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▼ 社会

仕事でミスをした。どうしようもない、キャリアのある人からしてみれば驚かれるようなミス。入りたての新人がするような、そんなミス。

私がここで仕事をするのはなにも初めてじゃなかった。もう経験を重ねてる。確かにいろんな部署を転々としてようやく行き着いた先がここだったけれど、それでももう新人ではなかった。

なのに、なんでこんなミスをしたんだろう。自分でも分からない。ちゃんとやったつもりだったのに。いつも通りにやったつもりだったのに。

「帰らねぇの?」

せめてもの罪滅ぼしと思って私は残業をしていた。罪滅ぼしなんて聞こえはいいが、実際は怒られるのが怖くて頑張ってるだけ。謝罪の意を込めて、それを見える形にしているだけだった。

幸か不幸か、仕事場に残っているのは私だけじゃなかった。普段であれば一人じゃなくてよかったと思うけれど、今日はそうはいかない。一人がよかったと切に思う。

特に、この天才肌の伏見猿比古でなければ。なんの因果か、こんな日に限って二人だけとは。ついてない。そうだ、今日はきっと運がなかったんだ。

「帰れよ」
「…うるさいな」

しつこく声をかけられて思わず苛立ちの混じった声を吐き出した。うるさい。黙ってろ。今の私は誰とも喋りたくないんだ。泣きそうになるのをぐっと堪えて光を放つ画面に視線を預けた。

私のしでかしたミスで同僚に迷惑をかけた。先輩にも、後輩にも。自分一人で始末できればよかったけれど、そういう規模のミスではなくて。私のミスなのに、私だけの責任ではなくなってしまった。

ほんとどうしようもない。なんでこうなんだろう。先輩からは気にしなくていいと言われた。そういう時もあると言われた。でも、それが逆に辛かった。

私のミスなのに。私の責任なのに。ごめんなさい。言葉には出せずに心の中で謝り続ける。ごめんなさい。ごめんなさい。

泣くに泣けなかった。泣いて慰めて欲しかったのと同時に、それもまた迷惑だと分かっていた。だから、今は泣かずにいようと決めていた。寮に戻って一人になって、そして泣こうと決めていた。

「邪魔なんだよ、お前」

なのに、コイツは。弱りきったメンタルを踏みつけるように言葉を吐きつける。邪魔。一気に胸のあたりからなにかが込み上げてきて、熱くなる。

「成長しないよな、ほんと。そろそろ慣れろよ。いつまでガキ気取ってンだ」

分かってる。そんなの私が一番分かってるよ。お前になにが分かるんだ、エリート様になにが分かる。沸き上がってくるものをぐっと堪えて、息を吐き出す。唇は震えていた。

「ここは学校じゃない。過保護に育てられたお嬢様が考えるほど世の中甘くねぇンだよ」
「っるさいなぁ…」

ああそうだ。ここは学校じゃない。社会だ。両親に守られて、学校に守られて、身内とだけ関わっていた時とは違う。言われたことだけをやっていたあの頃とは違う。

いろんな人がいて、その中で生きていく。みんな他人。だから、誰がなにを思っているかなんてお互い知ったことじゃない。みんな、敵。

「さっさと帰れ、役立たず」

分かっていた。覚悟していた。でも、甘かった。見くびっていた。いや、甘えていた。きっと誰かが守ってくれるだろうって、いもしない誰かに頼っていた。

右手で口元を押さえる。ふーふーと震えた息が漏れて、やがて嗚咽に変わった。鼻が鳴った。涙が止まらなくなった。泣いた。

「わたしだって、がんばってるのに…!」

毎日、頑張って仕事をしている。手を抜いたつもりなんて一度もない。人目を気にして、人の顔色を窺って、自分が生き残れる道を探してきた。必死になって本音を隠してきた。

私は頑張ってる。だから、せめてそれを認めてほしかった。

「言ったろ。ここは学校じゃないって」

でも、伏見の声色はさっきと変わっていなかった。決して私のことを擁護したり、認めたりする気はなかった。コイツは私を責める気だ。それが分かって、もっと涙が出た。

「他人は見えるものしか見ねぇンだよ。結果だけだ。過程なんて関係ない。自分たちの利益以外知ったことじゃない」

社会ってそんなモンだろ。お前年は幾つだ、と言いたくなるような言い方だった。まだ18だろ。なのに、なんで私よりも社会に馴染んでるんだ。なんでみんな私よりも優秀なんだ。

理解していたつもりだった。でも、やっぱり甘かった。頑張ってるんだ、と言ったところでそれがなんだ。それが仕事だろう。そう切り返されることを恐れていた。

私は子どものままでいたかった。ずっと、死ぬまで子どもでいたかった。頑張れば褒めてもらえる。生きているだけで守ってもらえる。そんな甘ったれた世界で老婆になっても生きていたかった。

伏見の手が伸びてきて勝手にキーボードを叩く。ウィンドウを閉めて、シャットダウン。USBを抜いて、私の仕事をかっさらう。

「あっ…」
「無能に任せておいても終わりそうにないから俺がやる」

無能。グサリと突き刺さって視界が曇った。わざわざ言わなくたっていいだろ、このクソガキ。ああそうですよ。私なんかより貴方の方が仕事ができますよ。

真っ暗になった画面に映る自分を見たくなくて両手で顔を覆った。涙と鼻水とマスカラやら何やらで、あっという間に手が汚れる。でも、もうどうだって良かった。

最悪な一日だ。ミスをして、怒られて、泣いて、挙げ句の果てには年下に馬鹿にされた。こんな日、頭の中から抹消したい。なかったことにしてしまいたい。

「そのブサイクな顔、なんとかしてから帰れ。泣きながら寮まで帰るような真似はすんな」

誰かに誤解されたら面倒だから、なんて至極どうでもいいことを言う伏見に向かって叫びたい。黙れクソガキ余計なお世話ださっさとどっか行け。

ぐずぐずと泣いていれば伏見は盛大な溜め息を吐き出して私のデスクから離れた。コツコツとブーツの音がする。そのままドアの開く音がした。どうやら出て行くらしい。

「おい、東條」

返事なんてしてやるもんか。早く出てけ。不貞腐れた子どものように強がって無視していると、諦めたのか舌打ちを残して部屋を出て行った。

一人だ。静かだ。誰もいない。誰の目も気にしなくていい。ジワリと目頭が熱くなる。また涙が溢れてくる。ほんとに自分が、理不尽な世間が嫌になる。

もうやめたい。そう思った時、唐突に部屋のドアが開いた。他に人が来るだなんて思ってもいなくて心の準備もしていなかったから肩がビクリと揺れる。誰だ?伏見?いや、アイツはさっき出て行った。

誰だろうと嫌だった。こんなところ、誰にも見られたくない。ぐっと歯を食いしばって両手で顔を隠す。でも、無理やり押さえ込もうとすればするほど、歯の隙間を縫って声が漏れる。

足音がすぐそばで止まった。人の気配がする。指の間から一瞥してみれば、やっぱり人の足が見えた。

ああもう、なんの用なんだ。要件がないなら、馬鹿にするなら、慰めるつもりなら出てってよ。もう私に話しかけないでよ。関わらないでよ。

その誰かがいなくなるまで私はジッと動かないでいた。気付いていないフリをし続けて、ただただ一刻も早く去ってくれることを切に願った。早く。ぐっと歯を食いしばって目を閉じる。

不意に頭に重みを感じた。なにか濡れているような、少し重くて変なもの。なんだろう、と咄嗟に思考を巡らす前に肩に手を置かれ、人の温度をすぐそばで感じた。

「…ちゃんと明日も来いよ」

気配が離れて、ドアが閉まる。部屋の中には今度こそ私だけになる。頭の上に手を伸ばして置かれたなにかを掴んでみれば、温水で濡らされた白いタオル。ハァと震える息を吐き出して笑った。口元が引きつった。下唇を噛み締めた。声を出して泣いた。

なんなんだよ、アイツは。散々責め立てたかと思えばこんなことをして、私をどうしたいんだよ。貶したいのか、慰めたいのか。伏見は、私を必要としてくれているのか。

濡れたタオルに顔を埋めた。そのまま気が済むまで泣いた。ごめんなさい。ありがとう。その言葉を何度も何度も繰り返しながら。

翌日、「おはよう」と声をかければ「…はよ」といつも通りの声が返ってきて。「昨日はごめん」と謝れば「なんのことだよ無能」と優しいのかそうじゃないのかよく分からない言葉が返ってくる。

「今日は頑張るから。同じことしないように」
「今日“も”だろうが、バカ」

容赦ないデコピンの衝撃に思わず「いてっ」と可愛げのない声を漏らせば、伏見は小馬鹿にしたように鼻で笑って去っていく。本当にそれだけ。甘い展開なんてどこにもない。

だけど、なんとなく気分が軽かった。今日、ここに来てよかったと思った。まだ一日は長くてこれからどうなるかなんて分からない。もしかすると嫌なこともあるかもしれない。

けれど、それでも今日一日頑張ろうと思えた。


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