■ ■ ■


第一に、大きな音を立てたドア。次に、恋人の焦った声。
立て続けに響いた悲鳴が、水面下に沈んだ意識を凄まじいスピードで引っ張り上げた。

そうして寝ぼけ眼を擦って起きたはいいものの。否応なしに目を奪った光景に言葉と共に呼吸さえ忘れそうになる。ちょっと待てよ、どういう状況なんだこれは。

数年前に雄英を卒業し、プロヒーローとして活動する中で数多の修羅場を乗り越えてきた自負はある。しかし今まで経験したどんな修羅場よりも理解するのが難しい光景が目前にあった。未だに応答しない脳と寝ぼけ眼で相手をするには相性が悪すぎる。だめだ、気が遠くなりそう。思わず思考を放棄しそうになるが、深呼吸をして意識を保ち疲労の抜けきらない脳に鞭を打つ。とりあえず状況分析から始めたいところ。
まず、目の前には恋人。その手に握られているのは力が入ってクシャクシャになった緑の紙。握られているのが思わず包丁じゃなくて良かったと思ったのはつい先日そんな状況に出会してしまったせいだ。頭に過ぎった昼ドラを視界情報の濁流に流してかわいい恋人の表情に視線を戻す。その端正な顔は眉間に作られた山と、ぼたぼた零れていく涙で悲壮に歪んでいた。音を立てる紙の端から震えているのが伝わってくる。ハ?泣かせたの誰?…俺?待って全然心当たりがない。

…緑の紙?よく見れば見覚えがある。それっててきとうに机の上に置いておいた、、あ。


既に原形を留めていなかった紙の正体に気が付いた瞬間、それは右手の中で華麗に犠牲となった。残念。必要な犠牲でした。

この事件の要因となった無残に灰と化した緑の紙・離婚届は、傍迷惑な友人から押し付けられたものである。
普通に家で捨ててこいよ、とか、見るのが嫌ならシュレッダーに掛けろよ、とか、色々思うところはあった。すべて腹に押しとどめたが。そんなこと、このバカ夫婦に言ったってしょうがないことを数年の付き合いで十二分に理解していた。理解してしまっていた。この夫婦は喧嘩する度知人友人各位に面倒事を振り撒いているのを少しは自覚した方がいい。マジでとりあえずお祓いとか行け。呆れた溜息を隠さずに受け取った緑の紙は、仕事が終わったらすぐに捨てるつもりで鞄の中に放り込んだ。

さて、そんな不運を背負った紙をあえなく受け取って始まったその日。何の因果か面倒な事件がドミノ倒しのように起こり、様々な事後処理を終えて帰宅したのは翌々日の朝6時。ヒーローとなれば1日2日家に帰れないこともあるにはあるが、内容が内容なだけあってさすがに疲れた。街を起こす太陽が目に刺さりすぎて痛い。元はと言えば不倫相手を庇ったあの男が悪…、いや、やめよう。心做しか頭が痛くなってきた。倒れ込むように帰宅すると、疲れ切った体を引き摺って雑にシャワーを浴び、その傍迷惑な紙をダイニングテーブルに放り投げて、ベッドルームで泥のように眠ったのだった。


時を戻そう。
パニック映画もビックリなほど綺麗にフラグ回収したあの紙を灰にし、ぼろぼろと情緒がぐちゃぐちゃになった焦凍を抱きしめて、宥めつつリビングへ移動する。めちゃくちゃ移動しづらいけど擦り寄ってくるのはめちゃくちゃ可愛い。いつもより体温が高い気がするのは気のせいではない、と思う。

「あーもう擦るなって」
目の辺りを真っ赤に染め、ぐずぐず鼻をすする焦凍に保冷剤を渡す。焦凍なら個性で何とかできないことも無いんだろうが、この状態で個性を使わせる訳にはいかない。そして未だ水分量が減らない瞳に俺の罪悪感が天元突破している。・・・これエンデヴァーさんにバレたら半殺しとかあるかな...。正直半殺しにされても文句は無い。すみません、俺が悪かったです。こうして泣いているのを見るのは、高3の時にした喧嘩以来だ。あの時もあの時でクラスを騒がせたが、俺は俺でしにそうな気分だった。

焦凍はソファに体重を預け、こちらをまっすぐに射抜く宝石を瞼の裏に隠したまま、すこしかすれた低い声で疑問をひとつ投げてきた。
「・・・なんであれ、置いてあったんだ」
「あの離・・・紙は俺がもらってきたやつじゃないよ。それに、俺が焦凍と別れたいって思うわけないだろ」
離婚届、と言おうとした俺を物凄い目力で刺す。今のは懐かしき"初期ロキ"のそれだった。そ、そんなか、名称も聞きたくないのか。
まず第一に、まだ結婚していないんだから離婚届以前の問題ではある。たとえあれを出しても役所が困惑するだけだろう。そう思わなくはないが、常日頃冷静な焦凍が、一枚の紙を見てあそこまで取り乱したことは俺としては正直、結構うれしかった。

「わかんねえだろ。最近返信遅えし、電話も無いから声も聞けねえし、現場で会っても話すことなく帰っちまうし…」
さみしかった。
素直に零した焦凍に、ぐっと喉に熱が篭もる。我慢、させてたんだよなぁ。後悔と罪悪感が心臓を冷やす。焦凍はいつも冷静で落ち着いているから分かりにくいけれど、末っ子だからだろうか。寂しがり屋である。それを理解しながらも、忙しくて少しのレスポンスも返せていなかった自分が不甲斐ない。焦凍は仕事だから仕方ないで済ませてしまうんだろう、実際そうだったし。けれどそれは言い訳にならない。シンプルに、俺がこいつに寂しい思いをさせたくないのだ。
目の裏に先延ばしになっていた赤がチラついた。ああ、もうタイミングを伺っている場合ではない。

「・・・本当は、もっとちゃんとするつもりだったんだけど、」
かわいいかわいい愛しの恋人を、さみしかったと泣かせてしまったらさすがの俺も隠してはいられない。
いつの日か焦凍と共に選んだ戸棚の鍵の付いた引き出しを開け、眠っていた封筒とヘーゼルの箱を取り出す。封筒を渡すと、焦凍は少しの困惑を見せた。

「中、見ていいよ」
迷いなく取り出されたのは赤い紙だ。左半分には見慣れた俺の文字が連なり、その横で、まだかまだかと黒を待つ席が空いている。
右上の欄には緑谷の少し丸みを帯びた文字と、飯田の角張った文字が並ぶ。そろそろ籍を入れたいと思っていると報告すると2人とも喜んで記入してくれた。とても良い友人を持ったものだ。俺も、焦凍も。
目を見開いた焦凍の手を握って、膜の張った瞳をじっと見詰める。瞬きの奥にしあわせが見えて、少しだけ安堵した。

「俺たちはヒーローで、これから先、辛いことも悲しいことも、きっと沢山あるんだろうけど、それ以上に俺はお前と幸せになりたいと思ってる。お前と同じ墓に入るまで、俺と一緒に生きて、俺と一緒に、幸せになってほしい」
赤の紙とともに隠していた誓いを、左薬指に嵌め込む。ぴたりと嵌るそれは、悩みに悩み抜いて選んだものだ。・・・正直、仕事の合間を縫って宝石店をハシゴするのはめちゃくちゃ大変だった。変装しなきゃいけないから尚更。けれどそんな苦労の甲斐あってか、1ヶ月後には焦凍に似合うものを見つけることができた。
やっぱり、これにしてよかった。プラチナに縁取られたダイヤモンドが居場所を見つけたと華開く。焦凍の綺麗な手に、1.5ctのダイヤモンドがよく映える。

「俺も、なまえとこれから先、ずっと生きていきたい」
薬指を独占した誓いを愛するように見つめた後、今までにないくらいしあわせそうに、ほんの少しの恥ずかしさを溶かしこみながらやわらかくわらった。

ああ、きれいだ。

そう、綺麗で、・・・参ったな、綺麗の他に、美味い言葉が見つからない。あまりのうつくしさに声を奪われたようだった。喉に閉じ込められた言葉を渡そうとして、こぼれたのはひとつぶの彗星。一度おちれば止められない。流星群となったそれを、焦凍は柔らかく拭う。壊れ物でも触るかのような手つきだった。

彼は色の違う宝石をふたたび水面にきらめかせ、愛を紡ぐ。

「俺を好きになってくれて、ありがとう」
「・・・俺の隣を、選んでくれてありがとう」

世界中のなによりも綺麗な愛に、やわらかく口づけた。


Tutto il mio amore, lo do a te.

病める時も健やかなる時も、
この美しい、あいするひとが隣にいるのなら
しあわせだと胸を張って言えるだろう。


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