花嫁の涙 2 | ナノ

花嫁の涙 2


* 前回に引き続き、The雰囲気小説
* 今回も中途半端です



 日本から遠く離れた異国の地。
 電話越しに告げられたのはいつだって俺に惜しみなくあの眩い笑顔を見せていた、大切だった彼女の、祝いの席の話。
 鈍器で思い切り殴られたかのような衝撃に言葉を失う。
 今更ショックを受けるなんて、可笑しいと思われても仕方がない事を、俺はした。
 どうしてあの時大切にしてやらなかったのか。
 そのことばかりが脳裏を駆け巡り、歯がゆさのあまり自らの唇をキツく噛む。
 あの時与えた気の迷いなんて言葉では片付けられない彼女への冒涜の数々は今思い出しても最低最悪で卑劣な行為ばかりで。
 散々傷つけた挙句、もうやめようと訴える彼女を蔑んだ眼差しで見下したあの日には、戻りたくとももう戻れない。
 今更の懺悔、今更の後悔。
 本当に今更すぎる気持ちの悪い感情に、思わず顔を顰める。
 電話越しに中学時代のキャプテンが自分を気遣うような声を掛けていた気もするが、勿論俺の耳に彼の言葉は入ってきていない。
 
「赤司、俺すぐそっちに戻る」

「……そうかい、帰っておいで。 大輝」

 グルグルと自分の脳裏を駆け巡る思考を断ち、やっとの思いで絞り出したその声は酷く弱々しく、みっともなく掠れていた。



――――――――――




 四月某日、某空港着。数年前、中学バスケにおいてキセキの世代と呼ばれた赤司、緑間、紫原。そして、彼らのマネージャーを務めた黒子と桃井はとある人物のお迎えの為本当に久しぶりに、みんなで集まっていた。
 この場に黄瀬さんが入れば中学の面子が勢揃いでしたね、と黒子は自嘲気味に笑いつつ、飛行機が到着したというアナウンスを耳にして目を瞑る。
 彼女に彼が帰国することを告げなかったのは、もう彼には会えないと泣きそうな笑顔を浮かべた寂しそうな彼女の顔が、鮮明に脳裏に焼きついているから。それと彼女に、新しく大切にすべき存在が出来た事を知ったから。
 中学時代、確かに彼女をいじり倒して遊んでたりはしましたが、僕もそこまで非道じゃない。
 彼女にもう二度と、あんな悲痛な顔をさせないように。
 僕や桃井さんは今日まで色々な手を尽くして彼の帰国を食い止めてきたけれど、それもどうやら潮時だったようだ。
 




 数年ぶりに彼女に会うべく、黄瀬さんの家を訪ねたあの日の夜。帰宅してすぐに、彼に黄瀬さんの居場所を突き止めたこと、数年ぶりに会って話したこと、彼女には今大切な人が居るから会えないと言われたことをなるべく詳しくメールを入れた。
 今の世の中は、便利で不便だ。海外に居る相手とでも電話できてしまうけれど、その代わりお金はうんっと掛かかる。だからまだお安く上がるメールを入れた訳だが……と考えて別の方向に行きかけた思考を元に戻す。
 そのメールの結びに、僕は彼に黄瀬さんを諦めるように勧めた。彼がウィンターカップの後、自業自得だと分かっていても、どれほど必死に彼女を探していたかを知っていたので心苦しかったけれども。
 僕の携帯から、彼の携帯へメールが送信されたことを確認して一つ溜息。どうしてもやり直したいと、やり直そうと動き出した彼の為に、傷ついても尚、笑い続けた彼女の為に。彼らの幸せを願って動いてきたのに、その結果がこんなに不甲斐ないものなのか。
 やりきれない想いが僕の胸の内を支配した、そんな時だった。携帯の着信を知らせる音が大音量で流れ始めたのは。 どうでもいい人からの着信はバイブ音。けれど、いくら不精の僕だって、親しい人の着信音くらい設定する。この着信音を設定しているのは、ただ一人。滅多に鳴らないその音楽を耳にして、そうくると思っていた、と思いながら自嘲気味に笑い、電話に出る。

「もしもし、わざわざ金額が高くなる国際電話を使用するなんて、君はやっぱり馬鹿ですね。 青峰くん」
 
 キセキの世代エースと呼ばれ、今はアメリカの地に単身乗り込みNBAの選手。ついでに、先程僕がメールした相手であり、黄瀬さんがずっとずっと想っていた人物。
 開口一番馬鹿呼ばわりされたのが気に食わなかったのか青峰くんは「うるせぇよ」と一言不機嫌そうに漏らした後、一つ咳払い。


「メール見た。涼華に、……新しい野郎が居るって本当か?」

「ええ。 今日本人の口から聞いてきました。 事実です」


 彼からしたら、死刑宣告を受ける程のものだったと思うけれど、隠してもどうしようもならないのでバッサリと言い捨ててしまう。途端に、電話越しにでも聞こえてしまう歯噛みの音。苛々しているのだと理解すること数秒。


「メールで送った内容の通りです。 黄瀬さんには新しい人がいますし、君には会えない。 もう大丈夫だからと、伝えて欲しいと言われました」

「……テツ、わりぃな。 俺も大概諦めの悪いとこは直さなきゃなんねぇのは知ってんだ。 でもな、やっぱ諦めらんねぇ。 今から俺そっちに帰る。 んで、アイツと会うわ。 謝って、抱きしめてぇ」
 台詞はまあアレだけれど、彼の口ぶりからも本気なことが伝わってくる。

――良かったですね、黄瀬さん。今も、君はこんなにも愛されてる。君が彼を追いかけてきたぶん、彼は君を想っている。遠く離れた異国の地から君を渇望する、切望する彼がいる。 けれど、それを黄瀬さんが望まないのならば。

「駄目です、青峰くん。 君が黄瀬さんを想うのなら、彼女を放っておいて上げてください。 今まで僕は、君たちがもう一度二人一緒の気持ちで笑い合えるのならと思って動いてきました。 君たちが本当に幸せならそれで良いと……。 でも、それはあくまで「二人一緒に」。 今の黄瀬さんには新しい人がいます。 酷な話ですが、今彼女が望んでいるのは果たして本当に君なんでしょうか? 今、彼女には大切にしなければいけない人がいるんですよ? 今、彼女の前に君が現れたとして、本当に彼女は、心から笑ってくれますか? ……青峰くん。 私は、彼女にもうあんな作り笑いさせたくないんです」
 
 僕は、彼を君から遠ざけましょう。
 電話越しに、青峰くんがひゅっと息を呑んだのがわかった。
 
 その日以降、それでも諦められなかった様子で何度となく日本に帰ると口にするようになった青峰くんを、桃井さんに事情を話し、二人で協力しながら、やれこちらでは花粉症が流行っているから帰ってくるなだの、バスケに集中しろだの。なんとか言いくるめ、アメリカの地に留まらせ続けた。
 黄瀬さんが僕たちに、結婚するのだと指輪を見せながら嬉しそうに報告してきた後も、その事実を彼に告げないまま。







「僕としたことが、迂闊だった。 すまない、テツナ、さつき。」

 ふと、今までのことを思い出していた僕に声を掛けてきたのは、学生時代よりいくらか性格の丸くなった赤司くん。
 そもそもの、彼の緊急帰国の原因である彼は申し訳なさそうに眉を下げた頼りない表情を見せ、一つ溜息をついた。 
「いえ。 いずれ、彼にも伝えなければいけない事でしたから……」

「そうよ、赤司君。 それに私たちも赤司くんたちにちゃんと伝えてれば良かったの」

 僕の隣に立っていた桃色の髪を持った美しい女性――桃井さんは、然りげ無いフォローを入れながら赤司くんを見上げていた。







 事は、一週間ほど前に遡る。
 たまたま。本当にたまたま、赤司は普段あまりTVを付けることのない電源を付けた。
 その時、また偶然にも合わせられたチャンネルがその箱に映し出したのは黒人に混じりながら茶色の球体を追い掛け、その地黒とも言える褐色の肌に珠のような汗を流しながら不敵に笑う青峰――所謂NBAの中継であった。
 昔見た茶色い球体を追いかけて楽しげに笑う姿の彼と、なんら変わりのない表情で生き生きとバスケをする彼に懐かしくなった赤司は久しぶりにと思い、国際通信を経由して彼に電話をしたのだという。
 嫌がらせも兼ねて、半日以上の時差があるアメリカに電話を掛けたのが仕事を終えた十七時頃だというのだから、流石何様俺様赤司様である。
 青峰が出るという保証はなかった、と後に赤司は語るが、勿論、そんな赤司様の電話を出もせずに切ることなどできなかった青峰は就寝中に鳴り響いたその迷惑な電話一本の為にその日一日の疲れを癒していた温いベッドから渋々抜け出す結果となった訳だ。

「……なんの嫌がらせだァ、赤司ィ…」

「おや、就寝中だったかい? それは悪いことをしたね」

 というのも上辺ばかり。勿論、計算してその時間に電話を掛けた赤司は電話越しにクツクツ笑う。一方の青峰は、非常識な時間帯に掛けられたその電話に苛立ちよりも、むしろ関心を覚えた。世の中には人を弄び、楽しそうに笑う人物が居るのだと。
 電話越しに聞こえてくるその至極愉快そうな笑い声に溜息を一つこぼしながらも、「で?」と要件を聞いてやる辺り、自分も大人になった、と青峰は自画自賛しながら赤司に話題提供を振る。

「いいや、ただこちらのTVでNBAの録画中継放送がやっていてね。 大輝がプレーしている姿を見て懐かしくなったから、声を聞こうかと思って。 それだけだが?」

「…これまでお前に苛立つ事はあってもここまで殺意を覚えたのは初めてだ、赤司……ッ!」

 ギャーギャーピーピーと、罵詈雑言を電話越しに紡ぐ青峰に「変わらないな、お前も」と言ってそれらを流してしまう赤司に、次第に怒る気力すら失せてきた青峰は何度目かわからない溜息を、肺の中を空にする勢いで吐き出すと「お前もな」とお決まりの台詞を赤司に返した。
 そんな、中学生時代を思い出すようなやり取り――中学時代、青峰は赤司に楯突くことを恐れてはいたが――を暫く繰り返した二人だが、はた、と思い出したように「そういえば」と赤司が切り出した話題により、その旧友との会話を懐かしんでいた空気がぴしりと凍りつくことになる。

「そういえば、涼華が結婚するそうじゃないか。 六月……の何日だったかは忘れてしまったが……、勿論帰ってくるだろう?」

「……は?」

 そんなの初耳だ。と青峰は心の中で思う。赤司が知っているということは、必要以上に俺を日本から遠ざけようとする自分の元相棒や、幼馴染は勿論このことを知っているんだろう。けれど、彼女らからそのような話しは全く聞かされていない。
 この時赤司に悪気は無かった。確かに二人が中学時代付き合っていたのは周知の事実であったが、高校を別の地域で過ごした赤司は、その後二人がどのような別れを辿ったのか、それから先どうなったのか、知らなかったのである。
 一気に、目が覚めた。ぐわんぐわん、と鈍器で頭部を殴られたような衝撃を覚えながら青峰は二の句を告げられずにいたのだ。
 それは、訝しんだ赤司がどうかしたのか?と声を掛けるまで続いた。

「大輝? まさか知らなかったのか? ……招待状は……」
 
「赤司、俺すぐそっちに戻る」

 ハイ、言葉のキャッチボール!と笑顔でツッコミたい気持ちも山々だったが、事の他真剣な、けれども普段の傍若無人な俺様からは想像もできないような弱々しい声で日本への帰国を望んだ青峰に一つ溜息を零し、赤司は一拍の間を置いてから

「……そうかい、帰っておいで。 大輝」

 と口にしたのだ。それにほっと安堵したように電話越しから力の抜けた感謝の言葉が飛び込んでくれば、赤司は柄にもなくその目を丸くしたが、その感謝の言葉の意味を知るのはこれから五日後、青峰が日本に帰国する旨を昔の仲間たちに連絡したときである。
 止めようとしても、時既に遅し。今まであまり休みに頓着しなかった青峰が長期の休みを志願したとあって、チーム監督は『日本でもバスケットボールを離さないこと』を条件に長期休暇を許可し、青峰自身、飛行機のチケットを予約してしまったとの話しだった。

「あ、因みに言っとくけど、インフルエンザ流行ってたって俺は行くからな!」

「……大輝、日本は今四月も二週目。インフルエンザの時期は当に過ぎたよ」

 青峰が最後に残したこの意味深な台詞も、全て理解したのは、黒子や桃井から詳しく話しを聞き出した後だった。
 






 ぞろぞろとゲートから沢山の人が流れに身を任せて此方に向かってくるのが見え、黒子ら一行は皆それぞれの反応を見せる。
 緑間は漸くか、とどこか疲れたように一つ息をつきながら眼鏡を左手でクイッと上げ、紫原は青峰の帰国など興味がないかのように口の中が剃じてしまいそうな勢いで変わらずお菓子を貪り、赤司は自分のしでかしてしまった行為に珍しく頭を抱え、桃井はただただ静かな面持ちでゲートに溢れる人々を見つめ、黒子はとうとうやってきてしまったこの時にその瞼を伏せた。
 やがて人の波に乗って歩いてきた褐色肌の、頭幾つ分か人より飛びぬけた人物が見え、カラフルな頭一同は彼に向かって歩き出す。
 それは彼も同じようで、久しぶりに見るそのカラフルな面子を見つけてはキャリーバッグとボストンバッグを片手に黒子ら一行に近づいてくる。

「よお、お前ら久しぶりだな」

 片手を上げ、そう挨拶してきた彼――青峰大輝は、白い歯を見せながらただ不敵に笑った。


――――――――――



「テツ、ちょっと携帯貸してくんね? 家のババアに連絡入れてぇんだけど、俺の携帯充電切れちまったんだよ」

「え? あ……はい。 どうぞ」

 何の躊躇いも無しに差し出されたテツの携帯。時代の先端を行くスマートフォンではない、所謂ガラケーを受け取り、少しの間、この場に来た昔馴染みの面子に重たい荷物を預ける。

「電話ついでに便所行ってくっから此処で待ってろよ」

 そう言って、俺は反論が返ってくる前に身を翻し人ごみの中に紛れた。俺がテツの携帯を持ち出して、あいつらから離れたのには理由がある。勿論実家に連絡を入れる為ってのもあるけど、俺の携帯は生憎充電満タンで電源を切っているだけ。テツや、さつきの携帯からしか、できないこと。

「……涼、華」

 もう、何年もその実物を見ていない昔の彼女を思い浮かべては、贖罪できない事実に気が沈んでいく。
 共に笑い合えなくなり始めたのが、俺が腐り始めて少し経った頃。その名を呼ばなくなったのが、中学最後の全中が幕を閉じ、俺が完全に心を閉ざした頃。無理矢理身体だけを繋げて、欲を浴びせたのも丁度その頃。俺の手から離れたがるその手を、蔑んだ眼差しで見つめながら離したのが、高校一年の夏。彼女の傷ついた顔を見る度に、荒んでいた俺の心は少しだけ晴れた。
 彼女と別れてから訪れたウィンターカップ初戦、俺はテツのいる誠凛高校に負けることとなる。
 あの試合は今思い出しても最高だし、一番印象強く残っている。テツと最後に交わした拳から、じんわりとした温かな希望に触れた気がして、またバスケに打ち込みたいという気持ちが強くなった。
 けれどその反面、心に何かぽっかりと穴が空いてしまったような物足りなさが一緒に戻ってきた。それがなんなのかはすぐに分かる。隣で、自分が辛くともいつもこちらに笑顔を向けてくれていた、向日葵のような人。そう、彼女が居なかったのだ。自分が傷つけボロボロのまま放り捨てた、彼女が。
 彼女に謝らなければ、と思い立って携帯を開いたけれど、通話口から聞こえてきたのは、無情にも「この電話番号は現在使われておりません」という機械的な女性の声。それならばメールをと思い立ち、メールを作成して送ってみたけれど、エラーとして自分の携帯に戻ってくるばかり。
 その時、漸く悟った。彼女がどんな思いで俺をずっと見ていたのか。届かない思いに縋りながら、待つことしかできない、もどかしさ。俺はどれ程彼女を傷つけ、泣かせてしまったのだろう。
 そこまで思い出して更に凹む。「好きな子苛め」とはよく聞くが、それにしては度が過ぎた数々の卑劣な行為に思わず溜息を漏らす。
 あれから何年も彼女を探し続け、アメリカに渡ってしまった今でも、時々こちらに帰ってきては彼女の足取りを追っている。けれど、時間ばかりが経過してしまい今でも彼女とは連絡が取れていない。
 黄瀬涼華。俺がズタズタに傷つけ突き放した、元恋人。
 悪いとは思ったけれどテツの携帯を開き、アドレス帳を探し当てる。テツは以前、涼華のアドレスを再び聞いたと話していたからきっと電話帳の中に彼女の名前があるはずだ。――と、その感は間違っていなかったようだ。そう時間も掛からずに見つけた『黄瀬涼華』の文字に、思わず携帯を持つ手が震えた。これが歓喜なのか、悲愴なのか、はたまた恐怖なのかは、本人にも知れない。
 メールの新規作成画面まで出したは良いものの、いざそれを前にすると何と書いていいのか分からず携帯を片手に固まってしまった。情けねぇ、自分。


『今更連絡したって涼華はもう戻って来ねぇ』

『他の野郎と結婚するって言ってんだ、諦め悪すぎだろ、俺』

『アイツにしてきた事棚に上げて、俺がアイツに戻ってこいなんて、どの面下げて言えんだよ』


 アメリカからの飛行機の中で何度も自問自答した事が再び脳裏を駆け巡り、更に俺の指は重たくなる。
 彼女の幸せを心の底から願うのなら、俺は何も知らなかった俺のフリをするしかないのだと思う。けれど、それが出来ずに今、俺は日本の地に立っている。彼女を幸せにできるのは俺だけだと思っていたあの頃の気持ちは今も変わらない。いや、都合が良すぎると罵られる事なんて分かりきっているけれど。

『青峰っちー、私たちがおじいちゃんおばあちゃんになっても、一緒に居ようね!』
 
 いつだか彼女が言った言葉。俺は重いだの何だの言った気がするけれど、本心では満更でもなかった。
 
「なあ、涼華……今でもその言葉は、有効か……?」

 返ってくる訳のない質問を人混みに紛れて外に出す。有効なわけ、ないだろう。と一人で自己完結し自嘲気味に笑う。けれど、もしもう戻る事が出来ないのだとしても俺はアイツが結婚する前に、どうしても謝りたい。そして、あんな不甲斐ない俺について来てくれたことにありがとう、と伝えたい。
 一つ、深呼吸をしてもう一度携帯に向き直る。

「……もう、迷わねぇ」

 あの頃、戸惑い、傷つきながらも俺を支えてくれた彼女に、もう一度だけ――。
 一文字一文字、柄にも無く震える指先で文章を作成していく。彼女の名前を打ち入れるのには特に勇気が要ったが、もう迷わないと自分で決めたのだ。これで見事に玉砕したとしても、彼女が俺の前に現れる事が無かったとしても、俺はそれを受け止めなければならない。
 結びに、俺の名前は入れなかった。きっと涼華なら分かってくれる。このメールの差出人がテツではなく、俺だということも、待ち合わせに指定した、良く二人で通った公園の事も。
 全部彼女が分かってくれる事を願い、俺はそのメールを送信する。

「来てくれっかな……」

 無理かもな。そう、もう一人の自分が嘲笑った気がして俺は思わず目を伏せた。








To 黄瀬涼子
Sub 無題
――――――――――



涼華
話したいことがある

七日後の二十時、
よく二人で行ったあの公園で待ってる




  ―END―

――――――――――




――――――――――



『涼華、今晩ちょっと打ち上げで遅くなるから先に寝てて。 ごめんね、さっき急に決まってさ。 ご飯も今日は大丈夫だよ』

『え、そうなんスか? 折角今日枝真さんの好きな肉じゃがにしようと思ってたのに〜』

『……すっごい食べたいんだけど。 明日作ってよ!』

『仕方ないっスね〜! わかった、なら肉じゃがは明日にするね』

『ごめんね、ありがとう。』

『いいっスよ! あ、それなら私も少し出かけてきていいっスか? 学生時代の友達からお誘いメール来たんスけど』

『そっか、楽しんでおいで? 俺が言えた義理じゃないけど、女の子なんだからあんまり遅くならないようにね』

『うん、ありがと。 枝真さんも楽しんで来て』
 
 私、黄瀬涼華は今まで婚約者とメールのやり取りをしていたケータイをソファーに放り投げ、一つ深い溜息をついた。嗚呼、いけない。幸せが逃げちゃう。
 
「枝真さん、ごめんね。 ……ちゃんと帰ってくるから」

 珍しく一日OFFのとれた私は誰も居ない室内、ソファーに寝転がりながら一人沈む気持ちにもそのままにし、カレンダーと時計を交互にを見つめていた。
 四月某日、時刻は二十時三十分前。青峰っちが一方的に寄越してきたメールの待ち合わせの日。
 私は行くかどうか、迷わなくてもいいことを迷ってこの一週間悶々とした日々を送ってきた。行くべきか、行かないべきか。どちらかを裏切らなければならないその行為にどうしていいのかと、迷った。
 迷わなければいけないほど、まだ青峰っちという男の存在が私の中で大きなモノなのだと気づかされて渡そが愕然としたのは言うまでもない。
 最終的に行こうと決めたのはつい今しがたのこと。枝真さんが早く帰ってくると言うならば、私はきっと青峰っちとの約束を蹴っていた。枝真さんの傷つく顔を見たくはなかったから。偽善者なんて、卑怯者なんて、言われなくても知ってる。
 そんな卑怯な私は彼の好物でも作って、青峰っちを忘れられるくらいベタベタに甘えようかと思っていた。けれど、枝真さんは帰ってこない。
 自分に甘いだけの酷い女だと思う。何より自分を大切に、愛してしてくれる人がいるのに昔の男にまだ気持ちがあるというのだから。酷いを通り越してもう最低だ。ここから世間一般に言う浮気に繋がっていくのだろう。私はもう既に浮気に片足突っ込んでるんではないだろうか。 
 けれど彼が帰ってこないからこそ、今晩青峰っちに会おうと思った。この気持ちに区切りを付けたいと思ったから。こんな中途半端な気持ちのまま、枝真さんと永遠なんて誓えない。
 六月に入るのなんてきっとあっという間。私はあと一ヶ月と数日後、結城涼華になるんだ。

「しっかり、しなきゃっスね。 ふらつくな、自分……」

 私は自分にそう言い聞かせてソファーから立ち上がると、枝真さんに見立ててもらったモカブラウンのコートにつば付きのニット帽を身に纏い、必要最低限の物だけを持って我が家を後にした。












さて、方向性を見失いつつあるこの作品。
一体どうなっていくのでしょうか……(笑)




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