鬼殺隊が解散し、幾度と季節が巡って数度目の春だった。

命を賭して鬼と戦い続けた日々の記憶も時が経つに連れて徐々に薄らぎ、今では平和を絵に書いたような日々に順応した自分がいる。
それは勿論、このまま平和ぼけした世界で鬼殺隊での日々を全て忘れ、生きていくという意味ではない。
朝日を浴びて目を覚まし、夜が訪れると眠りにつく――そういった真っ当な暮らしを自然と受け入れているという意味で。
朝日が登る事に安堵し、迫る闇夜に身構える事もない。
今までの普通が普通でなかった事すら今の生活に馴染んで気付いたくらいだ。慣れとは、習慣とは恐ろしい。

慣れと言えばもう一つ、私には馴染みがあったような気もするけれど……それは何だったか。
所詮その程度の事なのだから、気に止めるまでもないのかもしれない。うん、そうだ。そうに違いない。

「あ、見つけた」
「!」

不意に背後から声を掛けられる。
名前を呼ばれ、呼び止められたわけでもないのに条件反射のように身体が反応を示した。
身体に染みついた、慣れ親しんだ何かであるかのようなその声は、たった一言で私の自由を奪う事が出来る絶対的なものである事だけは確かだった。

その語調といったら相変わらずで、けれど、記憶を取り戻してからというもの、そこには確かな感情が宿っている気がする。

振り向いた先の人物を視認するなり上げた第一声は、他でもない「げぇ……」であったから、それは私が心から望む再会ではなかったのだと容易に理解してもらえたと思う。

好ましくない状況から発せられた“げぇ……”に続く言葉なんて、“何で此処に?”だとか“どうして此処が分かったの?”辺りがお決まりの台詞だろう。
その通り。私はそれらの言葉を口に出す前に飲み込んだのだから。

彼の台詞通り見つけたとあるように、ここは街中で、大通りで。
老若男女、和装姿の人もいれば洋装姿の人もいる。
種々雑多な人々が行き交う往来で、彼は寸分違わず私の姿を見極め呼び止めたという事になる。

私を見下ろす男の子――否、男性。
少年から青年に成長したその姿からは可愛らしさが抜け、果たして儚げな美しさだけが残っていた。
長い髪も当時のままで、瞳と同色の毛先にかけての浅葱色は目を射るように鮮やかだった。

「む、無一郎くん……久しぶり。元気そうだね」
「うん、なまえさんも。僕の事覚えていてくれたんだね。よかった」
「そりゃあ、覚えてるよ。ははは……」

あれだけしつこく言い寄られていたのだから。
目眩く甘酸っぱい?日々。
あれ程までに無かった事にしたい日々はない。
無一郎くんは柱で、一方の私はただの平隊士で且つ階級も下から数えた方が早い位置。
そんな不釣り合いな私達を面白がる輩もいれば、当然快く思わない輩もいたのだ。当時は後者が殆だったろう。

だから、私は逃げた。
鬼殺隊の解散と共に忽然と彼の前から姿を消した。
この恋(と、呼ぶにはあまりに稚拙な恋愛ごっこ)は不完全燃焼で幕を閉じた筈だったのに、こうしてまたほじくり返されてしまう。

「そっか。さっき僕と目が合った時、一瞬逃げ出そうと身構えたように見えたから」
「!?」

その洞察力は相変わらずだった。
さすがは元柱。組織は解散されても観察眼は現役だったようだ。
核心を突かれた事に少しでも動揺の色を見せれば、そこから一気に彼のペースに引き込まれてしまう。
それだけはどうしても避けたかった私は誤魔化すように、しかし、可能な限り自然に話題を変える。

「そう言えば、また背が伸びたんじゃない? 成長期だね」
「そうかも(あ……話逸らされた)」

頭を撫でようと爪先で立ちながら手を伸ばすと、髪に触れる前に手を掴まれる。
そのまま頬へ当てがわれ、無一郎くんは私の掌へ頬を擦り寄せた。

「撫でられるなら、こっちがいいな」
「う、うう゛……」
「顔、真っ赤にさせて“可愛いね”」

その台詞はまるで当て付けのようだと思った。
なぜならその“可愛い”という台詞は、私が無一郎くんによく言っていた言葉だから。
弟のような存在だった彼だから、何をされても可愛いと感じた。
だから、自然と口を衝いて出た言葉だったのだけれど、今思えば柱である無一郎くんに対して私の行いといったら失礼を通り越して無礼――いや、非礼だったのかもしれない。

「む、無一郎くんのせいだよ! ……こんな事するから。か、かかか可愛くない!」
「丁度良かったよ。もう、その言葉には飽々していたところだし」
「減らず口!」
「じゃあ、今日こそ僕が納得する返事をくれる?」
「へ?」

“今日こそ”
つまりそれは、彼の中ではまだ続いているという意味だ。
だったら尚更言えるわけがない。
鬼殺隊が解散して、無一郎くんの前から逃げ出す様に姿を消した理由が“逃げ出せば全てが無かった事になる”と思ったからだなんて。
何も終わってなどいなかった。

「上手くやったつもりだろうけど、そんな事はお見通しだから。残念だったね、なまえさん」
「へっ!?」

そもそも隠し切る必要はなかったらしい。
そうするまでもなく、彼は私の魂胆などお見通しであったようなので。

今更ではあるけれど此処は道の往来であって、なんなら私達はそんな道のど真ん中で頬へ手を当てがいながら可愛いだの何だのと言い合っているわけだ。
傍迷惑にも程がある。

「な、なんの事だかさっぱり分からないなぁー……」
「ふふ。相変わらず誤魔化すのが下手くそだよね。そういう所も好きなんだけど、まあいいや」

言って、無一郎くんは柔和に表情を緩めた。
頬へ当てがっていた手を下ろすが、決してその手を離してはくれなかった。
寧ろ、逃さないとばかりに手首を強く握られる。そんな所も好きだと言う割に、優しくはしてくれないらしい。
この手に込められた力の通り、彼は私が行方を眩ませたことに少なからず立腹していたのだ。

「なまえさん、すごく会いたかったよ」
「む、無一郎くん……」
「貴女の事を考えない日は無かったし、ずっとずっと探してた」

無一郎くんは、その長身を傾けて、私の耳元へ唇を寄せる。そのまま耳打ちでもするかの様に愛を囁いた。

“好きだよ。いい加減に観念して、僕のものになってよ”

「――っ、!」
「そんな反応をされたら期待しちゃうんだけど……いいのかな?」

疑問形でこそあるものの、ほぼ確信に近いような口振りだった。
私はただただ固まって真っ赤に頬を染めるだけ。
バクバクと死に急ぐみたいに早鐘を打つ心臓の音が、やけに耳に付いて煩かった。

「う、あ、えっと……あの、私は……」
「なまえさん、別に難しく考えなくてもいいんだよ?」
「難しく、考えない……?」
「そうそう。首を縦に振るだけ。ね? 凄く簡単でしょ?」

「ほら、やってみて」と、まるで幼子にでも言い聞かせるかのような口振りだったから、混乱中の私は馬鹿正直に首を縦に振ってしまった。
見事な誘導っぷりに、我に返った瞬間、眼前には満悦に笑む無一郎くんの姿がある。
それと同時に、私は取り返しのつかない事をしでかしたのだと深く深く後悔した。

「あの、その……やっぱり無し、とかってー……」
「何言ってるの。そんなの許すわけないでしょ?」
「ですよねー」

斯くして私は呆気なく無一郎くんのものになってしまったわけだけれど、彼に言わせれば収まるところに収まっただけなのかもしれない。
彼の魔の手から逃げ果せる為に色々と講じたあれこれは何の意味もなさなかった。
無一郎くんにとっては、それすらもお見通しだったのかもしれないが……。

彼の事を可愛くないと口にしたばかりだったけれど、私の手を引いて歩く彼の笑顔はあの時と変わりなく、やっぱり可愛らしかった。

きっと私はこれから先も事ある毎に無一郎くんには敵わないと染み染み実感するのだろうが、それらを思い知るのは彼の手のひらで踊り果てた後でいい。


20231029



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