「あ。」
「え、何?」
「俺傘無い…」

思い出したように幸村を見ると、その手にはしっかりと傘が握られている。
今朝の天気予報は雨なんて一言も言っていなかったような…いや、そもそも天気予報すら見ていなかっただろうか。
どうしようかと悩み始めたとき、幸村は先程の上機嫌を残したまま、口を開いた。

「そんなの、相合傘すればいいじゃん」
「え、誰が?」
「俺と、なまえが」

本気で言っているのかこの男は。
そんな瞳で無言の抗議を続けていると、それを無言の肯定だと勝手に置き換えたらしく、幸村はなまえの左腕を掴んで歩き出した。
片手で器用に傘を開いた幸村は、「真っ暗、」とぽつりと呟くと、仏頂面のなまえを尻目にずんずんと先へ行く。
ただ、その歩幅は比較的小さく、なまえのことなど構わずに進んでいる訳ではないことを物語っていた。

「そういえば、さっきの続き。なまえを待って無いって言えば待ってないし、待ってたって言えば待ってたのかも」
「え、何だよ。そのかもって」
「必然的になまえと帰ろうとはしていないよ、って。結構運試しみたいなかんじだったなぁ」
「…ごめん話が見えない」

幸村の言う分に、部室でテニス部関連の仕事をしていたらちょうど生徒会室の明かりが見えて、もしかしたらなまえがまだ居るのかも。なんて淡い期待だったらしい。

「残ってたのが俺じゃなかったらどうする気だったんだよ」
「そのときはそのときでしょ。明日の朝になまえにあたる」
「理不尽な……」
「じゃあ慰めてもらう」
「…はいはい」
「っていうのは冗談で、蓮二に生徒会室になまえがいるって教えてもらったから」
「はいはい、って…え?柳?」

ああ確かに廊下で会ったかもしれないと納得していると、「それと、」という幸村の声が聞こえたものだから視線を戻した。

「なまえはきっと傘持ってきてないんだろうねぇ、って話をしたから」
「………その通りでしたね…」

何故そこでそんな晴々とした笑顔を見せるのかわからない…というか考えたくなかったので(きっと腹の中で嘲笑っているんだろう)苦笑いを返しながら視線を泳がせた。

そして、目線の先に目にした光景に、瞠目して。

「…っ精市、お前!傘こっちに傾け過ぎだろ馬鹿!」
「えー…そんなことないよ。気のせいでしょ?」
「んな気のせいあるか!貸せっ俺が持つ」

なんて臭いことをしてくれてるんだ。
仮にもテニスプレイヤーが体調に気を使わないでどうするんだ。
言いたいことは沢山あったけれど、傘を引ったくるようにして奪うことで、その衝動を押さえ付けた。

自分で言うのも何だけど、この男は自分を甘やかし過ぎだと思う。
こうして自然と車道側を精市が歩くのも、絶対思い過ごしではないのだろうし。

「(…全く…狡い奴…)」

――…だから、悔しいんだ。

何もかも見透かされてそうで。
全部一歩前を行かれて、自分ばかりしてもらっているような気がして。

「…気に食わない」

火照った顔を隠すようにして幸村と反対側を向きながら零した言葉を、幸村はちゃんと聞き取ったようで。
なまえの顔を覗き込むようにしてその言葉の意味を問い掛けると、拗ねたような表情で渋々なまえは口を開いた。

「……俺だって、何かしたい」
「え?」

幸村にとっては脈絡も何も無い言葉で、理解しろという方が無茶な話なのだろう。
それでも前後の言動を繋げていき辿り着いた答えに、幸村は面食らわずにはいられなかった。

「(…何かしたい、ねぇ…)」

その言葉を逆手に取って色んなことをさせたら流石に嫌われるだろうか。
大体そんな…理性を試すような言葉を言ってどうなっても知らないぞこの天然。
若干引き攣った笑みを浮かべながら考え抜き、弾き出した答えは結局。

「なまえ、こっち向いて」
「ん?…っ!」

一瞬の内に掠めとった唇が、冷え切った体とは相対して熱い。
絶句の表情でこちらを見詰めるなまえに笑みを零して、高ぶった心を抑えるように幸村は言葉少なく口を開く。

「今は、これで十分だから」

今は、ってなんだよとか自分で言っておいて思わなくも無いけれど、なまえを大人しくさせるには効果的だったらしい。

「あ、それと…」

これもね。

そう付け加えてなまえの傘を握る手に自分も重ね合わせるように、幸村は右手を動かした。
傘が邪魔で手を繋げないから、せめて握るだけでも。

「なまえはね、充分俺に愛されてるんだよ?わかる?」

いてくれるだけで、いいから。
ただ、そこに。
そこにいて、その真っ直ぐな双眸で俺を捕らえてくれていたら。

「まあ、こーゆーことをなまえの方からしてくれたら、嬉しいんだけどなぁー」
「………」
「疲れもすぐに取れるのになぁー」

必死に聞こえないふりをしながら隣を歩くなまえに、幸村は心の中で笑みを浮かべる。
なまえはなまえで赤い顔が隠せていないことくらいはわかっているから、もう半分開き直りかけていた。
だから。
普段ならやらないことも、できた。
傘の中で。
肩を寄せ合った状態から。
素早く、それこそ触れ合った余韻も残さないで。

「…これで、いいんでしょっ」

勝ち誇ったように口の端を緩く持ち上げるなまえ。
それでもその仕種は、幸村にとっては照れ隠しにしか見えないのだけれど。

「…ねえ、なまえ」
「何?」
「……抱きしめていい?」
「それは駄目。ここ外だってば」

さっきまでとは打って変わって、頬を染めているのは幸村の方だった。
唇を覆うようにして手を添えて珍しく動揺している幸村をなまえは満足気に見遣り、少しだけ、隣の男にくっつくように肩を寄せた。

あたたかい。

一人の時には感じられない温もり。

当たり前のことなのに、それがすごく特別なことのような気がした。

どんなに些細な行動でも。
どんなに些細な言葉でも。
そこには確かに、愛があって。
見ようとしないだけで。
見つけようともしないだけで。
確かにそこに、ちゃんと。

「なんかさ、難しいね」
「何が?」
「何て言うか…何も言わなくても、伝わればいいのに」

指先から、肩から。
触れたところから伝わる温もりに。
それだけじゃなくて、一体どこにあるのかはわからないけれど、心の底から確かに温まっていくような。
そんな感覚に身を委ねながら、ぼそりと呟いた。

どんなに今、相手を想っているのかを。
どんなに今、幸せを感じているのかを。

伝えたいのに。
伝える術を持っているのに。
上手く言えないもどかしさだけが積もっていく。

「いいんだよ、わからなくて」
「何で?」
「わからないから、知りたくなるんでしょ」

――「わからないから、知りたくなる」

ああ、確かにそうかもしれないな。
ぼんやりと思いながら、なまえは隣の男を見上げる。

「それにさ、」
「ん?」
「わからない子には、わからせてあげるんだよ」
「………え?ちょ、ま、」

一変してどこか裏のある笑みを見せた幸村から後ずさるように足を踏み出しても、片手を握られているからそれはほんの小さな抵抗に過ぎなかった。

耳元に近付いてくる心底楽しそうな幸村の顔を横目に見て、一体どこで彼の加虐心を煽ってしまったのだろうと今更すぎる後悔をしたなまえだった。

「好きだよ、なまえ」


今はただ、二人で。

溺れるように、愛に沈もう。











(その声で、僕を捕らえて)