▼ 七夕
無性にアイツの声が聞きたくなった。それだけ。唐突な衝動だった。なんで今なのか。なんでアイツなのか。理由なんてなかった。ただ、なんとなく。
タンマツを操作して、浮かび上がった数列をジッと見つめた。最後に話したのはいつだったか。昨日だった気もするし、数日、数ヶ月前だったような気もする。記憶は酷く曖昧なものだった。
いちいち記録なんてしてないから正確な日にちは分からない。ただ、最近だった気がする。話したことは、なんだっけか。いまいち覚えていない。
なんの為に会話してんだよ。アホらしい。鼻で笑ってタンマツをしまう。その途端、見計らったようにタンマツが振動した。こんな時間に誰だよ。舌打ちを一つ溢してディスプレイに視線を落とした。
相手次第では無視するつもりだったし、そうでなくても誰が相手だろうが今仕事中ですとありきたりな言い訳ーー実際夜勤なわけだし嘘は言ってないーーをして早々に切るつもりだった。
そのくせ、その名前を見てなにも考えられなくなっていた。言い訳も、なにも。電話を切るという行動も、そもそも電話に出るという概念すらも。
「伏見さーん?タンマツ震えてますよー?」
声をかけられてハッとする。大丈夫ですか?と同じ夜勤の隊員が首を傾げて聞いてくるのを適当にあしらって部屋を出た。その間、視線はタンマツから離れなかった。
未だに振動は収まらない。何度も何度も俺を呼び出そうとする。なんでだよ。なんで今なんだよ。以心伝心とか気色悪い。液晶に映る名前は今さっきまで見て、考えていた奴のものだった。
足早に仮眠室に駆け込んで一度息を吐き出す。おかしな気分だ。なんだよ、これ。舌を打ってから通話ボタンに触れる。もしもし?と聞こえてきた声はすんなり耳から胸に落ちた。
「ごめん。仕事中だった?」
「…いや」
なら良かった。幼馴染はそう言って小さく笑った。嘘だった。今も仕事中だ。ただ、肯定すれば申し訳なさそうに声を上げてすぐに切られるのは分かっていた。コイツはそういう奴だ。
おかしな話だった。俺の方から切るつもりだったのに、切られることを嫌って考えてもいなかった嘘を言う自分がそこにはいた。なんて馬鹿らしい。なんでおれがそんなことを。
「なんか声聞きたくなっちゃってさ」
「…お前いまどこいんの?病室じゃねーだろ」
声が聞きたくなったとか、ついさっきまで自分が思っていたことを相手に言われるのはどうにも気恥ずかしい。浮かれてる。ほんと誰だよ、俺。そういう自分がどうそようもなく気持ち悪くてすぐに言葉を遮れば、機械越しの声が一瞬詰まった。
あー、と言い訳を考えるために間を保たせようとしてるのが見え見えの間延びした声。マジで外にいンのかよ。呆れて言葉を忘れた。こんな時間に病院内でタンマツなんて使えないと思って発破をかけたつもりが思わぬ誤算だ。
「さすがに誤魔化せないかぁ。今は外。抜け出しちゃった」
ちょっと悪戯してきました、みたいな軽い言い方になにか言う気力を忘れた。バカか、コイツ。盛大な溜め息をくれてやれば、大丈夫だよ、と他人事のような陽気な声が返ってくる。
「平気平気。すぐに戻るから、心配しないで」
「誰がお前の心配なんざするか」
いいからさっさと部屋戻れ。やっぱり心配してくれてるんだね。呆れてるんだよこのおめでた頭。相変わらず意地悪だね。そう言って小さく笑う彩音は変わらなかった。なにも。
「猿くん、お仕事の調子はどう?なんだっけ、えーっと…法務省個性派?」
「東京法務局戸籍課第四分室通称セプター4、だろ」
「それそれ!」
覚える気もないだろと思わずツッコミたくなるような名前だ。アホらしい。どこからそんな名前出てきた。頭の中からっぽなんじゃねーの。脳みそ溶けてんだろ。
たぶん、目の前に彩音がいたら今思ったことの全てを口にしていた。嘲笑って鼻で笑って見下して。でも、そうできなかったのは、今アイツがどんな顔をしているのか分からなかったからだ。
言ったところで、ひどいなぁと笑うだけだろう。ただ、その時の表情が笑っているのか悲しんでいるのか、電話を通じてでしか彩音を知れない今の俺には分からない。らしくないと思う。存外、かなり気にしているらしい。
「昔から仕事は早かったからきっと昇進して頑張ってるんだろうね。ただ人間関係的な意味で不器用なところが玉に瑕で…」
昔から変わらなかった。声色に感情を隠すのは得意だったが、表情を誤魔化すことは苦手だった。顔を見れば泣いてたり笑ってたり照れてたり怒ってたり。忙しいくらいに表情をコロコロと変える。
昔から変わらなかった。頭のネジがどこか抜けているらしく的外れなことばかり口にする。記憶力も乏しく、二つのことを同時にできない。きっと今も電話に夢中で足を動かすことを忘れてる。
それが彩音の個性だと思ってた。それが堪らなくうざかった。いつまで経ってもガキみたいで幼稚で、それがどうしようもなく嫌いだった。好きになれなかった。俺は、なにも知らなかった。
「でも、無茶はしちゃダメだよ」
昔から変わらなかった。俺より二つ年上だからだろうか、いつだって俺のことを心配した。姉貴面してんじゃねぇよ。幼馴染のくせに。そういうの鬱陶しいんだよ。そう、昔は思っていた。
「一人で抱え込んじゃダメ。誰でもいい。友達でも上司でもいい。もちろん、彼女がいるならそれでもいい。誰かに頼って、頼られて、支え合うんだよ」
物足りないと感じるようになったのは彩音がいなくなってからだ。家族みたいにいつも一緒にいた彩音は中学卒業を前に俺の前からいなくなった。
うるさい小言だと、鬱陶しい心配だとずっと思っていたのに、いざそれがなくなるとどことなく空虚だ。なにかが足りない。そう思って隣を見ても、誰もいない。なにもない。
俺にとって彩音は自分の一部だった。必ず近くにいて、甲斐甲斐しく世話を焼いて、うざったい心配をしてくる。それが当たり前だった。それが日常だった。彩音のいない生活は非日常だった。
彩音の心配性なところは今となっては懐かしい。ああ、そうだな。言葉にはしてやらないが妙に納得した。頼って、頼られて、支え合う。でも、俺にそんな相手はいない。そしておそらく彩音にも。
「…人のこと言えんのかよ、お前」
「私は関係ないでしょ。ただベッドの上にいればいいだけなんだし」
だからこそだろうが。お前は正真正銘、一人ぼっちなんだよ。頼る相手も頼られる相手も、作る作らない以前に存在してねぇだろうが。
気づけよ。俺のことの前に自分をどうにかしろよ。吐き出しそうになった悲鳴をぐっと押し留める。そんなことを言ったところで、そうだねぇと笑うだけだろう。彩音はそういう奴だった。
人は変わる。もちろん、俺も変わった。その変化は身を持って体験してきた。当然だと思っていた日常が非日常になることとか、そばにいるのが当たり前だと思ってた奴がいなくなるとか、俺のことを見なくなるとか。
だが、彩音は変わらない。自分の身を取り巻く環境が変わらないから変わらない。変われない。いつも個室に閉じ込められて、見慣れた風景ばかり見て、同じ医者やら看護師と接して同じことをされて同じことをして、変われる要素がどこにもない。
彩音が変わらないことに対して内心複雑だった。嬉しい?悲しい?寂しい?楽しい?どれも当てはまった。そのままであって欲しいと思う反面、それではいけないとも思う。そんなこと俺が感じる必要性などどこにもない筈なのに。
「わっ、すごい!ねぇ猿くん、空見て空!」
なにかに驚いたような声に思わず窓の外を見る。暗い。だが、街灯が消えることはない。暗いくせに、どこか寂しげに明るい。見慣れた風景が妙に現実離れしているように見えて、俺は光から目を背けるように暗闇を見上げた。
「別になんもないけど」
「あれ?おかしいな、こっちの空すごいことになってるのに」
すごいことってなんだよ。もっと表現の仕方あるだろ。呆れながら空を見上げていれば、ふと思いつくことがあった。そういえば。壁にかかったカレンダーを一瞥して日付を確認。ああ、やっぱり。
「…七夕。天の川か」
「そう!それだ!…すっごい綺麗。そっちは見えないの?」
「都心と山の上じゃ空気の質が違うだろ。こっちじゃなんも見えねーよ」
俺から見えるものはただの薄暗い闇だった。どういう因果か、毎年季節的にこの日は悪天候と重なることが多く、普段なら見える星の欠片も見えない。辛うじて雲の間から月が顔を見せているだけで、それ以外になにもなかった。
残念だね、と彩音は苦笑するけれど正直そんなに興味がない。どうでもいい。そんなことより考えることがあるだろ、お前は。なんなんだよ。なにか理由があって電話してきたんじゃないのかよ。
「あとで写メ送ってあげるね」
「ンな女々しいもんいらねぇ」
ひっどーい。クスクスと笑う彩音の声を最後に会話が途切れた。お互いに無言で、もう通話が切れたんじゃないかと一瞬疑った。なんか言えよバカ。お前から電話してきたんだろ。
こうして会話をしている筈なのに、どうしても越えられない壁があるような気がした。いや、実際はハードルほどの高さだろう。だが、越えられない。踏み込めない。
怖いのか、俺は。いったい何が。そもそも、なんでこんなに慎重になってる。言葉を選んで口にして、こんなの俺らしくないだろ。なんでこんなに俺は、相手のことを優先してる?
反吐が出る。らしくない。苛立ちを感じて舌を打つ。どうしても認めたくなかった。認めてやりたくなかった。なんでこんなに気にかかるのかとか、俺のいないところで泣かせたくないとか、そのせいで余計なことを口に出せないとか。理由はなんとなくわかっていたが絶対に認めたくない。
ね、猿くん。彩音が唐突に俺の名前を呼んだ。さっきまでの見知らぬものに浮き足立つガキくさい声ではなかった。真剣で、それでいてどこか優しい。昔と同じ、俺になにかを言い聞かせる時の声だった。
「治ったら東京に行くよ。絶対」
逆だと思った。もし、その言葉を天の川の言い伝えに掛けてるつもりなら性別的に俺が彦星だろ。俺が迎えに行くべきだろ。だが、できなかった。俺は、今の彩音と会うのがなによりも怖かった。
「治るのかよ、それ」
言ってからハッとする。思わず口を突いて出てきた言葉だったが、それは意に反していた。しまったと後悔した。だが、俺は咄嗟にそのことを否定するような言葉が出てくるような人間ではなかった。
優しくない。人間できてない。悪かったと簡単に謝れるほど、自尊心がないわけでもない。だが、彩音は俺が知っている以上にずっと強くなっていたらしい。
「治すよ、必ず」
変わったのか。あの閉鎖された中で、少しでも変われたのか。いや、進化したのか。少しでも自分を保っていられるように。一人で生きられるように。その為に強くなったのか。
彩音は脳に何かを巣食わせていた。詳しいことは知らない。知っても俺にはどうしようもない。だが、彩音の記憶は酷く曖昧なもので過去を次から次へと失っていった。それが時に心をも蝕み、精神を壊すこともあった。
消しゴムのように描かれた記憶の絵を消していく病。そして、それを拒絶するように起こる発作。個性だと思っていたそれは、彩音の人格にすら関わる病の症状だった。
もしかすると今の彩音には名前だけで俺が誰なのか分かっていないのかもしれない。だからこそ嫌だった。だからこそ、会うことが恐ろしかった。
会いに行ったところで、俺が誰なのか分からないかもしれない。誰ですか?なんて俺の顔を見て聞いてくるかもしれない。俺は知っているのに。俺だけが知っているのに。一方通行とか、認めてやりたくない。
結局、俺たちは声でしかお互いを認識できない。幼馴染で隣にいることが当然だった存在のくせに。当然過ぎて気にすることを忘れていた関係。それがいつのまにか気にすることしかできない関係になっていた。
「だからね、猿くん。一つだけお願いがあるの。聞いてくれる?」
治すと言った声は強く、お願いだと言った声は弱かった。なんだよ、と返した言葉は不器用だった。内心気が気じゃなかった。俺の名前を呼ぶ彩音の声は泣きそうだったから。泣くとか、ふざけんなよ。誰もいないところで、俺のいないところで。
「…頑張れって言って」
「おい」
「お願い」
誰だよ、コイツが強いとか言った奴は。強いわけねぇだろ。一人ぼっちのくせに。それでいて誰にも頼らず見えない恐怖と戦ってるくせに。なに理解した気になってんだよ。なにも、知らないくせに。
やり場を無くしたどうしようもない感情を拳に込めて壁にぶつけた。イライラする。どうして理解しきれない。どうして顔を見ることができなければ触れることもできない。幼馴染なのに。そばにいて当然なのに。ああ、ムカつく。苛立ちが声色に出ているのが分かっていながらも止まらない。
「なんで俺に言ってほしいわけ?親にでも、もっと頼れる奴にでも言ってもらえよ」
「…私、こんなんだから友だちとかいないの知ってるでしょ」
猿くんだから言ってほしいんだよ。その言葉は俺の神経を逆撫でしたと同時に、膨れ上がった苛立ちを水をかけるように鎮めていった。まるで字に書いたような信頼できない俺の嫌いなありきたりな台詞への怒り。そして、彩音には俺しかいないという優越感。
この感情は、思いは一方通行ではなかった。そこに特別な感情がなかったとしても今の彩音にとって俺は全ての人間の一番上にいた。俺しか選べる人間がいなかった。選択肢が俺しかない。俺が彩音を満たしてる。
いっそのこと病室なんかより俺の部屋の中に閉じ込めた方が幸せなんじゃないか。だって、そうだろ。どっちにしろ彩音には俺しかいないんだから。どこにいたって同じだ。治るかも分からないのにーーーーそこまで考えて、やめた。
病人相手になに本気になってんだろうな。バカバカしい。息を吐き出して呼吸を整えていれば、猿くんと急かすような声が聞こえてくる。分かってるからンな声出すな。
「彩音」
「うん」
頑張れよ。口が中途半端に開いたまま、声にならなかった。頑張れって、なんだ。なにをどう頑張るんだ。頑張るのは手術をする医者だし、彩音がなにか頑張ったところで記憶が戻るのか?
無理だ、絶対に。一度失ったものはもう二度と戻ってこない。頑張ったところで彩音の望んでいるであろう過去を取り戻すという夢は果たされない。意味がない。無駄足。無駄骨。頑張っても元には戻れない。
なら、失った分だけ別のものを得ればいい。都合のいい話だと割れながら思うが不思議と納得する。猿くん?と訝しげに聞いてくる彩音の名前をもう一度呼んだ。
「俺に会いに来い」
「え?」
「だから、さっさと治してこっち来いって言ってんだよ」
たとえ俺のことを忘れていても、俺との過去を忘れていても、それを埋めてしまうぐらい今の俺で満たしてやればいい。過去なんて、関係ない。
しばらく機械の向こう側から何も聞こえてこなかった。だが、少ししてクスクスと笑い声が聞こえてくる。なに笑ってんだよ。声を低くして聞けば、ごめんごめんと楽しげで嬉しそうな声がする。
それからしばらくまた無言だった。彩音は何かを確かめるように、うん、うん、と呟いていた。
「…うん。行く。元気になって、東京に行って、それで猿比古に会いにいくよ」
静かだったが、ハッキリとした声だった。必ず治すと言った時と同じ、強い声だった。それを聞いて人知れずふっと笑う。もう大丈夫だ。
「ありがとう。こんな時間に電話してごめんね。ほんとに、ありがとう」
「なあ、彩音」
お前、俺のこと好きか?俺はお前のなんだ?ただの幼なじみか?聞こうとして、ぐっと堪えた。返ってくる答えに意味はない。そんなの聞いたところで忘れてしまうかもしれないのだから。
「…いや、なんでもない」
「えー、そういう風に言われるとすごい気になるんですけどー」
「なんでもねぇって言ってんだろ」
切るぞ、さっさと病室戻れよ。そう言うと待って待ってと慌てたような声がする。なんだよ、まだなんかあるのか。
「またね、猿くん」
彩音にとって未来は、明日は、数時間後は数分後は一秒後は過去の記憶を奪うことになる処刑台だった。今の会話も通話を切った直後には忘れているかもしれない。だから、俺たちに『また』があるかなんて分からない。
それでもいつも会話の最後に彩音は決まって「またね」と言う。また会いたいと願うから。また会えると信じているから。なんでそんな簡単に信じられるのか。怖くないのか。
着信が切れたはずのタンマツが震える。なにかと思えばメール受信の文字。彩音からだ。そういえば写メがどうのこうの言ってたな。さして興味もなくメールを開けば添付されてきた画像が目に飛び込んでくる。不覚にもそれに見惚れた。
本当に綺麗な川だった。星でできた、本物の川だった。そして他よりも強く発光する二つの星はベガとアルタイル。あるいは織姫星と彦星。そしてーーーー…
一瞬考えたことをすぐに頭から消し去った。馬鹿馬鹿しい。女々しいのはどっちだ。さっさと仕事を終わらせようとタンマツをしまおうとしたが、メールが画像だけで終わっていないことに気づく。スクロールして画像から数行開けて記されていたのは、たった一文だった。
この川を渡って必ず会いにいくよ。
「…はっ」
今度こそタンマツの電源を落とす。だが、仕事に戻る気にはなれなかった。溜め息を吐き出して窓に頭を預けて寄りかかる。空を見ても川なんて見えない。辛うじて一等星が見える程度だ。
最後に彩音と会ったのは五年くらい前か。入院すると言っていなくなって、それ以来。今どんな風になっているのかも知らない。俺の中には昔のまま、心も身体もなに一つ変わらない彩音しかいない。
会いにいくとか、本気で彦星になったつもりかよ。乾いた笑いが溢れて、自然と口元が弧を描く。ほんとバカみたいだ。アホらしい。なんであんな奴にこんな気持ちにならないといけないんだ。
「…くっだらねぇ」
叶うとは思ってない。そんな簡単に治るものでもない。それまで彩音がこのことを覚えているとも限らない。それでも。
「…会いたい、とか」
なんてらしくない言葉なんだ。
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