愛は告げるもの

こちらの後日談です。


「師範ー!」

ドタドタと騒がしい足音が自室の前でピタリと止んだ直後、勢いよく開け放たれた障子と共に溌剌とした声が俺を呼んだ。
俺の事を“師範”と呼ぶ人間など、後にも先にもなまえしかいない。
なまえにしか許していない特別な呼び名でもある。

今朝からその姿が見当たらないと思っていたが、姿を見せたら見せたで何やら随分と上機嫌らしい。
稽古を抜け出して何処に行っていたのかと問い詰めてやろうと思ったが、可愛らしい笑顔を前にすっかり毒気を抜かれてしまった。
俺は恋人である前に彼女の師だというのに、随分と焼が回ってしまったと認めざるを得なかった。

「っ!」

手入れを済ませた日輪刀を鞘に収めて向き直ろうとした瞬間、背中に重みを感じる。
背後から凭れかかるように抱きつかれたかと思うと、細腕が透かさず首元へと巻き付いた。

流石にその弾みでよろけるなんて事はなかったが、しなやかで柔らかな肌の感触に加えて不意に鼻を掠めた彼女の甘い香りに軽い眩暈を覚える。
反射的に心臓が大きく跳ね、酷く喉が渇く感覚に襲われるが、今はまだ“その気”になるわけにはいかないと己を律し、動揺を悟られぬよう何事もなかったように軽くあしらう。

「いきなり飛びつくな」
「いいじゃないですか。だって私達、恋人なんですから」
「それはいきなり飛びつく理由になるのか?」
「なりますよ! だって、触れ合いは大切でしょう?」

「師範はびっくりするぐらい今までと何も変わらないですよね」なんて呆れたように呟いて、なまえは自ら巻きつけていた腕を解き、俺から距離を取る。

凭れ掛かった心地よい重みと温もりが無くなって惜しいと感じるのに、これの何処が以前と何も変わらないと言うのか。
顔と態度に出さないだけで、俺は十分彼女に惹かれている。

だらしなく表情を緩め、何も手につかず、色事に耽溺するなど俺らしくないだろう?
そんな腑抜け、男ではない。

とは言え、偶には唇を尖らせて不満を漏らすこの可愛い恋人を構ってやるのも悪く無いのかもしれないと思い直して、なまえの腕を掴む。
そのまま力を込めて引っ張ると、体勢を崩したなまえは抵抗する間もなくこちらに倒れ込んだ。

正面から彼女を受け止めて膝の上に抱き直す。
きょとんとするなまえに対し、してやったりと得意げに口角を釣り上げて見せると、拗ねた子供のように外方を向いてしまった。
背けた顔が赤く色付いている。
その様が実に意地らしく、無条件に愛おしいと思った。

「触れ合いは大切なんだろう?」
「師範はいつも突然すぎるんです……!」
「お前がそれを言うのか? さっきのあれこそ突然だったじゃないか」
「う、ぐぅ……」
「うん?」

容易く論破したところで、これ以上何も言えなくなってしまったなまえは声にならない声を漏らし、終いにはそれらを有耶無耶にするかのように抱きついてきた。
再び首元に回った腕が先程よりも力強いのは、彼女のせめてもの抵抗だったのかもしれないが。

「……師範は意地悪ですね」
「すまん、すまん。好いた相手はどうも揶揄いたくなる質でな」
「っ! そ、そんなの……私だって師範の事が大好きですし!」
「ははっ、そんな事で張り合ってどうする」

自分の声が普段より甘い事に気付いた。
この様子だと、威厳も何も感じられない腑抜けた表情になっているのではないかと心配したが、今はどうだっていいと思える。
そんな事に気を取られている程の余裕が無い。
抱き付いた腕を優しく解いて、瞳を伏せる。
頬へ手を添えて誘われるがままに顔を近づけると、互いの唇が重なる寸前でそれを拒むように手を差し込まれてしまった。
まるで見計らったかのように。

「あ! 師範、ちょっと待ってください」
「……それは今じゃないと駄目なのか?」
「はい! 駄目です」
「はぁ……それで、一体何だ?」

雰囲気と言うか、空気をもう少し読んでくれてもいいと思う。
まあ、普段から恋人のこの字も感じさせない俺がそれを言うのも可笑しな話だが。
それでも声を大にして言いたい。

今のは誰がなんと言おうと、口付ける流れだったろう!

随分と強引に流れをぶった斬られたものだ。
相手がなまえである以上、これは仕方のない事かもしれないが……。
こいつには今まで散々手を焼いてきたのだから、口付けを絶妙な間で拒まれようと今更と言った感じだった。

「ねえ、師範。何か気付きませんか?」
「は?」
「だーかーらー、今日の私は普段と何かが違うでしょう?」

また一段と無理難題を押し付けてきたものだ。
一見しただけでは分からない。
要するに、普段と何処がどのように変わっているかさっぱり分からない――と言うのが正直なところだが、この雰囲気でそれを憚らず口にする度胸が今の俺にはなかった。
男は度胸だと言うのに、何とも情けない。

「……」
「師範、まさか分からないんですか?」
「……何か手掛かりをくれ」
「やっぱり分からないんだ……酷いです!」
「お前はいつも漠然としすぎてるんだ! この間も前髪を三分程切っただけで同じ事を聞いてきただろう!」
「女子にとって三分は大差ですよ……!」
「知らん!」

いつの間にやら甘い雰囲気は何処かへ行ってしまった。
こんなにも足が早いのは俺たちの雰囲気と青魚くらいだ。

話が逸れてしまったが、つまり、今日の彼女は普段と何かが違うらしい。
わざわざ俺の元を訪ねて来たのも、それを見せる為だったのだろう。

繁々となまえの顔を見つめるも、彼女は溜め息をついて“仕方のない奴め”とでも言うように唇を突き出し、そこを執拗に何度も指差した。

唇……確かに色付いてはいるが。
なまえはいつも控えめに口紅を差しているから何も変わったように思えない。

「もー! 師範の鈍ちん! もういいです」
「んな!? 口紅が何だと言うんだ! 普段と何も変わらないだろう?」
「変わりますよ! いつもよりちょっと桃色が強めでしょ!?」

そんな微細な変化に気付けるわけがないだろう!

声に出してこそいないが、心の中では盛大に叫んだ。
前髪三分にも気付けなかった俺が、どうして唇の色味の変化に気付けると思ったのか逆に教えて欲しい。

「……もういいです。鈍ちんの師範には期待しません。義勇さんに見てもらいます」
「おい、待て。何故そこで義勇の名前が出てくるんだ」

俺が気付けなかった事を、ぼんやりとした義勇が気付ける筈が無い。
しかもこの分野に関して言えば尚更だろう。

なまえと恋仲になる前の継子論争の最中でも、この分野において随分と彼女に手を焼いたわけだが、それは今でも何ら変わりはなかった。

だからと言うわけではないが、これで尚更膝の上で喚くなまえを自由にするわけにはいかなくなった。
膝から降りようとするなまえの腰を捕まえて、巻き付けた腕に力を込める。
そうはさせるものか、と。

「ちょ、師範? 離してください」
「断る。俺といる時にその口から他の男の名が出るのは気に食わん」
「はい? ――っ、」

肩を押し返し、何とか俺を引き剥がそうと試みているようだが、そんな細腕では何の抵抗にもならない。
顎へ指を掛けて、背けられていた顔を半ば強引に向き直らせた。
そして、いつもと色味が違うと主張した口紅で彩られた唇をじっと眺める。

よくよく観察してみれば、確かにほんの僅かに色が違うのかもしれない。
違うと聞かされたからそう思えるだけかもしれないが、彩られた唇は普段よりも艶やかで、眺めれば眺める程に劣情を駆り立てられるような気がした。

――なるほど。惑わされるとは、こういう気分を指すのか。

「あの……師は、ん」
「呼び方、教えただろう?」
「っ、錆兎さん……」

気恥ずかしそうに囁かれた自分の名に満足気に目を細める。
色付いた唇を親指の腹でそっと撫でた後、今度こそ彼女の唇へ己のそれを重ね合わせた。

「薄い桃色はお前の白い肌に生えて、よく似合っているな。……俺以外の者の目に触れさせるのは惜しい」
「き、気付かなかったくせにその台詞は狡いですよ……」
「いい加減機嫌を直してくれ。似合っていると思うのは本当だぞ?」
「じゃあ、次は気付いてくださいね。絶対ですよ?」

胸元に寄りかかるように身を預け、顔を埋めながらなまえは言う。
それは普段の彼女とは少し違う、気恥ずかしさを誤魔化すような口振りだった。

「他の誰でもなく、錆兎さんに一番可愛いって思ってもらいたいから」
「! ……ああ。善処する」

正直、もうその言葉だけで十分なのだが、乙女心という奴は随分と複雑怪奇な代物であるらしい。
今日も今日とて俺の継子兼恋人は意地らしく、そして堪らなく愛おしい。
そうだな……一時も目を離せないくらいには。


20231009



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