「うん。これでよし」

満足のいく味付けに頷いて、火を止める。
鍋の中身はたっぷりの野菜が入ったスープ。これなら消化に良いし、数日固形物を口にしていないであろう彼の胃袋にも負担は少ないはずだ。

本当はもっとスタミナの付く、所謂ガッツリ系の料理とやらを振る舞いたいところであるが、如何せん数日間に渡って錠剤だのゼリーだのコーヒーだのと不健康極まりない食事を繰り返していた彼の胃袋には、栄養摂取どころか負担でしかないだろう。
そんなものが突然弱った胃袋に雪崩れ込めば、却って体調を崩しかねない。

何があったのかなんて、改めて言葉にせずとも想像通り――彼にとっては普段通りの生活を送っていただけの話だ。
彼にとっての日常は、私にとっての非日常であるけれど。
研究員時代の没頭癖が又候繰り返されただけ。
つまりは、睡眠時間を削り、食事も疎かに論文を読み耽り、学会で発表された研究結果に興味を惹かれ、のめり込み、堕落し、不健康極まり無い爛れた生活を送っていた所を、運悪く私に見つかってしまったと言うわけだ。
考えようによっては、身体の限界を迎える前に気付けたのだから“運良く“だったかもしれないが……。

アカデミーで教鞭を取っているジニア先生が本業を疎かにする事はないので、その結果、プライベートを余す事なく注ぎ込んだ末路がこの有様なのだった。

きちんと睡眠はとっているのかと問えば、まだ二徹目だから大丈夫だと答えるし、ならば、食事はどうしているのかと問えば、必要最低限の栄養はサプリメントやゼリーで事足りるとの事だった。

二徹の時点で全然大丈夫ではないし、そもそも食事がサプリメントである意味がよく分からない。
そんなものは世間一般、食事とは呼ばないのだ。
以前、糖分とエネルギー摂取の効率化と称して角砂糖をそのまま口に放り込んでボリボリと噛み砕いていた様を思い出して、居ても立ってもいられなくなった私は、彼の住うマンションへと押しかけたと言うわけだった。

突然押しかけてしまった事は、些か強引であったかもしれないと思いつつ、しかし、ここは心を鬼にしなければならない。
放っておけば――彼を自由にさせ続けていれば、いずれ何かしらの皺寄せがくる。
校長先生にもジニア先生の事を宜しく頼まれたばかりであるし、最早これは私の使命だと割り切ろう。
ただの恋人関係である筈なのに、使命感に駆られる関係性とは一体……。
それを考え始めると話が着地するまでにうんと時間がかかりそうなので、考えない事にした。

しかし、それにしたって――

「ちょっと遅いな……」

二徹目の彼を風呂場に追いやり、その間に食事を作っておいて、風呂から上がったら一緒に食事をする。
ここまでが私の立てた予定であったのだけれど、肝心なジニア先生が待てど暮らせど風呂から出てこない。
確かに“ごゆっくり”と言いはしたが、それにしたって遅すぎる。
小一時間は経過しているし、普段はもっと早く上がって来るので、これには違和感を覚えずにいられない。

心配になって脱衣所へ向かい、一呼吸置いてから少しだけドアを開ける。
万が一、脱衣所で着替えをしていた場合を考慮したのだが、その当ては外れてしまった。と、いうことは、やはりまだ入浴中のようだ。
風呂場へ続くドアはすりガラスになっているので、脱衣所から中の様子を窺い知ることは不可能だが、ここでせめて水音の一つでもしていれば、溜まった疲れを癒す為にゆっくり入浴しているだけなのだと安心できる。
しかし、それすら無い。

「先生?」

水音は疎か、それ以外の音という音が全くせず、静まり返っている。
入浴中であるのに、これはどう考えたっておかしい。違和感しかない。
一抹の不安を払拭させる為に脱衣所のドアを開けた事が、却って不安を増幅させる事態になろうとは。

風呂場のドアの前で、もう一度名前を呼ぶ。
先程の呼び掛けは、ただ聞こえなかっただけだと思いたい。
そんな淡い期待を胸に「ジニア先生?」と、声を掛けてみても、やはり返事はなく水音も物音もしない。

いよいよ我慢ならなくなって、ドアに手を掛ける。
突然ドアを開けると驚くかもしれないし、それ以前に風呂を覗くなんて端ない事をしてしまうが、それでも、すっかり不安に支配されてしまった私はその衝動を抑えられなかった。

「失礼しますっ! 先生、あの――っ、うわあああああ!」

ドアを開けた先の、その衝撃的で絶望的な絵面と言ったらない。
顔の半分が浴槽に沈んだジニア先生が、そこには居たのだ。
いくら声を掛けたって返事が来ることも、水音も物音もするわけが無かった。だって、先生は沈んでいるんだもの。

「先生! 先生ー!! お風呂で寝ちゃ駄目だってあれ程言ったじゃないですか!?」

嫌な予感は的中してしまった。
以前にも一度、彼は入浴中にうたた寝をして死にかけた前科があることを忘れたわけでは無かったが、それにしたってこう何度も沈みかけるなんて思わない。

脇の下に腕を通して、浴槽に沈んだ上半身を慌てて引き上げる。
脱力した男性の上半身を引き上げる事は容易でないが、人間死に物狂いになれば大概なんでも出来るものだ。
今この瞬間、私はそれを証明してみせたのだから。

ザバッ!と浴槽の湯ごと彼を引き上げて、容赦なくその頬を引っ叩く。
何度も繰り返し叩く様は、ポケモン顔負けの往復ビンタだった。
勿論、理由なく彼を痛めつけているわけでは決してなく、刺激を与えて手放した意識を浮上させる為の至って健全な処置である。

「い、いい生きてますか!? 目を開けて下さい!」
「んー……なまえさ、ん? ……いたたた、痛いです」
「! い、生きてた……良かった!」
「え? あ……もしかして、ぼくまた寝ちゃってましたかあ?」

寝ちゃってましたかあ?ではない。
意識を取り戻すまで本当に生きた心地がしなかったこちらの身にもなって欲しい。

のぼせてしまったからか、はたまた私が何度も叩いたせいか――おそらく後者だろうが、ジニア先生は赤くなった頬のまま、いつものように間延びした声で言って、へらりと表情を緩める。
「ご迷惑お掛けしましたあ」なんて、言っている場合ではない。もう少し気付くのが遅れていたら、最悪の事態になっていたのだから。
反省を促そうとした時だった。冷静さを取り戻した事で、私は漸く自分が置かれている状況を理解する。
ここは何処で、彼が何をしている最中であったのか――。

「――っ!」

眼前の彼は眼鏡を掛けておらず、いつも捲れ上がっている髪も降りて、そして何より裸だった。そう、全裸。
溺れかけた先生を助ける事に必死であったから何とも思わなかったが、私は今、とんでもない場所に立ち入ってしまっている。

「なまえさん?」
「し、失礼しました! ごめんなさい! お邪魔しまし、た――ひっ!?」

慌てて背を向け一歩踏み出した時、あろうことか、私は床に転がっていた石鹸を踏みつけてしまう。

嗚呼、何でこんな所に石鹸が。

そもそも何故、石鹸。ジニア先生はボディソープ派ではなく、石鹸派だったのだろうか?
だが、今はそんな事はどうだっていい。
濡れた床と石鹸が、どれだけ危険な組み合わせであるのかなんて考えるまでもない。それを踏みつけた私の末路すらも。
つるりと、漫画やアニメさながらのように気持ちがいいほどに滑って、石鹸が宙を舞う。
一瞬の浮遊感と、反転する視界。
そして、直に襲い来るであろう激痛に覚悟して、ぎゅうっと目を閉じる。

けれど、いつまで経っても痛みが襲って来る事はない。
代わりにポツリと一雫、水滴が頬を打って滑り落ちる。
恐る恐る目を開けると、反転した視界一杯にジニア先生の顔が逆さまに映り込んでいた。

どうやら頭を打ち付ける直前、咄嗟に受け止めてくれたようだ。

「危なかったあ……お怪我はないですかあ?」
「あ……は、はい」
「良かったあ」

背後から覆い被さるように覗き込まれていて、その距離感に息を呑む。

いつもの見知った容姿とは異なっているせいで、胸が高鳴って仕方ない。
眼鏡が無いということは、そのガラス細工のように透き通る美しい瞳が直接私を捉えている。
下がった髪の毛先から滴る雫も手伝って男性としての魅力というか、漏れ出す色気が普段の彼の比ではない。

視線が釘付けになる。
目を逸らせない――囚われる。

「なまえさん?」
「っ! う、あ……ええっと、その、ありがとう御座います! もう大丈夫ですから!」
「わわ、急に暴れたら危ないですよお……!」

名前を呼ばれて我に返った途端、一気に羞恥心が込み上げてくる。
見惚れてしまって、一瞬、このままどうにかされたって構わないと感じてしまったのだ。
私は……なんて端ない事を考えてしまったのだろう。

もうこの際、何だって構わないので一刻も早くここから出たかった。
意識すればするほどに、視線も、触れられた手の感触も――全てが恥ずかしく耐え難い。

暴れたつもりはこれっぽっちも無かったのだが、しかし、彼の呼び掛けも虚しく私は再びバランスを崩してしまう。
誤算と言えば、石鹸を踏んだ足の裏にまだそのぬめりが残っていた事だろう。それが運の尽きだったのだ。
一度目よりも大きくふらついた直後、二人分の声と盛大に飛び散った水音が風呂場に反響する。

疲労困憊だった彼の肉体は、咄嗟に私の全体重を受け止めきれなかったようだ。
二人仲良く浴槽の中へと逆戻り。
私に至っては着衣入浴という有様だ。

「いたたた……ジニア先生、大丈夫ですか? ごめんなさい」
「大丈夫ですよお。なまえさんは平気ですかあ? お怪我は?」
「はい、なんとか…… ――っ!?」

なんとか大丈夫。言いかけたところで、言葉は喉の奥へと引っ込んだ。
全然、全くもって大丈夫ではない。怪我の観点から言えば大事ないが、事の有様で言えば最悪の事態だった。
水浸しになってしまったブラウスは衣服の役目を果たしておらず、肌に張り付き、透けてしまって、剰え下着がくっきりと浮き上がってしまっている。

「あー……濡れちゃいましたねえ。そうだ、風邪をひいたら困りますし、このまま一緒に入ってしましましょうかあ」
「いいえ! 大丈夫です! 私、幼い頃から身体だけは丈夫で滅多に風邪なんて引かないので、お構いなく……」
「まあまあ、遠慮せずに。はい、バンザーイ」
「バンザーイ……ではなくて!」

危ない、危ない。
柔和な笑みと、のんびりとした口調を前にすると、つい流されてしまいそうになる。
そのまま流されてしまえばいいのに、なんて言いたげな眼差しに屈してなるものか。

「うーん……ぼく、また寝ちゃうかもしれないですし?」
「もうすっかり目は覚めてますよね?」
「えへへ、バレちゃいましたあ?」
「えへへじゃないです!……て、ちょっと待っ、ボタンを外さないでくださ――」

不意に、唇へ彼の指が押し当てられた。
それは、これ以上の反論は認めないという合図のように感じられ、どんなに拒もうとも腰に回った腕が解かれる事もない。
こうなってしまえば、もう私に出来る事はない。

何が、“また寝てしまうかも”だ。
劣情の滲んだ瞳で私を捉えているくせに……そんな目をした人間がうたた寝なんてするわけがない。

「……このまま、ぼくに流されてくれますよね?」
「っ、」

唇に触れていた指が顎を伝って、首筋を撫で降ろす。
彼の指が肌を滑る度に、触れられた箇所がジリジリと焼け付くように熱かった。

「今すぐ、なまえさんが欲しいなあ」
「……そんなの、狡いですよ」
「そうですねえ、ぼくも男ですから――」

始めから逃す気なんて更々ないと、満足気に細められた双眸が語っているようだった。

だからついさっき、どうされてもいいと思ったんじゃないか。
彼の言葉が眼差しが――一挙手一投足が、私を堪らなくさせる唯一で、全てであるのだ。


20230310


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