ようやく仕事が一段落ついたところで、ノートパソコンを閉じ、凝り固まった身体をほぐす様にグンと伸びをする。
何気なく窓へ視線をやると、いつの間にかとっぷりと日が暮れて、辺りはすっかり夜闇に包まれていた。

たかが答案の採点如きに随分と時間を食ってしまった。
抜き打ちだったと言えど、どいつもこいつもクソみてぇな回答しやがって、と心の中で悪態を吐きながらガシガシと乱暴に頭を掻く。

この時間まで職員室に残っているは、流石に俺だけ――否、俺だけではなかったようだ。
背後から、小気味良いキーボードの打鍵音が聞こえてくる。
随分と静かだったせいで忘れていたが、あと一人居残って仕事をする勤勉者がいたのだったか。

「まだ帰んねぇのかァ?」

椅子の座席を回転させて、真後ろの席に座るなまえに声をかける。
彼女は此方に一瞥もくれず、パソコンに向かったまま「うん、もう少し」とだけ答えた。
その割に先程からスマホを気にかけているようで、何度もメッセージアプリからの通知を確認しては何も届いていない事に落胆して溜め息をつく。

コイツはあと何度これを繰り返せば気が済むのだろうか?
きっと、何度というはないのだろう。
どれ程短かろうと、たった一言であったとしても奴からの連絡が来る事を彼女は望んでいる。期待しているのだ。

お前の事を放ったらかしにするような男など、さっさと見切りをつければいいものを――そう思わずにはいられない。

それにしたって話しかけているのだから、此方に顔ぐらい向けたらどうなんだ。

なまえのお座なりな態度に臍を曲げ、キャスターを滑らせて彼女の傍まで移動する。

「手伝うか?」
「ううん、大丈夫だよ。ありがとう」

傍まで寄ると、流石にパソコンと睨めっこしていた顔を此方へ向けた。
視線が交わり、ようやく目と目が合った事で気が済んだ俺も変な意地を張っている。
入らない連絡を待つ彼女も、ムキになって此方に意識を向かせようとする俺も、詰まるところ傍から見れば滑稽に映るのだろう。

「……(そりゃ、大丈夫って顔じゃねぇなァ)」

机に肘をついて、溜め息をついた。

力なく笑うなまえを見ていると、不意に胡蝶の言葉を思い出す。
胡蝶と言ってもこの場合は姉のカナエの方であるが……。
近頃のなまえは元気が無いようだ、と心配していた。
『なまえちゃん彼氏と上手くいっていないみたいなの。この間、街で知らない女の人と腕を組んで歩いてる所を見ちゃったらしくて……随分ショックを受けてたのよね』と。

此方から言わせれば、ああいうタイプの男はどれだけ改心しようと、もうしないと誓わせようとも、そんなのは口先だけで又候同じことを繰り返す。
どうして理解出来ないのだろうと一周して腹立たしくなってくるが、どれだけ指摘したところで本人がその言葉に耳を傾けない以上はどうする事も出来ないのだ。

恋は盲目なんてよく言ったものだ。
そんな事だから、“周りが見えていない”のだろう。
――何も気付かないままで。

「遠慮すんな。もう外暗ぇし、ついでに送ってく。残ってる仕事あるなら寄越せェ」
「……ええっと、その、本当に大丈夫だから」

気まずそうに視線を逸らす仕草を目の当たりにして、全てを理解した。
分かりたくはなかったし、彼女の心理を心底理解は出来なかったが、ただそういう事なのだろうと、この場の状況を理解したという意味で腑に落ちた。

コイツは急ぎの仕事なんざ残しちゃいない。
先程から何度も何度も確認しているスマホに、いつ入るとも知れない連絡を待つ為に時間を潰しているのだ。

ろくでもない男がそんなにいいのか?
心を擦り減らしてまで連絡を待つ程の価値が、その男にはあるとでも言うのだろうか?

腹の底から、ふつりと感情が湧く。
そんなものは、いつまで経っても彼女の目に映らない事への当て付けだと指摘されればそれまでだが、どうしても合点がいかない。

なまえは、相手に対し一途で愛情深いが、今は却って献身的な姿が痛々しかった。
その美しく純粋な愛情を向ける相手を間違っている。

「……さっさとやめちまえ。そんな男」
「ん? 何か言った?」

投げやりに呟いた言葉は宙を掻く。
キーボードの打鍵音に紛れて、彼女の元まで届かない。

彼女の首元で光るネックレスが存在を主張し、俺を嘲笑っているようでいて、堪らず眉を潜めた。

――嗚呼、気に入らねぇなァ。

思考するよりも先に身体が動いた。
感情の赴くままとは、まさにこの事を指すのだろう。

無意識に彼女の首元へと手が伸びる。
さながら首輪のように彼女を縛る忌々しいネックレスに指先を引っ掛けると、なまえは促されるまま此方へ身を乗り出した。

ピンと張った細いチェーンは、少しでも力を込めると千切れてしまいそうだった。

「っ! ちょ、何す――」
「未練たらしくそんなもん付けてっから、いつまで経っても忘れらんねぇんだろうが」

核心を突かれ、俺を捉えた瞳がぐらりと揺れ動く。

「ち、違うよ……」
「違わねぇだろ」

それでもまだ否定したがるのは、奴への愛情故……なのだろうか?
愛情というより、未練という何処にもやりようのない感情に雁字搦めに縛られているせいなのかもしれない。
本当は彼女自身も分かっている筈だ。これ以上思い続けたところで苦しくなる一方だという事くらい。

「不死川くん、指を離し、て――」

それでも尚、俺を遠ざけようとするなまえに、言葉を被せた。

「俺ならお前にそんな顔はさせねェ。……声が聞きたきゃいつだって連絡する。顔が見たけりゃ直ぐにでも会いに行ってやる」
「え?」

随分と恥ずかしい事を口にした自覚はある。
けれど、もう引く事は出来なかった。
これ以上、なまえを他の男に触れさせる気になど更々なれなかったのだ。

今まで、よく我慢したもんだよなァ。
頭の片隅でそんな事をぼんやりと思いながら、顔を寄せる。
鼻先が擦れて、少しでも動けば互いの唇が触れ合いそうだった。

「不死川く、ん……あの、」
「俺にしとけ。言っとくが、もう待つ気はねェ」

突き飛ばすでも、頬を張り飛ばすでも好きにしろと、猶予は十分にくれてやった。
ご丁寧に隙を与えてやったにも関わらず、そのどちらも彼女はしなかったのだから、根刮ぎ奪ったって構わないのだろう。

真っ赤になってキツく目を閉じるなまえの顔が視界一杯に広がっていて、思わず毒気を抜かれてしまった。
先程までの煮えそうな嫉妬心も、焼けるような焦燥感も、潮が引くように静まる。
残されたのは、ただ愛おしいと思う感情だけ。

おずおずと伸ばされ首に回る細腕に、双眸を柔和に細めると、直に柔らかな感触が唇に広がった。

刹那、プツンとチェーンの切れる音がする。
その様は、まるで彼女を縛っていた感情ごと千切れたかのようでいて、それは音もなく静かに首から滑り落ちた。


20231001



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