花嫁の涙 3
*前回の続き
*モブ男さん出しゃばる、の巻
*青黄♀ 年齢操作有り
帝光中から暫く歩いた所に見える、長い坂道を登って十字路を右に曲がった所に、まるで何かから隠れるようにしてひっそりと名も無い小さな公園が存在した。
公園の名が彫られていたであろう木のプレートは随分と前に朽ち、地へと落ちた後がある。
置かれた遊具は、錆びて動くたびにキーキーと悲鳴を上げるブランコと、大して高くも大きくもない滑り台のみ。
来る日も来る日も遊びにやって来る主を待った遊具たちは、ついぞ現れることのない人に、所在無さげに寂しく佇んでいた。
いくら空が青く、木に覆い茂る葉が綺麗な新緑を人の目に映したとしても、その公園だけ色がごっそり抜け落ちたようにどこか味気なく見えてしまう。
いつから存在するのかも分からない、ましてや物陰に隠れるようにして存在する古い公園に、人はいつしか足を運ぶ事を止め、興味は皆近くに出来た新しい公園へと移ってしまった。
そんな、いつしか人々からも、色からも忘れられてしまった公園を偶然にも見つけやってきたのは仲良さそうに手を繋ぐ、青髪と金髪の少年少女。
公園に、青と黄の対となる鮮やかな色が着いた。
「わー、誰もいないっスよ! ストバスのコートないのが残念っスけど、こんなに静かでいいところなのになんだか勿体無いっス」
「ここなら誰にも邪魔されねーで寝れそうだな……」
「あーもう! 青峰っちはそればっかり! 私と居る時くらいもっと他の事考えて欲しいっス!」
「へー? 他の事?」
「っ! そんなニヤニヤして、変なこと考えてるのバレバレなんスよ! この変態! ガングロおっぱい星人!!」
「おーおー、キャンキャン騒ぐなって。 野郎は皆変態なんだ、覚えとけよ涼華」
「さ、最低っス! 青峰っちの馬鹿!」
二人の少年少女はもう何年も人が座っていないブランコに腰を落ち着けながら、そんな微笑ましい会話を繰り広げる。
勿論、彼らの会話を耳にする第三者なんて居る筈もない。
ブランコも長らく不在だった主を漸く見つけたのだと誇るようにキーッと二人の動きに合わせて歓喜の声を上げた。
「ねえねえ、青峰っち。 これから先もし私たちが大きい喧嘩してどうしようもなくなった時とか、此処で仲直りしないっスか?」
少年は少女が言いたいことの半分も理解出来ていないようで、不思議そうな表情を向ける。その表情は宛ら鳩が豆鉄砲を喰らう様子に似ていたので、少女はぶはっと吹き出した。それを見て少年は“うわっ、汚ね!”と笑いながら指差したけれど少女はそれを無視して話を続ける。
「私たち、どっちも頑固だから絶対片方が謝るってしないと思うんスよね。 そのままズルズルと芋づる式に後々まで引っ張って、皆に迷惑かけるの。 でも、そんな時に二人で話合える場所があればなんとかなると思うんスよ。 幸い此処だと人気無いし、お互いに思ったこと言えるっしょ? 何度でも、何度でも。 なんだかんだ言って、最後には青峰っちの隣で笑ってたいから……。 それに私、なんかこの場所気に入っちゃったんス!」
少女が錆びてキーキーと声を上げるブランコを漕ぎながら、雲一つない青空にも負けぬ晴れ渡った表情で「此処が私たちの思い出の場所!」と言い、その真っ白な歯を見せて笑った。
それを見た少年も“目つきが悪い”とよく言われるその目元を緩めて細く微笑む。
「わぁった。 じゃー俺、お前と喧嘩とかしたら此処に来る。 ……言い出しっぺのお前が忘れんなよ?」
「ぜぇったい忘れないっスよー!! ……青峰っちじゃあるまいし」
「おい、ボソッと言っても聞こえてんぞ! 一言余計だ馬鹿!」
少年がブランコから勢い良く立ち上がり、少女が腰を下ろすブランコの前に仁王立ちした。
それをきゃー!と何ともわざとらしい声を上げながら見上げる少女はとても楽しそうだ。
「ふふっ、じゃあ、絶対。 約束っスよ」
少女は、眩しそうに少年を見上げながらその細い小指を差し出す。少年もそれが何を意味しているのか汲み取ったようで、かはっと笑いながらその小指に自らの小指を絡めた。
「「ゆーびきーりげーんまーん」」
誰も居ない静かな公園に響いた、確かに幸せそうな二人の歌声。
屈んだのは少年か、それとも、立ち上がったのは少女か。二人は互いを見つめてどちらからともなく唇を重ねる。
そうして離れては、また二人揃って笑うのだ。
この後暫く彼らは足げく二人でこの公園に通ったが、それもある時を堺にぴたりと止んだ。
次第にあの鮮やかな色は薄れ、再び色の無い世界へと逆戻りしてしまった公園。
あの時晴天にも負けぬ笑みを見せた少女が何度か此処へ姿を現したが、少女と共にこの場に通った少年が現れることは終ぞ無く。
「青峰っち……」
静かに呟かれた少年の名に、返答する声も無かった。
――――――――――
柄にも無く待ち合わせ――といっても一方的にメールを送りつけただけだが――時間より十分も早く待ち合わせ場所にやってきた俺は、何一つ変わっていない公園を見回してあの時交わした、たった一つの約束を思い出していた。
彼女との約束を破って、俺は本日まで至る。
喧嘩したら必ず此処に来るという彼女との約束は、今日という日まで一度として守られたことがなかった。
彼女は、きっと待っていた。何日も何日も、姿を表すことない俺の事を。
「今度は……俺が此処でずっと、待たされる番かもな……」
一人呟いた言葉は春の晩に吹く穏やかな風に流されて、再び辺りは静寂に包まれる。
自業自得だけれど、思わずため息が溢れた。
春の穏やかな風は当時のまま残された――強いて言うのならあの頃よりももっと古くなったブランコを揺らして、キーキーと錆び付いた、寂しい音を立たせる。それも、まるで俺の心情を読み取ったかのようなタイミングで鳴るものだからより一層、寂しくなった。
もうあの時の輝いた時間は戻ってこないのだと嘲笑うかのように凪ぐ、そよ風。
酷く彼女を傷つけ手放したのは、俺の方なのに。傷つくなんて、可笑しいことなのに。
風に揺れて前後に錆び付いた悲鳴を上げる耳障りな音を封じようとそのブランコに歩み寄って、あの頃よりも低くなったように感じたブランコにそのまま腰を下ろした――が失敗。ブランコは、接続部分から嫌な音を立ててより一層悲鳴を上げた。
「クソっ……うるせえよ……」
一人で居るこの公園がこんなに居心地の悪いものだとは思わなかった。
真っ暗で、虫の音一つ聞こえない程静かなこの場所は、隣にあいつが居たからこそ居心地の良い物だったのだとようやく知る。
地面にしっかりと両足を着き、項垂れるように地面を見つめた。世界から目を背けてしまいたい感覚に陥り、瞼を閉じる。
真っ暗な無の世界に放り込まれたような、そんな気分だった。
「……人の事呼び出しておいて、もしかして寝ちゃったんスか?」
頭上から、高いけれど心地の良い、あの懐かしい声が聞こえてくるまでは。
突然の出来事に思わず目を見開いて、地面を見つめたまま固まる俺。
幻聴にしてはやけにリアルで、けれど、顔を上げる勇気もなくて。我ながら女々しいんじゃないか? 柄じゃねぇだろ。
「おーい、青峰っちー!」
地面を見つめていた俺の視界にパステルブルーのパンプスが映り込む。そこで自分の名を呼ぶ人物が本当に今この場に居るのだと確認。
甘いけれど不快とは決して思わないあの頃と変わらずの香りが鼻腔を擽った。
嗚呼、彼女は間違いなく――
「涼華……っ」
あの頃よりもずっと大人に近くなり、細く折れてしまいそうな身体は当時のまま。髪も随分と伸び肩甲骨の辺りまでしか無かったミディアムロングの金髪は、悠に腰よりもその長さを伸ばしていた。顔を上げると最後に見たときよりもずっとずっと大人になった、そんな黄瀬涼華の姿が視界に飛び込む。
涼華の名を呼んだ俺の声がみっともなく掠れたもんだから、目の前の彼女は可笑しそうに眉尻を下げて、困ったように笑った。
「なーんスか、そのみっともない声は。 久々に会ったのに、第一声がそれって」
「う、うるせぇよ……」
久々に目にした涼華はあの頃よりもずっと輝いていて眩しいのだけれど、目が離せない。
ずっと探し続けてきた涼華が、あの時突き放して傷つけてしまった彼女が、今目の前に居るのだと思うと一瞬たりともその視界から涼華を消してしまうことが惜しく思えた。今思えば、こうして下から彼女を見上げたことなどなかったかもしれない。そう思えば新鮮でいつまでも見ていられるような気がした。
一体どれほどの間、涼華を下から見上げていただろう。涼香の顔がくしゃりと歪んで、困ったような笑みを浮かべたかと思うと「変な人っスねぇ」と夜闇によく通る声で呆れたように呟いた。
「……久しぶりだな」
「そうっスね、もう何年になるかな。 元気だった?」
「6年ぶりってとこか? 俺の方は相変わらずだ」
「ふふっ、青峰っちらしいっスねー。 アメリカの方に行ってるみたいだけど、どんな感じ?」
「朝起きて、飯食って、バスケして、飯食って、バスケして、また飯食って夜はぐっすり。 あの頃より、ずっとバスケするようにはなったけどな。 まあ、毎日充実してる」
「それでこそバスケ馬鹿の青峰っちっスよ! ……バスケ、また楽しめるようになって、良かった。 まあ、何はともあれ元気そうで何よりっス!」
彼女の口から語られた、バスケが楽しめるようになって良かったという言葉は、俺の胸に重く、重く伸し掛る。
俺が彼女を突き放した原因でもある事柄な筈なのに、それでも素直に良かったと喜んでくれる彼女の気持ちに思わず目の奥がじーんっと熱くなった。
以前のように話しているつもりだけれど、二人の間に流れる微妙な空気が変わることはない。
けれど、久しぶりにちゃんと彼女と会話らしい会話が出来たことに、俺は一人密かに感動していた。
「お前の方こそ、痩せたんじゃねぇか? ちゃんと睡眠時間とか、栄養摂れてんのかよ、モデルさん」
「6年も経てばそりゃ体型だって変わるっスよ! あの頃と違ってバスケしてないから筋肉落ちちゃったし……それに 世に自分を魅せるのが仕事だから身体はいつでも引き締めておかないと! 兎に角、私の方もそう変わりないっスよ。 あ、でも最近ではテレビドラマとかバラエティにも出演させて貰ってるから、私も女優の卵さんっス」
“成長したっしょ?”と口角を上げた彼女が余りにも昔のままで、段々と自分まで緊張の糸が解けていく。
この6年分の距離を埋めるように、スルスルと。
「へー、女優の卵。 お前もデカくなったな。」
「そうっスよー、だって6年っスもん! 時の流れは偉大っス! どうりで私もこんな美人さんになっちゃった訳っスね〜」
「それ、自分で言っちまうのがお前の残念なところじゃね?」
「うるさいっスよー、そういうところで素直に“そうだな”って言えないから青峰っちはモテないんスー!」
「余計なお世話だ馬鹿」
解れきった緊張の糸は、真綿のように柔らかく俺らの間にこの6年分の架け橋を掛ける。
幻なんじゃないかと半信半疑だった彼女の存在を捉える俺の視界も、涼やかなあの声を拾って俺まで届ける耳も、全部全部あの頃に戻ったかのようだ。
バチりと二人同時に目が合って、思わず互いにぶっと吹き出す。
何が面白い訳でもないのに、ただこうしている時間が幸せだと思えた。
「はーあ、笑ったっス!」
「そうだな、こんな笑ったの久しぶりかもしんねー」
そう、本当にあんな何の変哲も無い事で馬鹿笑いしたのは久しぶりだった。
これが前までは毎日のようにあった出来事だったのだから、そう思うとなんだか寂しくなってしまう。柄にはないけれど。
「俺な? 今、毎日すげぇ充実してる。 あの時、バスケ辞めねぇで良かった。 今日はこれをお前に伝えようと思って」
突然の話題変更に一瞬ぽかんと間抜け面を見せた涼華だが、次の瞬間楽しそうにではなく“嬉しそうに”花も霞んで見えるような笑みを浮かべた。
「まさか青峰っちの口からそんな言葉が聞けるとは思ってもみなかったっス……、来て、良かった」
今日見た中で一番あの頃に近い笑顔は、彼女に“本当に結婚してしまうのか”と確信を突こうとして出来なかったチキンハートに火を付けた。
重たい口を開かせるには十分な笑顔で、内心現金なやつだと自分を嘲笑う。
「……赤司から聞いた。 結婚、すんだってな」
途端その笑顔が少しばかり苦しそうに歪んで、なんとか取り繕うように再び笑みを貼り付けた。
二人の間に春の風が凪いで、それきり暫し無音の世界が二人を包んだ。
まあ、彼女が返答に困るのも当たり前。テツ伝いだけど俺が涼華を探してたってこと聞いてるだろうから、きっとこの話題に関して答えづらいのもあるのだろう。
「そう、っスね。 6月8日に式上げるんスよ。 ふふっ、ジューンブライド。 良いでしょ?」
そう言った彼女の顔には先程から偽りの仮面が貼り付いたままで俺まで苦しくなるけれど、此処で辞めたら俺が此処に来た意味が無くなってしまうから、一度だけ視線を地面に移し、そうしてまた彼女を見つめた。
「6月8日、か。 なんの因果だろうな? 俺らの記念日だった日じゃん」
6月8日。俺らの、記念日だった日。
そう口にした俺を驚愕の眼差しで見つめてきた涼華の事だから、多方俺が記念日を忘れていたと思っていたのだろう。
現に、魚のようにぱくぱくと口を開閉させながら“覚えてたんスか?”とか細い声が聞こえてきて、思わず苦笑してしまった。
「覚えてるに決まってんだろ。 ……俺がそいつだけしかいらねぇって思った奴との、記念日だったんだからよ」
彼女の見開かれた大きな目からは今にも涙が零れてしまいそうな程溢れてきている。嗚呼、変わらねぇなあ。
その大きな瞳をゆらゆらと揺らしながら涙を流すまいと耐えるのだけれど、結局は落ちて、止まらなくなるその姿とか。
「そんな言い方、ズルいじゃないっスか……、今更っスよ、青峰っち……」
か細い声で呟かれたその声に、ぎゅっと胸が締め付けられる。彼女は今、俺が傷つけて放り出したままの姿で涙を流す。だが、俺が知っているギャンギャンと煩いあの泣き方ではない、さめざめとした泣き方に俺は戸惑った。誰が彼女にそんな泣き方を覚えさせたのか。答えは明白。過去の俺だ。荒んで、何もかもが見えなくなって、ただただ周りに当たり散らしていた、餓鬼だった俺。
そう思ったら居てもたっても居られなくなって、思わず彼女へと足早に歩み寄り、その細い肩に腕を回した。
バランスを崩した彼女が俺の胸元へと綺麗に収まる。
彼女がはっと息を飲んで自分から離れようともぞもぞ動いたのが分かったけれど、それを離してやるほど俺は、優しくない。
ぎゅっと掻き抱く華奢な身体は、あの頃にも増して力を込めたら折れてしまいそうだった。
「嗚呼、俺はズルい。 あの時だってズタズタに傷つけてお前を突き放したのは紛れもなく俺なのに、今俺はまたお前に手を伸ばしてる。 結婚するって聞いたときだって気が狂うかと思った。 だってしょーがねえじゃん、俺……まだお前が好きなんだ。 みっともねぇし、都合いい事なんて分かってる。 でも、離したくねぇよ、涼華」
今更、と彼女の口から語られた時点でもう無理な事は分かっていた。
けれど伝えたい。彼女が俺にしてくれたことが無駄ではなかったってことを。無駄ではなかったからこそ、俺がまだ涼華を好きなんだってことを。
伝えたくて、今、お前の前にいるんだ。
ひっく、ひっくと俺に抱きしめられながら不規則に嗚咽を漏らす涼華。その背を摩ってやりながら、彼女の返答を待った。ただ、只管(ひらすら)に。
「……私ね、青峰っちに突き放されたあの日から……まともな生活送ってなかったんスよ……自暴自棄って、ヤツ」
暫く肩を震わせていた彼女は、漸く落ち着いてきたらしくぽつりぽつりと6年前の出来事を語り始めた。
昔の俺なら“それがなんなんだよ”って横槍入れていただろう場面だが、言うなれば年の功だろうか。
「めちゃくちゃなスケジュールいっぱい詰め込んで、あんたの事忘れようって……。 精神(こころ)が悲鳴上げてるのに気づかないフリして、仕事漬けの日々を送ってた。 ……でもね、そんなときに枝真さん――今の彼氏が“頑張らなくていいんだ”って私の支えになってくれたんス」
「悲しいとき、苦しい時、辛い時。 いつも傍に居てくれたのは彼だった。 青峰っちじゃ、ない――」
的を射た、明確な答えだった。
そのことがズブリと俺の心に深く刺さる。
「こんな終わりになるなんて、あの頃は思ったこともなかった。 あんたと結婚して、青峰涼華になって。 擽ったい気持ちな時に待望の第一子が出来て、それから確実に増えていくこどもと、家族皆で暮らして。 こどもが大きくなったらあんたと痴話喧嘩しながらも飽きることのない、楽しい老後を過ごす。 そんなことばっかり考えてた」
「でも、もう無理なんスよ。 全部全部、遅すぎた」
「だから――」
“ごめんなさい”
小さく呟かれた彼女の言葉は、穏やかな風に乗せられてどこか遠くへと消えていった。
予想していたけれど、想像以上にキツい。
本当なら、此処でかはっと笑いながら“そうだよな、ごめん”って伝えるはずだったのに。声が、出ない。
彼女は泣きはらした目元を一度だけ擦って無理矢理に口角を上げると、緩んだ俺の腕から逃れるように離れた。
ふわりと香る、優しい彼女の香り。
「……もうあんたの所に戻ることは、出来ないっス。 あの時の約束、本当の意味で守れなくてごめんね。 やっぱり私、約束破っちゃった」
何度喧嘩しても、最後は俺の隣で笑っていたいと彼女は言った。
けれど今、それを守れないと彼女は緩やかに笑って答える。
そんなことはないと、約束を先に破ったのは俺の方なのだと言葉にしたいのに、やはり声は出なかった。
この意気地無し。
「でもね、最後に一つだけ言わせてもらうなら、私はあんたに出会えて良かった。 あんたを好きになれて、良かった。 ……大好きだったよ、青峰っち」
話すことの出来ない俺に変わって彼女は最後の〆と言うように、言葉を結んだ。
綺麗な笑顔を一つ残して、彼女は俺に背を向ける。
「……あんたの! ……あんたの実家にも、結婚式の招待状送っておいたから……来てくれると、嬉しいっス」
最後に残酷なプレゼントまで置いて、彼女は夜闇に消えていった。
あーあ、情けねぇ。 最後の最後まで、結局声は出なかった。
彼女に“行くな”と叫ぶことも、“幸せになれ”と伝えることも出来なかった。
――少年から青年へと成長した一人の男は約束を果たすため、ついに戻ってきた。少女だった愛らしい容姿の彼女も、うんっと大人に、美人になってやってきたけれど、彼らが学生時代の、二人幸せそうな満面の笑みを浮かべることは終ぞ無く。青と黄に染まった公園から、青が消え、黄が消え、無色の時を越え、再び二色に色付いた。けれど、それも一瞬。今度は黄が先に離れ、青はその場に留まった。一面青の色に染まる。悲しみの色か、はたまた、懺悔の色なのか。青年は、その場に佇んだまま一人静かに涙を零した。
――――――――――
わいわいがやがやと沢山の人で溢れる所謂居酒屋。
打ち上げだからお前もたまには付き合えと、俺の師匠に言いくるめられて連れられてきた店は、居酒屋にしては割りと御洒落で、流石見る目がある師匠(ひと)だと変なところで感心する。
師匠の頼みでもなければ飲み会などには参加せず、愛しい婚約者の元へ直帰していたのだろう俺は、数時間前まで彼女とやりとりしていた携帯を眺め、一人溜息をついた。
『……あー、涼華の肉じゃがが食べたい』
こんな(と言っては失礼だが)居酒屋で出される焼き鳥やら何やらといったおつまみ食事よりも、彼女が作った料理の方が何十倍も、何百倍も美味しいに決まってる。そう考えてしまうと、先程から一向に箸が進まない。勿論酒も進まない。
彼女も友人と会うとメールで連絡してきたから、きっと帰宅時間は同じくらいだろうか。
彼女の愛らしい姿が脳裏にぽっと浮かび、一人口元が緩んだ。
それを目撃したらしい同僚が“このリア充が〜!!”なんて言って俺に飛びついてくるけれど、そんなのはお構いなし。
わちゃわちゃと絡んでくるコイツの絡み酒にはもう何年もの付き合いでかなり慣れたと自負している。
“俺も彼女ほしぃ〜!”や“リア充爆ぜろ〜!”なんてべろんべろんに酔っ払った同僚は口にするけれど、俺は総無視を決め込んだ。触らぬ神に祟りなし、ってね。
あいも変わらず隣で煩い同僚や、すっかり出来上がった先輩、後輩、師匠を見て、今夜も俺が介抱役かと溜息をついた時、俺の手に握られていた携帯が、ブー、ブーと振動して誰かからの着信を告げた。
『誰だ……?』
ディスプレイに表示されたその名前を確認して、ふっと笑みが漏れた。
早く声が聞きたい、と隣に寄りかかっていた同僚を軽く壁に凭れさせ、足早に席を立つ。
「もしもし、どうしたの涼華?」
騒がしい居酒屋の個室から廊下へと出ると、通話ボタンを押して最愛の人の声を待つ。
「……ッ……」
けれど、待てども待てども彼女からの返答は来ない。電話口で、ひっく、ひっくと微かに嗚咽の声が聞こえた気がした。
「涼華……!?」
「えま、さ……っ 会いた、い」
やっと電話口から聞こえてきた彼女の声は、いつも聞いているあの元気のいい、明るい声ではない。強いて言うならば、俺が彼女と出会ったときのような、暗闇に一人立たされて路頭に迷った弱々しい女の子のそれだった。
俺は酷く動揺する。
確かに彼女は同級生と会いにいくと言っていた筈だ。それなのに、何故泣きながら俺に助けを求める?
「……分かった、今から帰るから、涼華も家に帰っておいで」
兎にも角にも、問いただすのは後にしよう。
今は彼女の元へと行くことが先決だ。
電話口で“うん”と弱々しく頷いた声が聞こえると、俺は一先ず安心して“それじゃあ待ってて”とできる限り優しく声をかけながら電話を切った。
「ごめんなさい、師匠。 俺、婚約者が呼んでるんでちょっと帰りますね」
個室に戻ると、扉近くでいい具合に出来上がっていた師匠に軽く声を掛け、帰ることを宣言した。
周りは少しばかり不服そうだったけれど、師匠が“そう? んじゃあ帰りなー”と軽い調子で言うものだから、俺がついて来なければならなかった真意を疑うけれど、今はそれにも構ってられない。
「お先、失礼します!」
声を掛けて、居酒屋を出る。 会計は後ほど徴収と聞いたから気にしなくて良い。
店外に出れば、色と人の洪水に思わず目を細めるけれど、俺はタクシーを拾ってそれに乗り込んだ。
「運転手さん、○△中通りのアパートまでよろしくお願いします」