上で身体を起こした彼女を一瞥する。彼女の表情は穏やかだった。本気でこの空に感動していた。ほんの些細なこと。けれど、彼女にとってはまた見ることができるのかすら分からない絶景。内心落ち着かなくなりながらも平静を装って口を開く。

「体調はどうですか?」
「すこぶる元気です。すぐにでも退院できるのに、お医者さんがなかなか許しをくれなくて」

まったく頑固なお医者さんです。そう言ってむくれる彼女が嘘を吐いているのを私は知っている。本当は夜、病室で一人何度も何度も咳き込んで苦しそうに息をしているのも。決まった時間に訪れる立っていることすらできないような激しい頭痛にいつも怯えているのも。

私はその時、彼女の傍にいてやることができない。偉そうなことを口にしたところで、所詮は他力本願。どうして自分が傍にいない時の彼女を知っているのかというのも、結局は検診に回る看護師から聞いた話に過ぎない。何もできず、ただ眺めているだけ。心配をかけまいとして全てを隠す彼女の姿は、酷く痛々しい。

壁にかけられたカレンダーには彼女の少ないスケジュールが書き込まれている。そこに一際目立つ文字がある。もう何ヶ月もこの檻の中で過ごし、身体を開けられ、回復すると信じられ、また床に伏す。その繰り返しを見てきた私には見覚えのある文字。そっと指でなぞり、少しでも安心させようと笑みを向けた。

「手術日は明後日でしたね。その時は私もここに来ます」
「駄目ですよ!その日もお仕事はあるでしょう?ちゃんとやらないと…」
「優秀な部下たちがいますから。安心してください。自分の仕事はしっかりとこなしていますから」

そう微笑みながら言うと彼女は少し困ったように眉を下げながらも、やがて嬉しそうに破顔する。なら、来てくれると安心します。そう言って私を安心させるのはいつものこと。だけど、今日ばかりは少し違った。しばらくすると彼女の表情は曇り、手元に視線を落とした。

「…手術は、嫌いです。痛いのは嫌です」

麻酔で痛みなど分からない筈なのに彼女は痛みを知っていた。それはきっと体感的な痛みではないのだろう。明るく、優しく、強い彼女の精神力も何度目か分からない苦痛と度重なる治療に悲鳴を上げていた。私には癒しきれない傷跡が残り、じわじわと広がり、やがては全てを喰い尽くす。

「もう、楽になりたいな」

窓の外を見つめる視線はどこか遠くの空を見つめているようだった。その時、初めて彼女のことを儚いと感じた。今にも消え入りそうな、そんな脆さを見せる彼女を見るのは初めてで、表には出さなかったものの動揺する。震えそうになる喉を叱咤して吐き出した声は本当に震えていなかったのだろうか。

「…そんなことを言わないでください。良くなるものも良くなりませんよ」
「そう、ですね。そうですよね。ごめんなさい。変なことを言っちゃいました」

まるで子どものような仕草でペロリと舌を出す。可愛らしいと思うべきなのかもしれない。愛らしいと感じるべきなのかもしれない。ただ、今の私にはそんな彼女の振る舞いすらも痛々しく感じ、同時にどうしようもないほど愛おしいと想った。

椅子に腰を下ろし、手を伸ばす。昔のように手入れができなくなり、少し痛んだ髪に指を通す。何度も、何度も、梳くようにして頭を撫でれば、きょとんとしていた彼女も微笑みを浮かべ、心地よさそうに目を閉じる。信じている。いや、信じていたであろう言葉を投げかけて、そうして私は救われようとした。

「大丈夫。きっと、また外に出て好きなことができるようになりますよ」

昔のように、なんの不自由もなく生きることができる。疑いを必死に隠しながら、そう信じ続けた。そうすることでしか未来を見出せなかった。

「そうなったら、いろんなところに連れて行ってください。オシャレな服を買いたいし、甘いものも食べたいな。それから…」

目を輝かせて彼女はいくつもの言葉を並べる。ありきたりな、なんの変哲もない普通の生活。それが今の彼女には叶わない。この窓の外から羨ましそうに同世代の女性を見下ろすことしかできない。それを人はどう思うのか。哀れ?可哀相?そのどれでもないのだと思った。

何も感じないのだろう。何も思わないのだろう。一言で言ってしまえば、無関心。彼女の境遇など一握りの人間しか知らない。小耳に挟んだ友人や近隣住民が知ったとしても、「ああ、そうなんだ。かわいそうに」それだけ。もう二度と彼らの思考の中に彼女は生まれない。理不尽だ。こんなにも彼女は強く、こんなにも彼女は優しく、こんなにも彼女はーーーーー

「それから、私と礼司さんが初めて会った場所にも行きたいです」

そう言ってふわりと微笑んだ彼女は、やはり色とりどりの美しい花束のような女性だった。初めて会った場所は何もない辺鄙な場所。たまたま出会ってしまっただけで、どうしてこんな関係になったのか。そんなところでいいのかと問えば、彼女は嬉しそうに大きく首を縦に振る。そんな彼女を私は籠の中から出してやりたかった。

「…ええ、行きましょう。貴女の好きなところに行って好きなことだけをしましょう」

それだけの権利が彼女にはある筈なのだから。こんな狭い病室に閉じ込められて、長い間辛い思いをしてきた彼女には自由なことをする資格がある筈なのだから。失った時間と等価交換に幸せを手にすることができなければ、それこそこの世界は矛盾と理不尽の塊だ。虚構だ。らしくないほど熱くなる自分を嘲笑いながら、今にも壊れてしまいそうな小さな身体をそっと抱きしめた。

「なんだか、くすぐったいですね」

身をよじらせながらクスクスと笑う彼女の身体は細かった。出歩くことも決められた時間にしかできなくなり、趣味だった料理もできずに病院食しか食べれなくなったこの身体は、簡単に持ち上げることができるほど軽いのだろう。それでも彼女は弱音の一つ漏らすことはなかった。

「…でも、嬉しいです。すごく、幸せです」

背中にまわされた腕が、そこに私がいるということを確かめるように服を握りしめた。彼女にとって幸せとは一体なんなのか。それを聞こうとして唇を動かすのとほぼ同時にコンコンとドアをノックされる。それは面会時間の終わりを示し、彼女に孤独の夜がやって来ることを告げる。また彼女は私の見えないところで苦しみ、嘆くのだろうか。

身体を離し、最後にもう一度軽く後ろ髪を撫でてやれば彼女は戸惑いがちに、一つお願いをしてもいいですか?私の腕を掴んだ。明日も来て欲しいと言いたいのだろうか。そう逆に問いかけて、もちろん来るつもりですよと答えを返せば彼女はそうではない首を横に振る。そして、僅かに瞳を揺らしながら私を見上げた。

「名前を、呼んでくれませんか?」

いつも名前を呼ばないというわけではない。今日はたまたま呼んでいないだけで、そんなことはよくあることだった。だが、今日の彼女はどこか必死の色をその目に宿していた。どうしたのだろうか、と疑問を覚えながらも断る理由など特にない。少しでも抱えるものを取り払うことができればと、彼女の手を握り直した。

「彩音」

ただ、名前を呼んだだけにすぎない。それなのに、彼女は喜びで表情を崩す。ありがとうございます。もう十分です。その笑顔に戦慄のようなものを感じた。歪んだ笑みだったというわけではない。ただ、その笑みの裏に何かが潜んでいた。それが何だったのか分からないでいる間に彼女の笑みはいつもの微笑みへと変化する。

「そろそろ行かないと看護師さんに怒られちゃいますよ?」
「そう、ですね。…それでは私は行きます。また、明日」
「はい。おやすみなさい、礼司さん」

その時、気付くべきだったのだろう。言葉の節々に隠れていた暗闇に。前触れはあった。予感もしていた。それでも、その僅かな変化を見て見ぬふりをした。きっと、私は恐怖していた。王でもあろう私が恐れていたことは普通の人間となんら変わらない、愛する彼女の喪失だった。

その日の夜、彼女の容体が急変したという知らせが入った。駆けつけたときには既に彼女に意識はなく、危篤の状態。私よりも先に病室を訪れていた彼女の両親は泣き崩れ、どうしてどうしてと譫言のように繰り返す。主治医は沈痛な面持ちでそこに佇む。そんな中で私はつい数時間前まで笑い、話していた彼女の傍に近寄った。

「彩音…」

返事はない。微笑みもない。その瞳を開いて私を映し出すこともない。不思議とその時の私の心情は穏やかだった。恐れはなかった。焦燥もなかった。ただ、どこか安堵していた。楽になりたい。彼女の声と言葉が蘇る。ようやく、彼女は鳥籠の中から飛び立つことができる。

額に手を乗せて、祈るように目を閉じる。願うことならば、どうか愛する彼女にまた出会うことができますように。瞼を上げた時、一筋の涙が彼女の頬を伝った。

無機質な電子音が室内に鳴り響く。泣き声がより一層大きくなり、主治医が彼女の口元を覆っていた酸素マスクを外す。脈をとり、瞳孔を調べ、もう分かりきっている事実を突きつけようとする。それを手で制して遮ったのは、私の最後の抵抗だった。

相変わらず穏やかな表情の彼女はもうどこにもいない。生きた。死んだ。頬に手を寄せ、唇に自分のそれを重ねる。悲しい。寂しい。悔しい。腹立たしい。助けてやれなくて、すまない。出かかった言葉を飲み込んで、最期の愛を捧げた。

「ありがとう、彩音」

私はその瞬間まで現実から目を背けていたのだろう。彼女の死を目の前にするまで、彼女の苦しみと向き合っていなかったのだろう。言葉にした瞬間、まるで濁流のように襲いかかってきた虚無感に唇を噛みしめる。本当に、死んだのか。現実味など微塵もない。ただ、心には風穴が開いていた。

「室長、今日はよろしいのですか?」
「よろしい、とは何のことでしょう?」

室長室で夕暮れ時を過ごしながら、ジグソーパズルのピースをはめていたある日のこと。提示報告のために部屋にやって来た淡島くんが、どこか困惑と疑念の色を滲ませながら報告以外のことを口にした。必要以上のことは踏み込んでこない彼女の言動に少し関心を持ちながらも、視線は机上に向けたまま。だからだろうか。彼女の唇から出てくる言葉を少しも予想できなかったのは。

「いつもこの時間に屯所を出られていたと記憶していたのですが…」

指が止まる。瞬時に脳裏を過ぎったのは彼女の笑顔。もう二度と見ることのできないそれをすぐに振り払い、消し去った。必要ない。関係ない。顔を上げてニッコリと微笑んだ。

「もう、いいんです」

微笑みを向けた先の淡島くんの顔色が変わる。失礼しました、と慌てたように頭を下げて部屋を出て行った彼女の後ろ姿を見ながら、何かおかしなことをしただろうかと首を傾げる。だが、考えても思い当たる節がなく、すぐに興味が失せてまたパズルに指を走らせた。しかし、それもまたすぐに止まる。

足りない。完成間近になったジグソーパズルは1ピースだけ足りず、穴が空く。どこかに紛れ込んだのだろうか。軽く机上を見てみるが見つからない。しっかり探さなければ、と思っても身体が動かない。視線を外そうとしても眼球すらまともに動かすことができず、無意識のうちに不完全な形のそれに触れていた。

深く愛し、信じていれば決して彼女は裏切らないと思っていた。自分からいなくなることなどあり得ないと思っていた。そう陶酔して逃げていた。やはり、依存しているのか。慈しむように指を滑らせて、最後はピースのない心臓部へと辿り着く。それは、彼女の心臓が動きを止め、心が失われたことを形として表しているようだった。

いなくなった彼女の存在は、私には必要ない。関係ない。ただ、【俺】には必要だった。関係あった。俺は彼女を過去に捨て去ることなど、できなかった。

「…彩音」

お前のいない世界は、こんなにも空っぽだ。



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