酒は飲んでも飲まれるな。
この言葉を私は今まで幾度と無く胸に刻んだ筈なのに、しかし、それは毎回刻んだ“つもり”で終わるので、実際何の意味もない。
そして今日も今日とて私と実弥さんの間では毎度お馴染みとなった言葉を交わすのだ。

「実弥さん、その節は多大なるご迷惑をお掛け致しまして……次回こそは気を付けますので、平にご容赦下さいませ」
「毎回同じ事言ってるけどなァ」
「い、いかにも……しかし、次こそは!」
「期待薄だなァ」
「ですよね……ははは」

「んで、」と、実弥さんはこの話はここまでだとでも言うように仕切り直す。
横並びでありながら此方には一瞥もくれず、ただただ正面を向いて歩を進める。

「今日はその“お世話係”っつーのは休みなのかァ?」
「うん。無一郎は三日前くらいから任務に出てるから、お世話係の仕事もしばらくはお休み」
「そうかい」

一呼吸置いて、白い羽織から覗く傷だらけの腕が此方へ伸びたかと思うと、節くれ立った手に髪をグシャグシャと掻き混ぜられた。
そして「俺に何か聞きたい事があんだろォ?」と、私が話を切り出しやすいように促してくれた。

なんて出来た人なのだろう。
その無駄に近寄り難い見てくれと雰囲気さえ何とかなれば、皆が彼の優しさに、出来た人間性に惹かれると思う。
けれど、恐れ多くも私なんぞが実弥さんに進言したところで、そんなものは何の意味も成さず、どころか本人は歯牙にもかけないだろう。
かけるどころか突っぱねそうだ。

「あの、実弥さん……無一郎に何か言った?」
「何かって何だ? 掻い摘んで話せ」
「私を送ってくれた日、私を玩具扱いだとか何だとか……」
「……あァ、言ったかもしれねェな」

な ん と !

実弥さんは拍子抜けする程にあっさりとその事実を認めた。

あの夜、無一郎の様子がいつもに増して変だったのは、やはり私が泥酔している間に二人の間で一悶着あったらしい。
お陰でとんでもない目に遭ってしまった。

それにしたって、一体どんな会話をすれば私が無一郎の玩具なんて結論に着地するのだろう?

ぐぬぬ、と唸りながら考えを巡らせていた時だった。
実弥さんがまた突拍子のない事を口にしたのは。

「お前、俺の継子になるかァ?」
「うん、そうだね。……へ!? あ、え!? いいえ!」
「どっちだテメェ。はいっつったり、いいえっつったり」
「えっと、驚いて……何で急にそんな話になるのかと思ったから。……でも、それは無理だよ実弥さん。だって、私は無一郎のお世話係だもん」

私の意思とは関係なく、預かり知らぬ所で勝手に決められていた“お世話係”だったけれど、お館様の許可も出ている以上は、辞めるだなんて私の一存でどうこう出来る問題ではない。
それに第一、無一郎がそれを許す筈がない。

「無理とかじゃねェよ。俺は、お前がどうしたいのか聞いてる。世話係は継子じゃねェだろ? 実際、俺は継子を候補を探してるからなァ」
「そう、なの? 珍しいね。継子なんて要らないって言ってたのに」
「まァ、戦力の底上げが必要だからな。それに関して言やぁ、お前は都合がいいんだよ。俺にとっちゃあなァ」
「成る程……」

実弥さんの言い分はよく分かった。
鬼との戦闘が激化する中、隊士を育てるのは急務だった。少しでも戦力を、実力ある質のいい隊士を増やしてこそ、鬼とも互角に渡り合って行ける。

「それに、少し離れてみるべきなんじゃねぇのか。お前も」
「何から?」
「時透」
「!」
「少なくとも、今のお前は見てらんねぇなァ。“アイツ”も生きてたらそう思うんじゃねぇのか……?」

今、このタイミングでその話題を引っ張り出すのは狡いと思う。
生きていたら。そう、生きていたらの話だ。一時でも私の感情を全て攫ってしまった、今は亡き思い人は、現在の私を目の当たりにしたらどう感じるのだろうか……。

「返事は今じゃなくていい。考えとけ」
「……うん」

この事は、無一郎には話せない。
私と実弥さんの間だけで留めておくに限る。 

正直、この提案はこれ以上無い程に魅力的なものだった。
実弥さんの継子――私が、無一郎から逃れるための、最終手段。

***

無一郎が屋敷を留守にしている間、もしも私が先に任務を終えて戻った時は彼に文を書くようにしている。
だから、今回も私が先に帰還したので鎹鴉へ手紙を託した。
主人不在の霞柱邸はとても静かだ。無一郎は今日も帰って来なかった。
夜も大分と更けて、育ての師匠に現状報告の文も認め終わった事だし、そろそろ眠ろうと筆を置いた直後の事だった。

背後から被さるように影が差して、直後――ボタタ……、と折り畳んだ文の上に鮮血が滴り落ちる。

「うわああっ!?」
「……ただいま。なまえ」
「え、え!? 無一、ろ――っ、」

振り返る間も与えられず、あっという間に背後から抱き竦められる。
寝間着にも彼の腕から滴る鮮血が滲んだ。

「よかった。まだ起きてた」
「お、起きてるけど……そうじゃなくて! その怪我はどうしたの!?」
「大した事ないよ。鬼の攻撃がちょっと掠っただけ」

大した事がなくて、いつまでも血が滴るものか。
「見せて」と、半ば強引に彼のダボついた隊服をたくし上げると、左腕の肘から手首辺りにかけて縦に切創が見られた。
縫合は辛うじてしなくても大丈夫そうだが、傷が深い事に変わりはない。
間違っても“擦り傷”ではなかったし、このまま放置していいものでも決してなかった。
このまま放っておけば細菌が入って膿んでしまう。

私は救急箱に入っていた消毒薬とガーゼ、包帯で彼の腕の傷を手当てする。

「ありがとう、なまえ。手際がいいんだね」
「私、よく怪我をするから。それよりも無一郎、今度から怪我をしたら蝶屋敷で手当てをしてもらうか、藤の家で医者に診てもらわないと駄目だよ?」
「時間が惜しかったから」
「それでも、ちゃんと手当てだけは――」
「なまえに会いたかったんだ。どうしても」

全てを言い終わる前に被せられた彼の言葉は、どこか急いているようだった。

「明日になったら、また任務で出て行ってしまうかもしれないし、入れ違いになりたくなくて」
「無一郎……」

救急箱を手に立ち上がると、不意に彼の手が伸びて私の手首を掴み、引き止める。
此方を見上げる瞳が、言葉に違わず私を求めているようだった。

「ねぇ、なまえ……お帰りって言って」
「!」

その言葉に、そのたった一言に、私は堪らなくなる。

疲労困憊になって帰還した無一郎を労うように、伸ばした腕でそっと包み込み、背中を摩る。
柱だからと言って、才が秀でているからと言って、彼はまだ十四歳。
その齢と未発達の背中で多くの物を背負いすぎている。
そんな無一郎が、ひと目会いたいその一心で戻ってきた。
此処に。私の元に。

それを目の当たりにして、抱き締めずにはいられなかった。

「お帰り。無一郎が戻って来るの、待ってたよ」
「うん。……ただいま」

よしよし、と背を撫でていた手で今度は頭を撫でてやると、無一郎は瞳を細め、傷めていない方の腕で私の背に腕を回した。


実弥さんは離れるべきだと言った。
でも、いざ無一郎を前にすると離れる決心がつかない。
だって、この子を支えたいと言う気持ちはお世話係という義務的な感情だけでは、きっと無いと思うから。


20200512(20240525加筆修正)


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