此処、パルデア地方での今後の活動についてオモダカさんから話があると呼び出され、ポケモンリーグを訪れたのが今からおおよそ三十分前の事。
そして、私は今そのリーグ施設を背に、立っている。
所在無げに、立ち尽くしている。

つまりは、オモダカさんの“今後についての大切な話”とやらは――大切な話のわりには、ものの三十分で終わってしまって、けれども、用が済んだからと言ってこのままチリの待つマンションへ帰る気にもなれず、特にする事もないままに時間を潰せる適当な理由(言い訳)を考えている真っ最中と言うわけだ。

しかし、適当な理由は考えれば考える程、探せば探す程に思い付かないもので、ならばいっそ潔く諦めて帰宅するという選択も……いや、無い無い。それは無い。
それだけは、どうしても嫌だった。その選択肢は、私の中で端から存在しないのだから。

「うーん……どうしようかな……」
【ポケモン大量発生の情報が更新されたロトー!】

腕組みをしながら思い倦ねる私の元へ、それこそ狙ったかのようなタイミングで、スマホロトムが眼前に飛び出す。
そして、ポップアップされたパルデア地方のマップ上には、更新されたばかりのポケモン大量発生の情報が表示されていた。

「大量発生! 何処!? 何処で!?」

先程までの鬱々としていた気分は一瞬で掻き消え、欣喜雀躍し、喜び勇む。
ついでに、チリの事もこの一件ですっかり頭から抜け落ちて、己を苛む全ての事柄がこの瞬間をもって遥か彼方へ飛んで行った。

発生場所はここから程近いセルクルタウン付近の南2番エリア。対象のポケモンはミツハニー。
まだ昼を少し回ったくらいであるし、観察に充てる時間も十分確保出来る。

三度の飯よりフィールドワーク。そして、この好条件。何をこれ以上悩む必要があるのか。

アーマーガアをボールから出して、いそいそと背中によじ登る。

「アーマーガア、セルクルタウン付近の南2番エリアまで飛んでくれる?」

この飛行ルート上にデカヌチャンの生息地は無い為、アーマーガアの背に乗っての移動でも安全だろう。
ガラル地方での暮らしに慣れてしまったせいか、久しぶりに戻って来るとついパルデア地方におけるアーマーガアでの移動の危険性を失念してしまう。

ウインディの背に乗って、地を駆けるルートを選んでも良かったが、陸上よりも上空の遮るものが何もない直線状の最短ルートを行く方が遥かに早い。
アーマーガアは私の指示に「ガア!」と、ひと鳴きしたかと思うと、あっという間に地面から浮かび上がって目的地に指定したセルクルタウンに程近い南2番エリアへと向かって飛び立った。

この時、私にほんの少しの気遣いが出来ていれば――。
例えば、私の帰りを待つチリへ連絡を入れる一手間を惜しまなければ、後々面倒臭い事にはならなかったかもしれない。
とはいえ、現在進行形で起こってもいない事柄を危惧する余裕など今の私には無い。求めても無駄の一言に尽きる。
だから、起こるべくして起きたのだと思う他なかった。

如何せん、私はマップ上に表示された大量発生の情報以外眼中になかったのだから。

***

テーブルシティからセルクルタウンへと続く道を挟むようにして広がる畑の近くで、ミツハニーの大量発生は起こっているらしかった。
マップ機能を使えば発生地点は容易に発見でき、近くの茂みに身を潜めてミツハニーの生態観察に勤しんでいた。

通常、大量発生と聞けば、アカデミーの学生達が色違い欲しさに躍起になっていると聞くが、しかし、私の目的は色違いのミツハニーを捕獲する事ではない。
勿論、色違いの個体に興味が無い訳ではなく、寧ろ見たいと思うが、それよりも私はこの大量発生におけるミツハニーの雄と雌の出現確率と個体数の方が気になって仕方がないのだ。

ミツハニーのタマゴの孵化における性別の比率は雄が87.5%に対し、雌が12.5%との報告があるが、大量発生時ではその出現率は、さて、どうなるか……。

目視で確認する限りでは大量発生時でも雌より雄の方が多く見られるようだ。
だとすれば、大量発生でも野生の遭遇でも、そして孵化でも雄雌の比率は同じという結果だろうか?

「一度の大量発生で出現するポケモンの数はおおよそ100から120……すなわち――ん?」

茂みに身を潜めて観察に没頭すること暫く。突然、白衣の裾を何かに引っ張られた。
何事かと思い白衣の裾へ視線を滑らせると、そこにはいつの間にか自ら進んでボールから出てきたらしいタルップルが居て、白衣の裾を咥えている。

目は垂れて裏側へ隠れている為タルップルの表情は読み取れないが、白衣の裾を咥え、引っ張るその動作は何かを私に訴える時の仕草だった。
小首を傾げると同時に私の腹からは、ぐぅー……と、締まりのない音が響く。

腹を摩りながら思い返してみれば、今日は朝からまだ何も食べていなかった事に気が付く。
朝は基本的に腹が減らないのでコーヒーのみ(腹を満たすより、脳を起こす為にブラックコーヒーの一択)。
昼はオモダカさんと話した後、ミツハニーの大量発生に目が眩み、食事をすっ飛ばして脇目も振らず此処へ辿り着いたので食べ損ねた。
もっと言えば、朝のコーヒーすらチリが変な事を言うから吹き出してしまったので、実際、今の今まで何も口にしていないのだった。

もしかすると、タルップルはその光景をボールの中から眺めていたのかもしれない。
だから、そろそろ脳の糖分切れ+腹の虫が騒ぎ出す時間と想定して自ら進んでボールから出てきたとでも?
そうであるなら、私のポケモンは――タルップルは、滅茶苦茶お利口さんだ。

よだれを口の端に滲ませつつタルップルの背中を見つめると、“仕方のない主人だな”と言わんばかりに、背中をこちらへ突き出しす。私のタルップルは、滅茶苦茶お利口さんだった。

「ありがとう……! 私、やっぱりタルップルがいなきゃ生きていけない……!」

背中の皮を一枚、二枚と剥ぎ取って、口に放り込む。
甘くて、サクサクしていて、そこにほんのり林檎の酸味も加わった、アップルパイを思わせる味が口一杯に広がる。
空腹状態も手伝って、それはこの世の食べ物とは思えない程に美味しく至福な味だった。これを食べるために今まで生きてきたと言っても過言ではない程に、絶品だった。

普段は垂れて隠れている目を捲り上げて、自慢げな表情を浮かべるタルップルが可愛くて仕方ない。
その四十センチ程の体をぎゅうっと抱きしめる。
この子とは、この間まで生態研究目的で訪れていたガラル地方で出会った。
ガラル地方ではカジッチュにまつわる恋のジンクスがあるが、このタルップルも例に漏れずカジッチュ時代に色々とあり、縁があって私の元へとやってきた。
頭に被るようにカジッチュの名残のである林檎の部分には薄らと傷が入っているけれど、そんなもの、私は何も気にならない。
それも含めて私の大切なタルップルなのだから。

「ありがとう、タルップル」

さて、糖分も補給も済ませた事だし、ミツハニーの観察へ戻ろうと思った矢先――タルップルは白衣の裾を再び咥えた。
そして何かを訴えるように引っ張った。先程よりも強引に、グイグイと。

先程の訴えは“食事を摂れ”。そして今の訴えは――。

「……やっぱ、帰らなきゃ駄目……かな?」
「タルッ!」
「えー……あと少しだけ! ね?」
「タルッ、タル!」

あと少しですら駄目らしい。
私のあと少しが世間一般のあと少しとはかけ離れている事を、この子は知っている。
のめり込むと食事も睡眠も忘れて没頭した末、この間の様にぶっ倒れる末路を何度も目の当たりにしているから、目を剥いて訴えるその様子には妙に説得力があった。いい加減にしろと、叱られている気分。
とんだお目付け役がいたものだ。

夕方とまではいかずとも、直に夕方になりそうなくらいには太陽も真上から西側へ傾いている。

「いい加減帰らなきゃだよね……一緒に夕食を食べる約束しちゃったし」

ガイドラインというか、生活上のルールを定めるべきだと言い出した私自身が、同居初日から約束を破るわけにもいかず、渋々、嫌々、帰り支度をしてタルップルをボールへ戻す。
引き換えにアーマーガアを出して、行きとは比べ物にならない程、鈍重な動作で背中によじ登る。
行きとはあまりに正反対な鈍い動作だったせいか、アーマーガアは戸惑いながらも、より乗り込み易いように身を低くしてくれた。
手持ちポケモンに気を使わせてしまった。

「ありがと……テーブルシティの大門前まででいいよ。あと、ゆっくり飛んでくれたら嬉しいなぁ……」

少しでも、時間を掛けて家路に着きたい。
一体どれだけ帰りたくないのか……そんなもの、所詮は当事者の私にしか分からない。
家というものは本来、心身共に安まる場所である筈なのに。そうあるべき場所も、初日からこれではこの先が思いやられる。

所詮はセルクルタウンからテーブルシティの大門までの短い距離。
いくらゆっくり乗り込もうが、飛ぼうが、一瞬で辿り着いてしまう。
それこそ、徒歩で帰れば良かったと思ったが、何しろ至る所で野生のポケモンと出会うので、呆気なく誘惑に負けて夜が明けるまでマンションに帰れないかもしれない。
そう思うと、アーマーガアのひとっ飛びで丁度良かったのだ。

大門を潜って、溜め息を吐きながら家路に着くと、何やら前方から丸い物が転がって来る。
何だろうかと、足元にぶつかって止まったそれを拾い上げる。
モンスターボール……ではなく、ボール類を十個単位でまとめ買いすると付いてくる――

「プレミアボール?」
「すみませーん。拾ってくださって、ありがとう御座います」
「いいえ……って、ジニア先輩!」
「わあ、なまえさん。奇遇ですねえ」

その言葉通り、本当に奇遇だった。
ジニア先輩は日頃アカデミーで教鞭を取っているので、私がアカデミーに赴かない限り、基本的に彼と顔を合わせる事はない。
こうしてアカデミーの外で出会ったのも、実はこれが初めてだったりする。珍しい事もあるものだ。

「珍しいですね、先輩がアカデミーの外にいるなんて」
「いやあ、実は今日、休校日でして。個人的な買い物です」
「なるほど」

個人的な買い物がモンスターボール。なんとも先輩らしいなと思った。
また、先輩と研究員時代のように朝から晩まで沢山ポケモンの話をしたいなと思いつつ、しかし、それは今では少し贅沢な願いでもあって……寂しさを覚えながら彼の腕に抱えられたボールの山に、先程拾ったプレミアボールを乗せてあげた。

「そうだ、なまえさん。せっかく会えたんですから、少しお話しませんかあ?」

贅沢な願いだ。
それでも、そんな願いがこうも容易く叶ってしまってもいいのだろうか?

「し、します! したいです! 先輩とお話……あの、私、この間まで生態調査で訪れていたヨロイ島の話を聞いて欲しくって……!」
「ヨロイ島ですか? それは楽しみだなあ」

またしても、私は自ら進んで寄り道をしてしまって、その様子をボールの中のタルップルがどんな気持ちでこの会話を聞いていたのかは……“りんごさん”をかけられそうで恐ろしいので、考えないでおこうと思う。

それから、これが一番肝心で……。
生態調査を邪魔されたくないとの名目でスマホロトムに電源を切るよう指示した事を、ジニア先輩からのお誘いで完全に脳内お花畑状態の私は、それすらも容易に失念してしまっていたのだ。

***

招かれた先は、ジニア先輩の家――では無く、勿論お洒落なカフェでもなく、アカデミーの職員室だった。

職員室……ロマンスもハプニングも生まれない、健全を絵に描いたような場所であって、相変わらず乙女心をバッキバキに砕いてくれた。
それこそ、ほんわかとした雰囲気を醸しながら脳内に咲いたお花畑までも根こそぎ刈り取る周到性は、もう、一周回ってジニア先輩のアイデンティティなのかもしれない。
恋愛フラグクラッシャー。それは本日も遺憾なく発揮された。
今日も私の恋は前進の兆しを見せる事はなく……いいんだ。大丈夫。これしきの事ではへこたれない。無駄に何年も片思いはしていないもの。

先程の言葉通り今日は休校日であるからか、時間帯も手伝ってアカデミーの校内を行き来する生徒の姿は見られず、図書館に数名見かける程度に留まった。ここ職員室でも他の先生の姿は見られない。
ジニア先輩と私、似通った見てくれであるこの二人がお洒落なカフェになんて行けるわけがなかったし、何にも邪魔されず、のんびり二人きりで話が出来るなら職員室くらいでちょうど良いのかもしれない。

そう考えると、話をするだけであっても、チリは職員室なんかではなく、それこそお洒落なカフェや雰囲気のあるお店が似合うだろうなと思う。
私とは見てくれも中身も何もかも違う可愛らしい女の子と一緒に行けば、さぞかし絵になるんだろうなと思ったし、素敵な男性とでもお似合いだろう。
ここでも浮き彫りになる、私とチリの違い。

「どうぞ」と、促されるまま、誰の席とは知れないが適当に選び、座った。
すると、何を思ったのか……先輩はじーっと、私の顔を覗き込む。
まるで対象のポケモンでも観察するかのように背を屈め、口元へ指を当てがって、椅子に座った私の顔を繁々と見つめた。

「……」
「(か、顔が近いいい……!)」

不意打ちで、しかも至近距離でこんな風に見つめられると、心臓が早鐘を打つのはもはや条件反射というか、けれども、あまりに大きくドキドキと胸が高鳴るので、ジニア先輩に聞こえやしないかと心配でならなかった。

昔から感じていたけれど、先輩は少々距離感がバグっていると思うのだ。その質の悪さを、今ひしひしと感じている。
意中の男性に、こんなにも近い距離で見つめられて、意識を手放さなかった自分自身を褒めてやりたい。
チリに初めて唇を奪われた時は、それこそすんなりと意識を手放してしまったが、そう思うと、やはり彼女は何もかもが規格外なのだった。

眼鏡を通して映るジニア先輩の瞳は、相変わらず曇りがなく純粋で、光を集めたガラス玉のように美しくキラキラと輝いていた。

「あ、あのっ……せんぱ、い」
「うーん……うんうん。なるほど、分かりましたあ」
「へえ?」
「お砂糖が三つと、ミルクは……うん。たっぷりめかなあ?」
「!」

優しさの塊のようなふんわりとした笑みを浮かべて、ジニア先輩はコーヒーメーカーの元へ向かう。
私はその広い背中を、驚きのあまり双眸を見開いたまま見つめていた。

いつもブラックコーヒーを好んで飲む私であるが、極度の疲労蓄積や重度のストレスに晒された際には、砂糖とミルクをたっぷりと入れて甘ったるいコーヒーを飲む癖がある。
言ってしまえば、彼にとってその事柄は取るに足らない些末なもので、それはかつての後輩の何気ない習性の一つ。

「先輩、何で……?」
「なまえさん、お疲れの様でしたから。疲れた時はいつも沢山お砂糖とミルクを入れてたでしょう?」

過去の話だ。それこそ、先輩後輩として共に研究員時代を過ごしていた先輩と私の何気ない一コマ。
だから、とても驚いた。それ以上に物凄く嬉しかった。
先輩は覚えていてくれたのだ。何気ない私の一コマを。

嗚呼、もう……好きいいい!!

顔の表情筋が緩んで溶けた、だらしのない表情を見られないよう、咄嗟に顔面を両手で覆い隠す。
しかし、嬉しさはだけはどうにも隠しきれず、その場で立ち上がり、天を仰いだ。
これは一歩、否、十歩は前進出来たのではないだろうか?

「うわああっ、ええっと……もしかして僕、間違えちゃいましたかあ?」
「違いません! 大正解です……!」
「それは良かったですー」

差し出されたマグカップを受け取った。
先輩のこういう所が、昔も今も――現在進行形で大好きで堪らないのだ。

「ありがとう御座います」
「どういたしまして」

先輩は私の隣の席に座る。
デスクの上は惨憺たる散らかり具合で、物という物が無造作に堆く積み上げられている。
そこは間違いなくジニア先輩のデスクなのだろうと容易に推察できて、同時に相変わらずだなと思い、小さく笑ってコーヒーに口をつける。

「あの、先輩」
「何ですかあ? なまえさん」
「ええっと……コーヒーの事、覚えていてくださって嬉しいです」
「! えへへ、もちろんですよお。なまえさんの事は何でも覚えていますから」
「え、それって……」
「はい。なまえさんは、ぼくの大切な後輩ですからあ」
「……。ですよねぇ! そうですよねぇ! 光栄ですっ」

寸毫の悪意もなく、純粋に吐き出された“後輩”という言葉が、頭上から降ってきて、容赦なく私にのしかかる。
初めからこんな事だろうと分かっていたからこそ中傷で済んだものの、その言葉と言ったら打ち所が悪ければ立ち直れない程の威力を誇っているのだった。
ゆるやか系男子だなんて可愛らしく形容されたところで、ゆるやかとは程遠い所業である上げて落とす技術にかけては、彼の右に出る者はきっと居ない。それ程にピカイチだった。

「あ、あの……?」

落胆に項垂れていると、再度傍から視線を感じて、何事かと思えば、ジニア先輩は先程同様に私の顔を凝視していた。
けれど、先程の様にその瞳と視線が交わる事はない。確かに、こちらを見ているのに。見ているようで、見ていない。
顔を――正確には頬の辺りを、だろうか?

「じっとして」
「――っ、」

徐に伸ばされた先輩の手が、私の頬へ触れる。
親指の腹が頬を滑って、何かを拭った様だった。

「はい、もういいですよお。今日は何処を冒険してきたんですかあ? 土が付いていたので」
「え!? あ、土! 今日はセルクルタウンの近くでミツハニーの大量発生があったので、観察を……」
「ミツハニーかあ……良いですねえ。お気持ちは分かりますが、程々に、ですよお?」
「あははは……気を付けます」
「なまえさんは頑張り屋さんなので、先輩は心配だなあ。ちゃんと休んでくださあい」
「ひぃっ……!」

よしよしと、頭を撫でられたのはとても久し振りだった。
この年齢になって頭を撫でられる行為自体滅多にある事では無いし、寧ろ撫でる側になりつつあるので、この感覚は何というか、照れ臭くて、擽ったくて何とも気恥ずかしい。

先輩は、今では“ジニア先輩”よりも、“ジニア先生”と呼ばれる方がしっくりくるのかも知れないし、この行為だって、言ってみれば生徒に対する先生目線の延長のような行いであるのかもしれない。
だから、これ以上深く考えるのはやめておこうと思う。

「ぼく、ずっとなまえさんに謝らないといけないなあって……思っていたんです」
「何の事ですか?」
「あの日、なまえさんはとても困っていたんでしょう?」

その言葉に、記憶を遡る。
“あの日”とは、言うまでもなくジニア先輩に結婚してくれと錯乱しながら縋り付いた、今となっては私の中で消し去りたい過去ナンバーワンである出来事だった。人生の汚点以外の何ものでもない。

改めて申し訳なさそうに謝られると、塞がりかけていた傷口の瘡蓋を無理矢理剥がして再出血したような気分になる。
痛くて痛くて仕方がない。

「あー……ええっと、いいんです。気にしないでください。私の方こそ、すみませんでした」

偽りを装った婚約者関係であった筈のに、突然キスをされて、既成事実だの何だのと意味のわからない事を言われた。剰え一緒に住むまでに至ってしまって……。
もう落ちる所まで落ちてしまって、どん底にいるので、これ以上厄介な事になる心配がない事が唯一の救いだろう。

「話の内容から、ぼくではお役に立てなさそうでしたので……ごめんなさい」
「謝らないでください! あの時の私はどうかしていたんです、本当に大丈夫ですから!」

にべ無く断られてしまったので、まさか、先輩が気にしていただなんてこれっぽちも思わなかった。
もしも今の今まで気に病んでいたというのなら、逆に申し訳ない気持ちで一杯になる。
それこそ今更、本当は振りで良かったのだと伝えたら――いや、それでも私の望むような変化は何も起こらないだろう。もうこれ以上は何も言わない事にした。

「大丈夫ですよお。なまえさんは素敵な女性ですから、大切にしてくれる人が絶対現れます。なまえさんには、その人と幸せになってほしいです」
「あはは……そう、ですよね。ありがとう御座いまーす……」

地味に傷付く。いや、今回のはだいぶと抉られた。
圧倒的アウトオブ眼中。
少しでも夢を見てしまった私を、現実に引き戻すかのような強烈な一撃。思い切り頬を引っ叩かれたような気分だった。現実は甘くない。
今日も見事に玉砕。
ジニア先輩は、私が愛してやまない和やかな笑顔で諭すようにそう言った。

「(へ、平気平気……こんなの慣れっこだし……)」

あーあ、お砂糖もう一個欲しいなぁ。

その後は、愛だの恋だのといった話題は驚くほどに一切無く、専らヨロイ島での出来事であったり、“伝説のヨロイ“と称されるポケモンの話、ガラル地方に対応したポケモン図鑑を見せて今日一番の盛り上がりを見せた。

ジニア先輩とポケモンの話をすると、どうしてこんなにも楽しいのだろうか。
それこそ際限なく、いつまでも、永遠とこの話題で盛り上がっていられるので、つい時間を忘れて語り合ってしまう。そう、時間を忘れて――。
またしても、白衣の裾を引かれる感覚。それこそ昼間、ミツハニーの生態調査に没頭していた時にも同じような事があったばかりだ。

はたと気付いて下を向くと、またしてもボールから出てきたタルップルが焦った様子で白衣の裾を咥えて引っ張るので、瞬時にその意味を理解した。
いつの間にやらとっぷりと日が暮れて、窓の外がすっかり暗くなってしまっている事に驚きと焦りを隠せない。

「うわああ! やばい、忘れてた!」

チリと夕食を食べる約束を忘れていた。

「わあ、その子なまえさんの手持ちですかあ? タルップル、可愛いなあ。そうだ、今度ぼくの授業で是非ガラル地方でのカジッチュの講義してみませんかあ? 生徒達も喜ぶと思いますので」

慌てふためく私とは対照的に、ジニア先輩はのんびりとした口調で言いながらタルップルの頭を撫でる。
主人が主人なら、ポケモンもポケモンだった。心地良さそうに、されるがままに撫で繰り回されている。終いには背中の皮を差し出す始末だった。
言いたい事は沢山あるが、今はそれどころでは無いのだ。

「は、はい! それは勿論です! あ、あああのっ、先輩ごめんなさい。私もう帰らないと……!」
「はあい。暗いので、お家まで送りますねえ」
「いえいえ、結構です! 心配には及びませんので、お気遣い無く!」

今までなら、これ以上ない程に嬉しい申し出であったけれど、残念ながら今はもう状況が変わってしまった。
なんとなく……明確な理由はないけれど、それこそ何となくだ。
チリと同居している事実を先輩だけには知られたく無かったのだ。

タルップルをボールに戻し、職員室の窓を開け放った。
今から徒歩で帰るよりも、窓からアーマーガアに乗って帰る方が断然早いだろう。
大した距離でなくとも、その僅かな距離と時間さえ今の私には惜しい。

「わああ! だ、駄目ですよお……危ないですからあ!」
「大丈夫です! それでは先輩、コーヒーご馳走様でした」
「お、お気をつけてー!」

一足先にアーマーガアを窓の外へ繰り出し、なんの躊躇いもなく窓から身を投げた。
プロのスタントマン顔負けのダイブを披露した所で、それをアーマーガアは難なく背中で受け止める。
そして、今度こそ私はチリの待つマンションへと帰って行ったのだった。

「相変わらず元気いっぱいだなあ……」

***

朝方貰ったばかりの合鍵を使って、出来るだけ音を立てないように慎重に鍵穴へ差し込み、ゆっくりと回す。
鍵穴からは、カチャリ……と、小さく解錠した音が聞こえて息を吐く。
第一関門突破の瞬間だった。

次は第二関門。
気付かれないよう、音を立てずに玄関のドアを開けて速やかに自室へ入る事。
幸い、ここの間取りは廊下の突き当たりにリビング、その途中個室へ繋がるドアが左右に付いている。
即ち、リビングを経由せずとも個室へ辿り着けるのだ。
顔を合わせずとも帰宅が叶う部屋。こんな状況に置かれた自分の様な人間には打って付けの素晴らしい間取りだった。

あと一つ不安材料があるとすれば、腹を立てたチリが玄関のドアへ補助錠――つまりは、チェーンロック(帰りが遅くなった一家の大黒柱が締め出されているアレ)を掛けている可能性だが……。
そこは一か八かの可能性に賭けるしかない。

意を決して、けれども慎重に、息を殺しながら玄関のドアを開けると――。
嗚呼、良かった。チェーンロックは掛かっていない。

「おかえり」
「っ!?」

チェーンロック閉め出しの刑の方が何倍もマシだった。
頭上から振る声にビクリと身体が跳ね上がって、一瞬呼吸を忘れてしまう。

言葉にするまでもなく、チリは私の帰りを玄関で待ち構えていた様だった。
恐ろしくて顔を上げられない。背中を嫌な汗が伝って流れた。

まず初めに、不機嫌を微塵も隠そうとしない声音でびびり上がった。
固まったままいつまで経っても玄関先から中へ入ってこようとしない私に対し、視界に入ったチリの足が、追い討ちをかけるかのように床をタンタンと乱暴に打ち鳴らすから、益々震え上がる。

私の今の特性は、びびり。
あくタイプさながらのチリの動作に私の素早さが上がった。

「(うわあああ……怒ってる)」

半分だけ開いたドアを思わず閉めて、いっそこの場から逃げ出してしまおうかと思った時だった。
それを察知したチリの手が即座にドアの淵に掛けられて、それを阻止した。閉める事も、逃げ出す事も、叶わない。

ドアから、半分だけ覗いたチリの顔が恐ろしい。
行動に伴わない貼り付けられた笑顔は恐怖でしかなく、立てた親指で早く中に入れとしゃくられたら、大人しく彼女に従うべきだと、それこそ本能で悟ったのだった。

「なまえちゃーん。ちょこーっと、チリちゃんと大事なお話しよか?」
「……はぁい」

さあ、お説教の時間です。


20230223




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