「うん? 何やの、これ」
「見ての通り、同居生活を始めるにあたってのルールを記した物です。ガイドラインとでも思ってもらえたら結構」

腕を組み、フン!と不機嫌に鼻を鳴らしてそっぽを向く今の私は、きっと世界で一番可愛くない。

「へぇー……あ、でも婚約者やから、同居やなくて同棲やん? 間違ってるで」
「そんなのどっちだっていいんだよ、今は!」

決して、どっちでも良くはないが……。

つい、いつもの癖で研究に没頭した末、エネルギー切れでぶっ倒れてしまった私は最悪な事にその現場を婚約者(偽装)であるチリに見つかってしまったのが先週の話。
今思えばその瞬間に私の人生は詰んでしまったのだ。

そして、その日のうちに同居の話が持ち上がったが最後、彼女は決して冗談では済ませてくれず、頼んでもいないのにその辣腕を存分に振るって、あれよあれよと引っ越しの手配を済ませてしまった。
思い立ったが吉日。鉄は熱いうちに打て。
そのことわざ宜しく高速で爆速で目にも止まらぬ速さで私達の同居生活は実現し、幕を開けてしまったのだ。

さらば、私のユートピア。

引っ越し先はチリの住うマンションで、偶然にも一つ使っていない部屋があるから(そんな偶然があってたまるか)ちょうどいいとの事だった。


――そして、冒頭。

テーブルを挟んだ向かいに座るチリが私に差し出した部屋の合鍵と引き換えに、私は今日の為に作成した数十ページに及ぶ同居生活を送るにあたってのルールと言うかガイドラインを彼女に突きつけたのだ。

「うわ、分厚……これ全部決め事なん?」
「当然。今まで他人同士でそれぞれの生活スタイルが確立している中、共同生活を始めるのだから、それなりのルールを予め設けておく事は今後のトラブルを回避する為にも役立つし、適切だと思う。それに、これ以上間違いが起こっても困るから」

素っ気なく言って、淹れたてのコーヒーに口を付ける。

先日の事を私はまだ許していないのだからと、このままなあなあ主義で事が進むのは断固拒否だと態度で示さなければ。
境界線は守るために引かれているのだ。それを許可なく越える事は許されない。これ以上、土足で荒らされてなるものか。
謂わば、それは私とチリをしかと区切る心の境界線。

「ふぅん。この間のチューとか?」
「ブッフォ!?」
「あーあ、何してるん……ティッシュ、ティッシュ」
「ゲホッ、ゴホッ! 今の……わ、わざとでしょ!?」

「さぁ? 何の事やろ」と、とぼけて見せるチリはニタリと意地悪な笑みを浮かべて此方を見る。間違いなく確信犯だった。

「ともあれ、ちゃんと読んでね」

吹き出したコーヒーを拭きながらそれを読むよう促すと、チリは途端に酷く嫌そうな表情を浮かべる。

「えー……今?」
「今。この場で。読んだらサインしてね」
「サインまでせなあかんの? ――って、なまえはもう書いてるやん」
「何事も初めが肝心だから」

それは私も例外ではない。
作成して、何度も繰り返し目を通し、推敲して納得のいくガイドラインが出来たと自負している。

さあ、読んで最後のページにサインを。
ボールペンも添えて、今一度ガイドライン兼ルールブックなる物を彼女に差し出す。

チリは心底面倒臭そうな顔をして、不承不承それを手元に引き寄せた。
そして、一ページ捲ったかと思うと……嗚呼、なんと言う事だ――。
チリはろくに中身を確認することもなくただペラペラと、雑誌を流し見するかのようにパラパラと捲っている。
その態度と言ったらふてぶてしい事この上なく、頬杖を突きながら口をへの字に曲げて瞥見する。

「ふん、ふんふん。はい、読んだー」
「いや、読んで無いよね!? 全っ然、全く、これっぽちも読んでいないよね!?」
「読んだって。あれやろ? 風呂は覗くなーとか、冷蔵庫の中のプリン勝手に食べるなーとか、部屋に入る時は必ずノックしろー的な奴やろ?」
「ノックしか合ってない!」
「お! 合ってたやん。やりぃ」
「チリ……!」

何がそんなに愉快であるのか、チリは手を叩きながらケタケタと笑う。
その笑顔は底抜けに明るく、無邪気だった。
無邪気とは邪な気が無いと書くけれど、その言葉とは裏腹に先程から彼女の発言は不誠実で、邪でしか無かった。

「んー……」

チリは、手にしたボールペンを弄ぶようにクルクルと回転させたかと思うと、やがて思い立ったように唐突に書面に書き加え始める。
黒、青、赤の三色が一体となったそのボールペンの赤色を押し出して、何やらスラスラと書き始める。
私が推敲を重ね、抜け目なしと判断したそのガイドラインに赤を入れようと言うのだろうか?

「ちょ、ちょっと! ああ……! 一体何を!?」
「一緒に住むんやろ? せやったら、どちらか一方が勝手に決めたルールに従うんは可笑しいやん? そんなんフェアちゃうわ」
「……う、まぁ……それは一理あるかもしれないけど」
「せやろ? けどまぁ、安心してや。チリちゃんはなまえみたいに面倒臭く無いし、神経質とちゃうから。大体のことは我慢出来るで? エエ子やろ?」
「……」

彼女は、さりげなく日常会話に不平不満を織り交ぜて、遠回しに相手を貶すタイプなのかもしれない。
少なくとも、先程の言葉の中に“面倒臭い奴”と“無神経”の認識が受け取れた。
そして更に自分は聞き分けの良い人間であると主張しながらも、それは裏を返せば私を“我慢の出来ない奴”と揶揄する高等技術まで織り交ぜてくるとは……。なかなかやるじゃないか。

だがまあ、このまま同居生活をしていく中で面倒臭い奴だと、耐え難い奴だとの認識を得る事が出来れば、結果的にこの関係は破綻し、解消される可能性が無きにしも非ず……。
そうだ。私はこれからの生活で、そう仕向ければ良いのだ。

鼻歌混じりに書面に赤を入れるチリを眼前に捉えながら、微笑む。
今に見ていろと、水面下で計略を巡らせる私は、やっぱり、彼女の言う通り面倒臭い奴この上無かった。実に小賢しい。
笑中に刀あり――よく漫画に出てくる、けれど最後には全てが覆されてしまう残念な立ち位置のキャラクターの模範のような私がそこには居た。

「よし! 出来た。ほな最後のページにサインすればええんやな?」
「うん。あ、ちょっと待った。何を書き足したの?」

チリの元から同居生活におけるガイドラインを回収する。
まず、表紙の同居生活に赤の二重線が引かれていて、ご丁寧に“同棲生活”と書き直してあった。
だから、同棲じゃないし。同居だし。居候だし。

そもそも同棲とは結婚を視野に入れた恋人関係にある者同士が一つ屋根の下で共に生活を送ることであって、偽装である私達には当てはまらない。

先日――すなわち同居生活を送る発端となったあの日であるが、確かに迷惑を掛けてしまったことは素直に謝罪する。
ポケモンリーグの四天王という忙しい立場である彼女の貴重な時間をあんな事に費やしてしまったことは本当に申し訳なかったと、完全に自分に非があったと認める。
けれども勝手にキスをされて、キスをしたから既成事実だの、これで名実共に彼女のモノだなんて、こんな理不尽がまかり通ってなるものか。

ウィンウィンだから了承した関係であるのに、その定義は愚か、むしろ今現在進行形で手枷足枷となっている。
そして何より、そのような考えに陥った彼女の思考というか思惑が全くもって理解出来ない。

恐る恐る表紙を捲り、中を確認する。

「……な! ちょっと、ここは訂正しちゃ駄目でしょう!? 納得できない!」

その項目とは、生活を送る上での触れ合いというか、戯れと言うか……まあ、端的に言えばキスやらハグらや更にその先の行為のことを事細かに記した項目だった。

《必要性を感じない、又は必要以上の過剰なスキンシップは禁止。ハグ、キス、性行為、またそれらに準ずる行為も不可。》

彼女はそこに堂々と加筆修正を加えていた。

《必要性を感じないかなぁって思っても、したかったらちょっとだけなら可。ハグ、キスはOK。性行為は応相談(ラッキースケベは含まれない)。それらに準ずる行為は……雰囲気で!》

応相談って……パートタイマーの募集要項では無いのだから。
雰囲気に流され、その場のテンションに身を任せる事程、愚かで愚鈍な行動・行為を他に知らない。

その他、色々と決め事を記しているが、言ってしまえば先日の事もあるので、実際その項目が一番肝要だったりもする。いや、一番大切だ。断言する。

その他にも所々直されている箇所があったが、もう、先程以上のインパクトが無かったので、放心状態の私はそれらを特に気に留める事も無く見逃してしまった。それだけの衝撃がそこにはあったのだ。

そして、気になった箇所と言えば、書き直しではなく、最後のページに書き加えてある言葉。
三行、項目が付け加えられている。

◎一日のうち朝昼晩どれか一回は一緒にご飯を食べる事。
◎喧嘩をしても、次の日に持ち越さない事。
◎辛い事があったら、一人で抱え込まず何でも打ち明ける事。

そして最後には、その真髄とも取れそうな言葉が記してあった。

《仲良く、楽しく、同棲生活を送る事!》

結局は、究極は、そう言う事なのだ。これに勝る言葉は他には無いような気がした。
そして、そこには――同居生活ガイドライン基、同棲生活ガイドライン改訂版の最後のページにはちゃっかりチリのサインが記されていた。

チリのサインと私のサイン。
うん?私のサイン?

それは即ち、そこに記されている項目に全面同意したという証になる。
私が同意したのは、改訂される前のガイドラインであって、断じてチリが加筆修正をした方のガイドラインではない。
まさか、先にサインをした事がこんな形で裏目に出てしまおうとは。
改訂されるだなんて思わなかったのだ。一生の不覚……!

本当に彼女はいつもいつも私の想像の斜め上を行く。

「ちょっと待ったー! あっ、コラ! 返してよ!」
「いやや。返して欲しかったら力ずくで取り返したらええやん?」

まるで追いかけっこでもするように、ガイドラインを片手にチリは部屋の中を駆ける。いや、子供じゃないのだから。
仮に追い付いたとして、決して私の手が届く事のない高さに、それは掲げられている。
私よりも背丈があり、手足の長さも比ではない彼女が高々とそれを頭上に掲げてしまったら、背が低く手足も短い私は踏み台でも無ければ到底奪い返す事はかなわない。

こうなれば身体能力で彼女に勝ろうなんて考えは速やかに破棄すべきだ。
次なる手は――心理作戦。言葉巧みに彼女の心情を揺さぶる。そして、僅かに生じた隙に付け込むのだ。

「大体、こんな事になっているって、お互いの両親は知らないんだよね? いいの?」
「ああ、それなら事前になまえのお母さんに連絡しといたで。なんやエラい乗り気で、赤飯炊く言うてたな」
「ええ!?」

母よ……一人娘の操が危うい状況に陥っているのに赤飯とはどういう状況だ!

「なまえ、良かったなぁ? 親孝行出来て」
「ぐう……」

心理作戦、あえなく失敗。
やはり彼女は今まで接してきた人間の中でも段違いの扱い辛さだった。
身体能力でも、心理戦でも敵わないのなら、最後はポケモン勝負――いや、彼女は四天王なのだから勝負を持ち掛けるまでもなく勝敗は見えていた。
と、いうかポケモン勝負こそ一番持ちかけてはいけない作戦なのだった。

結論、私はチリに何も敵わない。為む方無し。お手上げ降参。

為す術が無い私の元に、何処に放置したのか忘れてしまっていたスマホロトムがふよふよと宙を漂い、眼前までやって来る。
着信ではなく、スケジュール機能のアラームであるらしかった。

【リーグに赴く時間ロトー! 早く準備して出発するロト!】

「あ、そうだった。すっかり忘れてた……危ない危ない」

こんな時、どうしても外せない予定のある時は、スマホロトムのアラーム機能が本当に優秀で助かる。
ポケモンリーグのトップ兼アカデミーの理事長であるオモダカさんから呼び出しを受けていた事をうっかり失念していた。

本来、私がここパルデア地方のテーブルシティに拠点を設けたのは、それ相応の理由があるからだ。
そして、それを了承したのもメリットがあると感じたからで。
まあ、世界中を飛び回る事に魅力を感じる私が一ヶ所に留まる事は窮屈極まりないが、それを天秤に掛けても傾いた今回の人事を了承した理由は……また後日に。その内、追々。

「出かけるん?」
「うん、ポケモンリーグまで。オモダカさんに呼ばれてるから。チリは今日休みなんだよね?」
「おん。なら、帰ってきたら一緒に夕食食べよな?」
「えー……」

心底嫌そうな顔をする私に、チリは先程のガイドラインを指でトントンと態とらしく指し示して、ニッコリと貼り付けた様な笑みを浮かべる。

《一日のうち朝昼晩どれか一回は一緒にご飯を食べる事。》

「な?」
「うう……分かったよ、分かりました!」
「ほな、気を付けてな。って、ちょっと待ち」
「え、何?」

チリは何かに気が付いて、部屋に戻る。
かと思えば直ぐに戻ってきて、その手に握られているのは何だろうか?リップ?

「行き先はリーグかもしれへんけど、少しは身だしなみに気ぃ使いや? せっかく可愛い顔してるんやから」
「……はぁ!? な、ななっ、何言って――うぶっ」
「はいはい、もう黙る。……よし、ええよ」

リップティントを塗られてしまった。
一体どんな色味であるのか鏡で確認していないので不安でならないが、あくまで最低限の身だしなみと言う事らしい。

「別にこんなの必要ないのに。まあいいや。行ってきま、す……――っ」

不意打ちほど他に卑怯な手はないと思うのだ。
私もこの手を使って彼女から先程ガイドラインを取り返せば良かったのだなと思わざるを得なかった。
今更、遅いけれど。

今度こそ出発しようと思ったところで、顎を掬い上げられ、そのまま不意を突かれて唇を奪われた。
唇が離れた後も、余韻を残すリップ音がいつまでも耳に残って堪らなかった。

「んなっ……な、にして……!?」
「んー? そこになまえの唇があったから? アハハ、驚いとる。かーわいい」

いやいや、そこに山があったからみたいに言われても。

《必要性を感じないかなぁって思っても、したかったらちょっとだけなら可。ハグ、キスはOK。性行為は応相談(ラッキースケベは含まれない)。それらに準ずる行為は……雰囲気で!》

私はこの瞬間改めて――否、絶対にガイドラインを奪い返して、項目を修正してやろうと心に誓った。


20230219




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