重苦しい雰囲気に、★は眉を顰めた。
久しぶりに降った雨は途切れる様子も見せず、静かに地を打ちつける。
湿った空気は晴れの続く今の季節にしてはどうにも違和感を感じるものだ。

その細い指に持つペンを机に置くと、★はおもむろに椅子から立ち上がった。
時計に目を遣ると、七時半。
最後に見てからきっと5分と経っていないのだけれど、意味もなく針の行く末を追ってしまう。

「(…早く、帰らなきゃ…)」

無意識の内に漏れる重い息をひとつ吐き出して、帰る支度を始めた。
見慣れた生徒会室は自分一人だけだと妙に広く、不自然な程に静かだ。
初めはこんなに遅くなるつもりはなかったのに、次から次へと芋づる式に仕事を見つけてしまっては帰るに帰れない状態であった。
流石にここまで残っていては良くないか、そう思いながら電気を消し、鍵を掛け。
雨の日独特の気怠さを押し殺すように足を踏み出した。

窓から見える世界は真っ暗で、見慣れた筈の校舎なのに自分が知らない世界に居るような錯覚を覚える。
辛うじて残っている明かりを追うようにして、足早に歩を進めた。
リノリウムの廊下に響く足音が、厭に反響して薄ら寒い。
いつの間にか昇降口まで辿り着いて、ガラス張りのドアから覗く外の世界にようやく安堵の息を吐き出した。
そして、徐に自分の靴に手を掛けたとき。

「★」
「っ!?」」

不意に呼ばれた自分の声に、大げさに肩を揺らして振り返った。

決して怖い訳じゃない。だって自分一人しかいないと思っていた所にそんないきなり声が聞こえてきたら驚くに決まっているじゃないか。
なんてどこか言い訳じみた言葉が頭を駆け巡る中、★は些か恐れに染まった瞳で声の主を探した。

「せ、いいち?」

振り返った先に居た、予想外の人物に★は目を瞬かせる。
返事の代わりのように柔らかな微笑みを見せる幸村にほ、と息を吐いて、今度こそ靴を手にした。

「驚いた?」
「……そりゃもう」

気配ぐらい見せてくれ。読める訳がないけれど。
口を開けばそんな的外れな答えが出てきそうで、誤魔化すように会話を続けた。

「あれ、部活は?」
「雨だから中止。ミーティングするにも昨日やったばかりだったしね」
「あ、そう…なんだ」

★が些か煮え切らない答えで返したのは、部活が無いのになぜこんな時間に学校に残っているのだろうと、当然の疑問に行きついたからだった。
すぐ前にあるドアから広がる外は、さっき見た姿と変わらず、真っ暗で。
困惑したような★の目線を受けたからか、思い出したように幸村は言葉を続けた。

「俺もさっき部室出たばかりだから」
「え、それならそのまま帰ればいいんじゃないのか?」

部室からこっちってどう考えても通り道じゃあないし。

そう言ってしまってから。
しまった、と思った時にはもう後の祭りだった。
思った事をすぐ口に出してしまうのがいけないのか、考えもせずに口に出してしまうのが悪いのか。あれこれ両方とも意味は同じだ。
どんよりとした空気がピシリと音を立てたのを聞きながら、そして目の前の綺麗に整った顔がどこか陰のある、含みのある、ぶっちゃけて言えば良い思い出の無い表情へと変貌していくのを目で追いながら、★はそんな軽い現実逃避をしていた。

「ふーん、★は俺に帰って欲しかったんだね?」
「そんなことは言ってないだろ…」
「じゃあ嬉しい?ねえ、俺に会えて嬉しい?」
「……………嬉しい、けど…」

口籠るように言葉尻が消えてしまったのは、気恥ずかしさは勿論、この威圧感から目を逸らしたかったからだけじゃない。
会えることは、勿論嬉しいに決まっている。
嬉しいの、だけれど。

「……あのさ、もしかして待っててくれた?」

自惚れが過ぎるだろ、なんて鼻で笑われるだろうか。
こんな時間に。
こんな時間まで。
もしかしたら、違うと良いんだけれど、でも合ってても嬉しいんだけど。
もしかしたら、自分を待っていてくれたのかもしれなくて。
でも、もし本当に。

――本当に、「自分を待っていた」のなら。

嬉しいけれど、嬉しくて嬉しくて仕方がないのだけど。
それと同じくらい、申し訳無くなる。

いつの間にか目の前の彼の足元をじっと見詰めていたらしい。
見ない代わりに情報を拾ってくる耳が、やけに敏感になっている。
静まり返った校舎内に、反響しながら響く雨音も。
相手が口を開くその音でさえ。
見てもいないのに、わかるくらいに。

「待ってた。……って、言って欲しいの?」

肯定か、否定か。
返ってくるのならそのどちらかだと思っていたものだから、★は怪訝そうに顔を上げた。
視線の先に居る彼は一体、どんな答えを自分に求めているのか。
分からないことに。
分かれないことに。
ただただ悲しくなって、知らず知らずの内に★の眉根が寄る。

「……俺としたら、欲しくない、かも」

悩み抜いた末に、ぽろりと口から出てきたのは、本音の方。
待っていて欲しくない、理由。
嬉しい筈なのに、すごく嬉しいのに、……悲しい、理由。

「どうして?」

その形の整った口から出てきたのは、自分を急かすような音を含んではいなかった。

「……だって、ほら…その…」

それよりもどこか諭すような声音であったから、思わず★は口籠る。
目の前の青年の唇は弧を描いたままで、決して機嫌を損ねている訳ではないのだろうことが、多分、救い。

「………待ってる時間があるんなら、それよか早く帰って休んで欲しいじゃん…」
「……………」

何か自分が恥ずかしい事を口走っているような気がして、軽く目線を逸らしながら★は呟く。

優先するべきは、幸村の方なのだ。
自分じゃあ、ない。
彼の足を引っ張ること。
彼にちょっとした負担ですら掛けてしまうこと。
それだけは、彼の傍に居る者として、彼の隣に居る者として、絶対に避けたいから。

すぐに帰ってくると思っていた返事は暫く経っても来ず、不思議に思い目を遣ると。

「な、何だよその笑み…」

清々しい程の満面の笑みの男が、居た。
★が薄ら寒さに身を震わせていると、上機嫌の幸村が自分の靴を手に固まったままの状態の★の腕を引っ張り、おまけに大層嬉しそうな声で「早く帰ろう」なんて言うから、追及するのも面倒になって大人しくそれに従う。
だが、外に出ようとしたところで、★は急に足を止めた。