報われない恋ほどろくなものは無いと実感し始めたのは、五つ年の離れた近所の、世間で言うところの幼馴染と呼ばれる間柄にあたる彼女に恋慕の情を募らせて三年目の初夏だった。

三年目にもなるとそれなりに感情のコントロールだとか、上っ面だけの行儀の良い笑顔も嫌でも様になるってものだ。
その証拠に、現在進行形で女性の独り暮らしの部屋へ平気な顔で上がり込んでいる。至って普段通りの僕を演じて。
勿論、そんなのは表面上だけの話だけれど。

全く意識していないのも、普段通りであるのも、昔から何一つ変わらないのも――僕ではなく彼女の方だった。
なまえが年頃と呼ばれる年齢になったって無警戒で難なく部屋に上げてもらえるのだから、幼馴染という間柄は実に便利なものだ。
そして、その枠に嵌っていつまで経っても抜け出せない僕は無様で滑稽だ。
謂わばこれは僕が彼女にどれほど焦がれていたって、彼女にとって安全な男として扱われているという確固たる証拠のようなものなのだから。
最早男ですらなく、弟という位置付けかもしれない。

【男は狼だから気を付けなさい】

残念ながら、そんな言葉は僕たちの間には存在しないらしい。
僕だって、その気になれば狼にくらいなれるつもりだけれど。

「なまえ、ここ分からない」
「ん? あーここはね、この公式を当てはめるんだよ」

XがどうのYがどうのこうの。
テーブルの向かいに座るなまえは、身を乗り出して懇切丁寧に問題を解説してくれるけれど、正直、僕の脳内を占めるのは問題の解き方ではなくなまえの事ばかり。

睫毛が長いなぁとか、柔らかな声音が心地いいとか。
今日の緩くまとめた髪型凄く似合ってる。
ネイル変えたのか……可愛い。その淡いピンク色はなまえらしくて僕も結構好きだなぁ。

「……無一郎、ちゃんと聞いてる?」
「うん。多分」
「コラ! 多分って何?」
「いった」

頬杖をつきながら飄々とした態度で笑って見せると、問題集をなぞる指先が俺の額を弾いた。
「もう教えないよ?」と凄む表情すら可愛らしくて仕方がないと胸を高鳴らせる僕は、本当どうしようもない。

「ねえ、どうせなら勉強以外の事も教えてくれない?」
「もう、またそんな事言って……冗談はいいから問題解きなさーい!」
「つまんないの」

これが僕達だ。
僕達の間には目に見えない一線が引かれていて、僕はその線をどうにも踏み超えられない。
近付き過ぎて、気が付いた時には境目なんて無くなって、いつまでも可愛い弟というポジションで足踏みをしてばかり。

再び向かいに座り直すなまえから、フワリと漂った彼女らしからぬ香りに眉を顰める。
嗚呼、またこの臭いだ……と。

「(最近……タバコの臭いがするんだよね。ほんのりだけど)」

それこそ、ほんの僅か。何となくだけれど僕には分かる。
以前、兄さんにこの話を持ちかけてみた事があったが、よく分からない考え過ぎだと軽くあしらわれてしまった。
それでも、僕には分かるのだ。きっとなまえ自身ですら気付いていない些末な事柄でさえ。
なまえの纏う雰囲気だとか、先程のタバコの香りも、服装も、髪型も、化粧も――何もかもが最近ほんの少しだけ以前の彼女とは違う。
他人がそうだろうかと首を傾げるような事柄でさえ気付けてしまう僕は、随分と彼女に入れ込んでしまっているらしい。

「ねえ、なまえ」
「何? またどこか分からない?」
「ううん、そうじゃなくて……あのさ、最近――」
「あ!」

突然、会話を遮るように絶妙なタイミングで辺り一帯に響く着信音は、僕に向けられていた彼女の意識を一瞬で攫っていった。
テーブルの隅に飲み物と一緒に置かれていたスマホが着信を知らせる。
画面に表示された名前を見て、表情を綻ばせたかと思えば「ちょっと、ごめんね」と一言断りを入れたなまえは、そそくさとベランダに出てしまった。

その表情にも驚いたけれど、何より今は僕と一緒にいるのに何の躊躇いもなく電話に出てしまう行動について、僕は驚いている。
別に僕達はそういった間柄ではないのだから、彼女の行動を咎める権利も資格も僕には無い。
僕を優先して欲しかったと告げる権限すら、無い。

その事実を有り有りと見せつけられて、知らしめられて、湧き上がった感情は――惨めさと、悔しさと、もどかしさ。
一瞬で僕を放り出す彼女が憎たらしくて、そして、やっぱり堪らなく好きだと実感させられる。
顔も名前も知らない奴を相手に、僕の心は嫉妬に焼かれて仕方がない。

「……」

部屋に一人ぽつねんと取り残されて、取手遊びに持っていたシャーペンを回す事にも飽きが来た頃、まだ戻る様子の無い彼女に不機嫌な眼差しを投げる。
視線の先には楽しげに表情を綻ばせるなまえの姿がある。窓が閉まっているせいで話し声は聞こえない。
どんな話に花を咲かせているのかも、どんな声で言葉を紡いでいるのかさえも分からない。
目と鼻の先にいるのに、何も分からない。
少なくとも、先程僕を叱った時よりは随分と楽しげだった。僕と一緒にいる時よりも、何倍も。

楽しそうなのは結構だが、しかし、此方にも我慢の限界というものがあって。
笑顔の合間に見せた頬を赤らめる仕草を目の当たりにした瞬間、今まで散々押さえ込んでいたものが一気に溢れた気がした。
手に持っていたシャーペンを問題集の上に放って立ち上がると、乱暴な仕草で窓を開け放つ。

加減など何も考えず感情の赴くままに窓を開け放ったせいで、窓は勢いよく滑ってサッシ枠にぶつかり派手な音を立てた。
驚いてなまえが此方を向くのが先か、それとも僕が彼女の手からスマホを取り上げるのが先か――。

「む、無一郎……!?」

見開かれた双眸が僕を捉える。
表情が驚きの色に染まる彼女に対して、顔色一つ変えない僕。

通話中だったスマホから漏れ聞こえたのはやはり男の声だった。
何か話していたようだったけれど、今はそんな事どうだっていい。
困惑するなまえに対し、一瞬だけ笑顔を見せて、何か言いたげに口を開いた彼女に言葉を被せた。

「返さないよ。今日は僕が先約だったんだから」
「なっ、いい加減にして! またそんなイタズラして……!」
「酷いなぁ、イタズラだなんて……僕を差し置いて電話に出るなまえが悪いんでしょ?」

「いい加減にするのはなまえの方だよ」と吐き捨てた。
いつまで経っても僕をただの幼馴染としてしか見てくれないから。
僕はもう可愛い弟ではないし、初心で純粋な年頃でもない。

――だから、これから精々思い知って。

手に握ったスマホはいつの間にか切れていた。
このまま、そいつとも切れちゃえば良いのにと思った。

「無一郎……? あの、急にどうしたの?」
「別に急じゃない。何も知らないのはなまえだけだって話で」
「え?」
「“男“を、易々と部屋に上げちゃ駄目だよって言ってるんだよ?」

ここは狭いベランダで、逃げ場なんてない。
いつもと雰囲気の違う僕になまえは呆気にとられ固まってしまって、瞬きすら忘れているようだった。
頬に手を添えると、彼女は弾かれたように双眸を瞬かせて動揺の色をその瞳に滲ませる。
その瞬間、僕の存在は彼女の中で確かに変わったのだろうが、それは少し遅すぎた。
だって、もう期待して待つのは飽きてしまったから。弟のポジションはもう沢山だ。

だから、無防備で愚かで愛おしいなまえにしっかり教えてあげないと。

クスリと小さく笑って、顔を寄せる。
そのまま唇を奪ったら彼女はどんな反応を見せてくれるだろう?

「なまえ、知ってる? 男はね、みんな狼なんだよ?」


20230730



BLコンテスト・グランプリ作品
「見えない臓器の名前は」
×
- ナノ -