宝物 | ナノ

 ☆獣はお菓子の夢を見る

ふと気が付くと、ドライバーから運賃の釣りを受け取りながら「すみません」と唇を動かしている成歩堂を、御剣はどこか遠くから見詰めていた。
記憶のある限りの情報によると、自分は成歩堂と共に酒を飲み交わしていたはずだ。いつの間にタクシーへ乗り、目的地を伝えたのだろうか。窓ガラス越しに聳える、圧迫感すらある見慣れたマンションに目を向けながら、自分自身へと疑問を投げかけ、分からないままにそれは返ってくる。
彼はきっと、その声色と同じように眉を下げた情けない表情を浮かべているに違いない。
顔を上げようとして、ぐにゃりと視界が歪んだ。次に訪れたのは、体中に襲い掛かる脱
力感と、後頭部を殴られたような眩暈だった。この感覚には覚えがあった。
途切れる直前の記憶の僅かに残った、ビンテージ物のデキャンタの入ったグラスが脳裏を過る。どうやら、あれが致命傷となってしまったらしい。吐き気を伴っていないことが幸いだった。

腕を取られ、成歩堂の肩へと回される。整髪剤の香りに、自然と顔が近くなったことを自覚した。それを堪能する間も無く、無理やり車外へと引きずり出されて、彼の香りは外気にかき消される。
ずりずりと革靴を擦る嫌な音を立てながら、二人でマンションへと足を進める。力の込められた、彼の吐息が耳につく。いくら体格の良い成歩堂でも、大の大人を抱えて歩くのは重労働であるようだった。
申し訳ないことをしている自覚はあるものの、体中に力が入らない。

「御剣…ごめんな」

成歩堂の声にぼんやりと視点を上げると、自分の苦手としている鉄の箱が小さい音を立て閉じた。
肩を借りている身で、エレベーターが嫌だのと喚くことはできない上に、この状態で階段を使うとするならば、恐らく日の目を見ることになるだろう。浮遊感と閉鎖空間に、嫌だと騒ぎ立てる余裕は今の御剣にはなく、一刻も早く目的地へ到着するようにと手に力を込める。
なんとか玄関前へと辿り着き、成歩堂は大きく息をついた。

「鍵、勝手に使うからな」
「…ああ、構わない」

殊の外、声は響いた。御剣のスラックスのポケットを漁っていた手がぴくりと跳ねたものの、成歩堂はまるで何も聞こえていないような素振りでキーケースを抜き出した。錠前の開く音が響く。
そのまま、共に滑り込むように部屋の中へと入り、成歩堂は後ろ手で鍵を閉めた。

「起きてたなら言えって」

御剣の体躯をゆっくりと床に下ろしてから、成歩堂は鞄を放り投げた。どさりと音を立てるのも構わず、顔を覗いてくる。
成歩堂の表情が想像していたよりも穏やかで、御剣は密かに胸を撫で下ろした。

「すまない」
「立てるか?」
「…すまない」

差し出された手に、御剣はかぶりを振る。意識や視界ははっきりしてきたものの、体は未だに言うことを聞きそうにもなかった。

「その、言い出す機会がなかったのだ」

ついで出た言葉に、成歩堂は御剣の靴を脱がせながら笑った。

「そっか、そうだよな。お前、本当にべろんべろんだったし」
「それほど、私は酔っていたのか」
「そりゃあもう!バーテンさんがアタフタするくらいにはね」

初老の男性が一人で営んでいる、静かで小さな、感じの良い店だった。成歩堂の反応に罪悪感を覚えながら、御剣は二度と足を運ぶことのできないだろうバーのことを思った。
脱ぎ散らかした靴を揃えることもなく、成歩堂は再び肩に腕を回した。

「勝手に入るけど、いいだろ?」
「駄目と言ったところで、君は帰らない」

心を許したものに、彼はとことん甘い。それが、旧知の親友であり、恋仲である人間に対するならば、尚の事だ。
酔い潰れた人間をわざわざ家に連れて帰るくらいのお人好しが、今更玄関に放置してそのまま帰るとは思えなかった。
壁と彼に寄り掛かるようにして立ち上がった御剣に、「それもそうだな」と成歩堂は笑った。

「寝室は、左手の扉だ」

壁伝いに迷いなく廊下を進む成歩堂を制止する。

「…いや、いいよ。リビングにソファがあっただろ?」

足を止めた成歩堂の表情は、困惑の色に染まっている。
彼を促すように、ようやく機能を取り戻してきた腕で、ドアを開けてやった。そこまでしても、尚、成歩堂は部屋へ入るのを躊躇しているようだった。

「入りたまえ」

その言葉に触発されるかのように、一歩、また一歩と、成歩堂は恐る恐るといった具合で忍び込んだ。手探りで入れられた間接照明が淡く灯る。
ベッドへ腰かけた御剣から、成歩堂はたどたどしい手付きで上着を脱がし、クラバットを解いていく。首元を締める布が取り去られると、体が解放されるように、重苦しさが抜けていった。

「水持ってくるから、おとなしく寝転がってろよ」
「このような状態で、動けるわけがないだろう?」
「嫌味が言えるくらいに、回復して良かったね」

二人分のコートをかけながら、成歩堂は笑みを浮かべた。

キッチンへと向かう彼の背中を見送ってから、肺の中に澱んでいた空気を思い切り吐き出した。
先程、成歩堂が寝室に入ることを躊躇っていたのは、“突然の来客”が安易に寝室へと踏み込んでもいいものかと、迷っていたからに違いない。完全に無駄足である彼の気遣いに、思わず笑みを漏れる。
甲斐甲斐しく世話を焼く成歩堂に僅かな罪悪感を抱きながら、御剣は己の失敗を悔やんでいた。そして、彼以外の人間がその場にいなくて良かったと、心底感謝する。

洗い立てのカバーに、片付けられたサイドテーブル、そして部屋の隅にあるラックには、一人で使うには幾分か多いハンガーがかけられている。勿論、テーブルに備え付けられた小振りの引き出しに何が入っているのか、成歩堂は知る由もない。
仕事へと向かう前の忙しい早朝に、己のためだけに、ここまで準備するはずなどなかった。
予定では、こうしてベッドに横たわり介抱されているのは成歩堂であり、御剣は酔いを醒ましてやりながら、あわよくばこの関係が進展することを望んでいた。彼も自分も、どちらかと言うと奥手である。きっかけがない限り、体を繋げることはできないのだと薄々感じていた。

成歩堂が下心に気付いていたかはさておき、御剣は人気のあまりない場所で、アルコール度数の高い酒を意図的に飲ませた。酒の知識が然程あるわけでもない彼は、勧めた銘柄を疑うこともなく、順調に酒を呷っていた、はずだった。
あまりに彼の様子を伺いすぎて、自らが泥酔していくことに意識が向いていなかったらしい。
御剣は脚を布団の上にだらしなく投げ出し、ベッドヘッドに寄り掛かりながら、煌々と照明が灯る廊下に顔を顰めた。

「お待たせ」

暫くして戻ってきた成歩堂の手には、ミネラルウォーターのボトルとグラスが握られていた。ベッドに腰掛けながら、成歩堂はグラスになみなみと水を注いでいく。

「量が多い」
「酔いを醒ます特効薬だからね。吐き気がないなら、多めに飲んでおいたほうがいいよ」
「…分かった。飲ませてくれ」

差し出したグラスをそのままに、成歩堂はベッドに膝立ちで乗り上げて、距離を詰める。そのまま口元へ寄せられたグラスを、御剣はやんわりと押し返した。

「御剣?」
「飲ませてはくれないのか」

数秒の間をおいて、何を言われたのか理解できたらしい。
引っ込めた自分の手元にあるグラスに視線を寄越すと、成歩堂は暗がりの寝室でも認識できるほどに頬を染めた。

「あのなあ…」
「成歩堂」
「酔っぱらってるのに」
「成歩堂」
「だって、御剣、」
「……成歩堂」

何かしらの文句を紡ごうとした彼の言葉を繰り返し遮って、名前を呼んだ。

「…分かったよ」

彼は甘い。口を尖らせた成歩堂を目に、改めて思う。
成歩堂は手の内にあるグラスに口を付けた後、ボトルと共にサイドテーブルに置いた。間も無く、キスを乞うように瞼を伏せ、唇が合わせられる。舌が入り込むと同時に、少量の液体が口内へと注ぎ込まれた。すぐに離された口はグラスに残った水を含み、再び重ね合わされる。
何度も与えられる、彼を介して与えられる水に冷たさはなく、どちらのものとは判別できない酒臭さが、鼻孔を擽った。にもかかわらず、次第に、水ではなく彼を追い求めるように、御剣は成歩堂の舌を追っていた。
全ての水を渡し終えた成歩堂の舌を吸う。反射的に顔を離そうとした後頭部を掴み、下唇を甘噛みした。

「御剣……っ」

隙間から漏れる吐息と共に呼ばれた名に、頭がくらくらした。酒によって齎された眩暈とは異なる、何も考えずに貪りたくなるほどの甘美な刺激だった。

「駄目……」

そのまま首筋へと唇を滑らせる御剣に、成歩堂は艶めいた声で訴えてくる。

「触れられるのは、嫌か?」
「そういうわけじゃないけど…」

成歩堂が口にする言葉は、確かに御剣と同じ感情を含ませているものの、駄目だと言われてしまうと、強引に推し進めることもできなかった。
目の前でしゅんと俯く成歩堂の体を抱きすくめ、できるだけ優しく、耳元で囁いた。

「けど…何だ」
「なんというか…君も僕も女の子ではないけど…ほら、こういうのって、ちょっと勇気もいるし、準備も必要だし。あと、雰囲気とか大事だろ?」

早口で捲し立てるように、成歩堂は続ける。

「お互い、酔ってない時にしようよ。そのほうが、絶対にいいから」

そう呟く成歩堂の顔を、御剣は見ることができなかった。彼が言う全ての事柄が擦り切れてしまうほどに欲しくて堪らないのだと知ったら、どう思われるのだろう。

「……この時間では電車も止まっているだろう。泊まって行くといい」
「ごめん、そうさせてもらうよ」
「ただ、この寒い季節にソファで眠るのは自殺行為だ。君に風邪を引かせるのは私としても不本意なのだが…?」

立ち上がった成歩堂の手を掴む。

「…しょうがないなあ」

言葉とは裏腹に、成歩堂はするりと布団の中に入ってきた。
子供のような稚拙な我儘に苦笑しながら、寄り添うように体を横たえた彼を、本当に甘い奴と思う。
ただ、呆気に取られるほどのその甘さも、対象が自分になるだけで砂糖菓子へと変貌するのだから、恐ろしい。
早くも寝息を立てている成歩堂の額に唇を落としながら、砂糖菓子を食べ過ぎた自分も大概甘くなったものだと、御剣は一人考えていた。



【終】







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