■中編の生存・水柱if×継子(仮)の番外です。


あれはいつの事だったか。
いつかのあの時も、こうして私は彼に――師範である錆兎さんに遊女に扮してお酌をした。
懐かしくはあるが、そんな思い出に浸っていられる程、この場の空気は和やかではなかった。
寧ろ、呼吸すら満足に出来ない程の重圧が、傍から漂ってきている。
今日の私はあの時よりも上等な着物に身を包み、簪も、化粧も全て洗練されていて、より一層“それらしく”仕上げてあるのだが、それが錆兎さんの不機嫌に輪をかけてしまったらしい。

矯めつ眇めつ見ても、今の私は鬼殺隊の隊士ではなく、この遊女屋の一遊女。

「……し、失礼しま――うわっ!」
「……」

震える手で酌をするものだから、案の定酒はお猪口から溢れて錆兎さんの指を伝う。そのまま零れ落ちてボタボタと畳にシミを作った。

それも致し方ないと思う。
粗相をしても彼の双眸は一切手元を映さず、ただただ真っ直ぐ私を見据えたままである。
そんな眼差しに射抜かれ続けていたのでは、ますます顔を上げ辛い。
それに、錆兎さんも隊服ではなく着流し姿で、肩にかかる長さの宍色の髪を低い位置で一つに結えているせいで醸し出される色気も相まって余計に直視出来なかった。
男前度が一段と上がっているその格好は卑怯だ。

「酌もまともに出来ないお前が、なぜそんな格好で座敷に上がっているのか……そろそろ、理由を尋ねてもいいだろうか?」
「ひゃいっ!」

不機嫌を微塵も隠す様子の無い錆兎さんは、低く重苦しい声音で言った。
確かにその声には憤怒が混ざっているのに、酷く落ち着き払った物言いが返って恐ろしい。普段の何倍も。
いっそ頭ごなしに怒鳴ってくれた方が幾分も与し易い。

地を這ってこちらまで届いたその声は、まるで拘束するかの如く私の体に纏わり付くようでいて、息苦しい。

ずっと伏せていた顔を上げて、戦々恐々としながら上目遣いで様子を窺うと、やはりというべきか、貼り付けたような笑顔を浮かべる額には青筋がくっきりはっきりと浮かび上がっていた。
まるで錆兎さんの背後からは黒く禍々しい気が醸し出されているようだった。

そこで今一度、顔を引き攣らせる。

「また宇髄か?」
「い、いえ……違います。今回は……自分のせいといいますか……」
「だったら、納得がいくよう事情を話せ」
「うう……」

正直に話ても、きっと錆兎さんは納得しない。どんな理由や言い訳も、彼には通用しない。
それでも一応は本当の事を話しておかなければならないだろう。彼の継子として――恋人として。

きっと前回よりも錆兎さんは腹を立てている。
私との錆兎さんの間柄が継子(仮)の肩書きだけであった前回と、継子兼恋人である現在ではまるで状況が違う。

誤魔化すことも、口を噤む事も、今回ばかりは何があっても絶対に許されない。
私はもう身も心も錆兎さんのものだから。
彼にはそれを主張する権利がある。

お猪口から溢れた酒で濡れてしまった錆兎さんの手を拭きながら、事のあらましをぽつりぽつりと話し始める。
僅かでもいい。情状酌量の余地を与えてもらえれば万々歳だ。

「任務で、ここの店に紛れていた鬼を狩ったのですが……」
「……」
「少し鬼と対峙するのが遅れてしまって……ここの花魁が怪我をしてしま、い」
「……」
「うちのお店の稼ぎ頭を傷物にした責任を取れと女将さんからどやされまして……」
「それで、その代わりにお前が座敷に上がる羽目になったと?」
「はい、概ね……そんな感じです……」

一瞬の沈黙を経て、傍からは大きく深い溜め息が聞こえてくる。

「勝手な真似を」
「っ、師範……ごめん、なさい」

もしも、この事を事前に錆兎さんに相談していれば、こうはならなかったのだろうか?
取って代わってくれたのだろうか?
いつぞやの炭治郎くんたちのように“炭子”よろしく“錆子”に扮して。

それはそれで色々と絵面がまずいと思うけれど……。

「事情はどうであれ、一言俺に相談があっても良かったろう?」
「それは、すみません……師範に話たところで解決できる問題とは思えなくて。それに、どうして此処が分かったんです?」
「お前の鴉は随分と優秀なようだからな」
「ああ……なるほど」

どうして錆兎さんがここを訪れて私を指名したのかやっと合点がいった。
今回に限らず前回も、もしかすると私の鎹鴉が遊女屋まで錆兎さんを案内したのかもしれない。
優秀と称される程なのだから。

「とにかく今夜だけなので」
「このまま見過ごせと?」
「やっぱり、その……駄目ですか?」
「駄目に決まっているだろう! 馬鹿者!」
「ひいっ!」

当然ながら私の提案はピシャリと切って捨てられた。
しかしながら少しでも売り上げを立てなければ、あの恐ろしい形相をした女将さんに明日も座敷に上がれと言われかねない。
かといって、それを良しとしない錆兎さんの事だ。このまま実力行使で前回のように抱え上げられて窓から脱出するかもしれない。その可能性は大いにある。

「――っ!」

しかし、抱え上げられるかと思った体は瞬き一つの間に畳の上に投げ出されていて、視界には木目の天井が映し出される。
身動ぐ間も無く、すかさず覆い被さった錆兎さんは師範ではなく男の顔をしていた。
木目の天井を背負って、結えた髪を粗雑に解く仕草は私の視線を釘付けにした。

「……このまま連れ去ろとうと思ったが、気が変わった」
「へ?」
「お前は何も分かっていないからな。体に直接教えた方が効くだろう?」
「な、なんの……話ですか?」
「察しが悪いな。ここはそういう事をする場所なのだから、何も可笑しな事はないと思うが?」

私を力強く射抜く瞳がギラリと光る。その奥には爛れた欲が燻っていた。
一瞬で気圧され、息を呑む。決して冗談で言っているのではないと物語っている。

「着飾ったお前を、何処の馬の骨か知れない男の目に触れさせるのは腹立たしい」
「っ! や、やだなぁ。独占欲むき出しですかー? 師範」

戯けながら言葉を返すも、錆兎さんは顔色一つ変えない。
畳に縫い付けるかの如く押さえ付けられた手首を掴む力が一層強まった。

錆兎さんが冗談で押し倒しているのではない事くらい分かっていた。
手首を掴む手が、重なった体が、熱っぽい眼差しが、吐き出される言葉たちが――全部全部、本気だと言うことを私は分かっていたのに。

「ああ、そうだ。囲って、隠して――誰の目にも触れさせたくはない……気が触れそうだ」
「錆兎、さん」

師範ではなく名前を呼ぶと、私を見つめる瞳が柔和に細められた。

「それに、こういうのも一興だと思わないか?」
「お、思いませんよ!」

着物の裾を割って露わになった太ももを無骨な手が這い上がり、思わずぴくりと体が震える。

「錆兎さん……やっぱり待って、ください……」
「待てない。なまえ……今すぐ、お前を抱きたい」

こんな時まで真っ直ぐで、戸惑う私の感情をさらりと攫ってしまう錆兎さんにはどう足掻いたって敵うわけがない。
熱い吐息が首筋にかかって、頬に熱が集まる。
こんな襖一枚で仕切られただけの室内で。廊下を歩く人の気配を感じながら情事にふけようとするなんて……と、恥ずかしくてたまらなくなり、きつく目を閉じた。

「……もう二度と、俺の目の届かない場所でこんな事をしようなんて思えないよう、存分に教え込む」
「ん、ぅ……ごめん、なさ……」
「本当に、お前は目が離せないな――全く、困った恋人だ」

困った継子ではなく、恋人。
たったその一言で絆されて首に腕を回してしまうのだから、本当に困ったものだ。
爛れていても構わないとすら思う。今夜は、私を掻き抱くこの腕の中でどこまでも溺れてみたい。


20240611



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