テーブルシティの北東。
洞窟を抜けた先の、四方を岩壁で覆われた小高い丘にパルデア地方のポケモンリーグは位置している。
テーブルシティと一括りにしても、アカデミー、住居、様々な店が軒を連ねる賑やかな街並みとは打って変わって、それらしい建造物と言ったらリーグ施設とポケモンセンターの二つだけで、活気ある市街地とは隔絶された得も言われぬ荘厳さが漂っているようだった。
チャンピオンランクを目指す者の終着点である此処は、これくらい簡素である方が却って厳格さを演出できて良いのかもしれないが。

今回、私が此処を訪れたのは勿論チャンピオンランクを目指しているからではない。仕事だからだ。
先日、生徒と混同したジニア先輩に頭を撫でられてしまい、思わず入学手続きを行おうとした事はあったが、それも未遂に終わった。
私がここの学生になった暁には、課題の宝探しは是非“ポケモン図鑑のコンプリート”にしようと思う。
そして、うんと先輩に頭を撫で回してもらうのだ。はい、決定!

そんな都合のいい妄想を脳内で満喫したところで、途端に現実にへと引き戻される。
此処が、ポケモンリーグの施設内である以上、私の天敵が潜んでいる。
“偽装婚約者”と書いて“てんてき”と読む。

腰が砕けるようなあのキスが、数日経った今でも尾を引いていた。
如何せんあの日以来、身体中を駆け巡った経験した事もない甘美な感覚に取り憑かれてしまって、今でも思い出すだけで腰が砕けそうになる。
たった一回限りであったのに。その一回で刻み込まれ、今日まで苛まれているのだから恐ろしい事この上無い。

研究やら調査で忙しいからと何かにつけて理由付けしてはチリとの接触を断ってもう直ぐ一週間。
同じ家に住んでいる以上、全く顔を合わせない事は難しいが、取り決めた筈の一日一回は食事を共にするというルールも今では意味をなしていなかった。
と言うのも、チリもチリで最近多忙のようで、昼間に睡眠を貪り夜のフィールドワークに勤しむ私と、早朝から残業続きで夜遅くまで勤務するチリのライフスタイルは見事なまでのすれ違い生活を実現させているのだ。

別にこれでいいと思う。願ったり叶ったりだった。
新婚夫婦ならばスピード離婚に発展しかねない危機的状況でも、偽装婚約者である私達には全く問題でない。
寧ろ、ありがたくもあった。
あんな事が起こった直後だった為、尚更だ。

とにかく私は、本来の目的(オモダカさんへ、祠の調査報告をまとめた書類を提出)を無事済ませたので、このままチリに出会う事なくさっさと退散したかったのだ。
先日のキスのお陰で、最近はよくチリの事を考えてしまう。
よく思考は実現化すると言うから、チリの事ばかり考えていれば危うくチリとバッタリなんてことも……。

「駄目駄目……考えない。大体、私が好きなのはジニア先輩なんだから。私が好きなのは先輩、先輩――」
「なまえが好きなのはチリちゃん、チリちゃん、チリちゃん」
「ち、違う違う! 私は先輩が好き――……うわぁあっ、出たあああ!」
「出たって何やねん。失礼やなぁ」

自分を宥める呪文のように言い聞かせている最中、茶々が入ったと思えば。
横向きに首を捻ってみれば、そこには肩口から覗くチリの端正な顔がある。
これは誰が何と言おうと絶叫案件だ。

いつの間に背後に立っていたのか、私より背丈のあるチリは屈めていた背を伸ばす。
すらっとした、いつもの立ち姿。
片方の手をポケットから取り出して、私の頭を撫でた。

私が頭を撫でて欲しかったのは、ジニア先輩なのだけれど。

「てか自分、そのまま帰ろうとしてたやろ? 此処にチリちゃんがおるって知ってんのに声も掛けんと帰ってまうやなんて冷たいなぁ」
「べっ……別に、そういうつもりは――うぐ」
「こーら。そやってまた直ぐ顔逸らす」

そういうつもりは“あった”。
あわよくば今夜も顔を合わせずに済むようにフールドワークに出てやろうと画策していた。
いっそ、そんなすれ違い生活がいつまでも永遠に続けばいいとすら思った――だなんて、さすがに言えなかったけれど。

気まずそうに目を伏せて顔を背けると、直様チリの指が顎にかけられる。
背けた筈の顔は、彼女の手によって強引に、強制的に正面へと向けられてしまった。

「一週間ぶり? まあええわ……顔、よう見せて?」
「出来かねます!」
「ぶはっ! ちょ、何やねんその顔。なまえは相変わらずやなぁ」

久々に直射日光を浴びた気分。
ぎゅうっと、顔のパーツというパーツが中央に凝縮するかの如くきつく目を閉じ、口を固く噤んだ。

チリが私の渾身の顔芸に耐えきれず吹き出したところで、不意に廊下の角を折れた先からこちらに向かって来る複数の足音と話し声が聞こえる。
リーグ職員の方々だろうか?

一先ず、私はこれでやっとチリから解放されるのだ。

私達が偽装であっても婚約者である事を公にしていない現状では、必要以上の接触を人前で晒すにはあまりにリスクが大きいと思う。
特にチリにとってここは職場であるし、私と妙な噂が立ってしまったら体裁にも関わってくるのだろうし。

つまり、百害あって一利なし。

此処に至るまでに僅かコンマ数秒。
こういった言い訳がましく小賢しい思考だけは一丁前だった。
しかし、その安易な考えに浸り、安堵するには些か早かったらしい。

解放されるどころか――

「おいで」
「ちょ、チリ!?」

私がチリに声を掛けられた場所が“此処”でなければ、展開は変わっていたのかもしれない。
立ち止まった場所が“チリの執務室”の前でさえなければ。

悪戯っ子のような笑みを浮かべ、私の手を引くチリがあまりにも眩しく感じて、視界一杯キラキラと瞬く星々で埋め尽くされたような錯覚に陥る。
気が付いた時には執務室へと連れ込まれていた。
扉が閉まった直後、複数の足音と話し声が扉一枚隔てた先から聞こえてくる。
何も、良心に反する所謂“イケナイ事”とやらをしているわけでもないのに、何故こうも後ろめたくなるのだろう?
自分の意に反して、何故私の心臓はこうも煩いのか。

「逃げれると思った? ざーんねん……まだ逃したらんよ?」

腕を掴まれていたから逃げられなかっただけで、甘んじて受け入れた訳ではないのだと、そんな苦しい言い訳がまかり通るだろうか?
抵抗の隙も与えられず、そのまま壁に磔られてしまったから、この状況は断じて合意の上ではないのだと。
このシチュエーションに何度陥っても、私達の間では壁ドンではなく磔刑と認識される。と、私は思っている。

「……っ、耳元で! その無駄にいい声で囁くのは止めて頂きたい!」
「んー? 自分えらい美味しそうな匂いするな?」
「美味しそうな匂い? ああ、それは多分アマカジの…… ――うぎゃ!?」

此処に来る途中、野性のアマカジを見つけて少しの時間観察をしていたから、アマカジの汗から分泌された甘い香りが移ってしまったのかもしれないと状況説明をしようとした途端、首筋に違和感を覚える。
ガブリ。そんな擬音を伴うような行為だった。

チリに、首筋を齧られている。

甘噛みをされたと認識した途端に悲鳴を上げるが、直様ゾクゾクと粟立つような感覚が背筋から這い上がってきた。
こうなってしまえば、全身を甘美な刺激に支配され、主導権を握られ、チリを引き剥がす事は愚か抵抗らしい抵抗は何もできなくなる。
この感覚を知っていた。あの日、腰を砕かれた時に感じたものと同じそれであるから。

「んー、味はせんな」
「あ、当たり前でしょ!? アマカジの匂いが移っただけなんだから味なんてしないよ!」
「へぇ。アマカジってこんな美味しそうな匂いするんやな。ちょっと甘すぎる気もするけど」

チリは、態とらしく舌舐めずりをして、不思議そうに小首を傾げる。
素っ惚けるような仕草に、静かに憤りを覚えた。
どうして私から匂い通りの味がすると思ったのか甚だ理解に苦しむ。
考えなくても分かる。生身の人間からアマカジの味などするわけがない。

けれど、それに反論すれば、それこそチリのペースに乗せられてしまう。
同じ轍を踏む私では無いのだ。

「はぁ……チリも、そろそろ仕事に戻った方がいいんじゃない? 私もこの後予定があるから、もう帰らないと」
「そないいけずな事言わんと、久しぶりに顔合わせたんやからもうちょい此処におってや。な?」

チリは「今からちょうど昼休憩やし?」と、壁に掛けられた時計に目を移す。
彼女の視線を辿るように壁掛け時計を視界に捉えて、落胆した。
この瞬間、私はチリから逃げ出す手立てを全て失ってしまったのだから。

完全にリーグを訪れる時間帯を間違えてしまっていた。

とは言え、そもそも今日この場でチリに会う予定では無かったのだから、彼女と顔を合わせた時点で全ては破綻していたのかもしれない。
チリに捕まった時点で、何もかも――。

「それに、最近誰かさんのありがたーい講義のせいで、面接希望やら何やら理由付けてカジッチュ持ってくる子が増えててな?」
「へ?」
「そらぁもう……ごっつ迷惑被ってんのや!」
「へえ!?」
「面接ばっかり増えて時間取られるし、抱えとる仕事が全く終わらへん。おかげで連日残業続きで身体ボロボロやわ。とんだ営業妨害や!」

誰かさんの正体は、突き止めるまでもなく私の事だった。
先日の講義で私はカジッチュを取り上げた。その際に補足というか、ガラル地方には恋にまつわるおまじないとしてカジッチュが用いられていると確かに話したけれど。
まさか、そんな冗談のような話を学生達が信じて実行に移し、チリの業務に支障をきたす程の事態を引き起こすだなんて思わない。
それを言われてしまえば、どんな言い訳をしようと許される事はないのだろう。

「ははは、はは……モテモテだね。おめでとう」
「おめでたく無いわ! ……好かれたい子ぉからは、相変わらず何も無いけどなぁ?」
「……」

気まずそうに視線を外せば、チリは応接用のソファーに座って、空いたスペースを手でポンポンと叩いて私を促す。
“早く此処に座れ”そんな風に。

「……え、何?」
「ええから。早う座って」
「……何で?」
「業務妨害の埋め合わせ」
「……はい」

それを引き合いに出されたら、私に選択の余地などなかった。
不承不承、言われるがまま私はチリの傍へ腰を下ろす。
正直、嫌な予感しかしないので、首を齧られた次は一体何をさせられるのか内心穏やかで無い。
すると、チリは身体を反転させたかと思うと、そのまま徐に身体を横たえる。
寝っ転がり、当然のように私の膝へ頭を乗せたのだ。
そう、この体勢は所謂“膝枕”という代物だった。

「えー……ええっと?」
「ええから、そのまま頭撫でて」
「あ、頭……はい」

これは一体、何をさせられているのだろう?
しかし、私は彼女の指示に大人しく従う他無いのだった。
私の講義が原因で営業妨害を被ったと言われれば、私は彼女の意に従いその償いをせざるを得ないのだから。

「んふふ、気持ちー……これええなぁ。癒されるわ」
「……それは、何よりだけど」
「それに、婚約者って感じする」
「いや、だから――っ、」

偽装だからと、もう何度目になるのか分からないお決まりの台詞を口にしようとした瞬間、それは彼女の唇によって遮られる。
突然伸ばされたチリの腕が私の首に回って、下方向へと引き寄せられた。
それを迎えるように寄せられたチリの唇がそっと重なり、離れる。
触れるだけのキスでも、先日の記憶が鮮明に蘇って顔に熱が集まるのを感じた。

「あはは、なまえもカジッチュになってもうた。けどまあ、なまえやったら受け取ってもええかなぁ」
「んなっ、ななな何言ってんのっ!」

戯けながら、唇をなぞるチリの指先が酷く熱く感じた。

「三十分経ったら起こして?」
「うん」
「……なあ、夕食はなまえのカレーが食べたい」
「……分かったよ」

「この三十分間だけは、チリちゃんだけのなまえでおってな?」なんて、心地よさそうに表情を緩める彼女はよっぽど疲れていたのか、ウトウトとしながら微睡み、双眸を閉じる。
彼女の艶やかな深碧の髪は、見た目の通り絹糸のような触り心地だった。

その美しい髪を撫でる私は、むず痒いような何とも言えない不思議な感覚に支配されていて、けれども、妙なこの感覚に名前をつける勇気はまだ持てなかった。

向き合いたくなかっただけなのかもしれない。
向き合えば、間違いなく変わってしまうと本能で感じ取っているからなのだろう。
ただ、断言出来るのは確実に出会った頃よりもチリに対して心が動いている。
認めて、変化が起こる事が怖い。だから、そのまま気付かない振りをした。

叶うことがなければ終わることもない。
“片思い”というぬるま湯に、いつまでも浸っていられる私でいたかった。


20230429




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