――嗚呼、やっぱり私にはこっちの方が肌に合うなぁ。

膝上丈のワンピースとハイヒールを脱ぎ捨てて、お洒落な髪型と流行りのメイクを取っ払い、夢中で地べたに這いつくばる。
瞳を輝かせ、眼前の野生のコフーライへとルーペ越しに熱視線を送りながらつくづくそう思った。

先日の会食の席とは大違いだ。集まった皆には申し訳無いが、あの晩の私の心境は通夜さながらであったので。
ポケモンの生態調査にフィールドワーク――日常生活においても、これ以上胸が躍る事柄は他に無い。

先日の会食。
両家の祖母同士が勝手に決めた時代錯誤も甚だしい迷惑千万な“許嫁・婚約者”騒動である。

一体全体どんな人が私の婚約者なのかと腹痛と吐き気に見舞われながら現地へ赴けば、まさかの行きずりの縁で出会った彼女――チリさんこそが、その相手だったのだから驚かずにはいられない。
彼女は、私と比べ物にならない程美しく、人目を引く容姿をしていて、とてもじゃないが同じ人間とは思えないような、大層魅力的な人だった。
別にわざわざ婚約者だなんて特定の相手を作らなくとも、男女問わず引く手数多であろうに。

気さくで、美しくて、魅力的で……そして、私とは決して釣り合わない高嶺の花のような人だった。
手折ることの叶わない人。手が届かないからこそ美しく、高嶺の花足り得るのだ。

だから、私は間違ってもその花に手を伸ばそうとは思わないし、決して手折ろうとも思わない。
だって、頂から転がり落ちたくは無いもの。

***

【ロトロトロト……“チリさん”から電話ロト! 繋ぐロトー?】

うわあ、またかかってきたよ……。

私のような人間が、チリさんに対して“うわあ”だの、“また”だのと口にする事は畏れ多いのだと重々承知しているけれど、そう思わずにはいられなかった。

あの夜からほぼ毎日と言っていい程、彼女からの着信が入る。
何度かけても繋がらず、折り返しの連絡も無いのだから察してくれればいいものを、何が彼女をこうも突き動かすのか甚だ疑問だ。
私としては、このまま連絡を取らず、有耶無耶になってしまう事を望んでいるのだけれど。
早く諦めてくれないかな、と思うばかりだ。

「聞こえませーん。今はコフーライちゃんに夢中だから留守番メッセージに切り替えて欲しいロトー」
「ほーん。そういう事か。そら、いくら連絡しても繋がらへんわけやなぁ……はなから出る気が無いっちゅーことやもんなぁ?」
「!?」

寝そべって、地面を這うコフーライに夢中であったから、背後に立つ気配に全く気が付かなかった。
ここは南一番エリア――テーブルシティから程近い場所にある。
そう言えば、チリさんはパルデアのポケモンリーグで働いているのだと聞いた。そのポケモンリーグはテーブルシティに構えているのだから、こんな目と鼻の先でフィールドワークをしている事が最大の過ちであったのだ。

物凄く気まずい。振り向けない。
この一週間、彼女からの着信を散々無視した挙げ句、その手口と目論みまでバレてしまったのだ。
絶体絶命とはまさにこの事を言う。
固まったまま動けないでいると、彼女は何を思ったのか此方まで歩み寄り、横に立ち、そしてその場にしゃがみ込んだ。何故!?

「何してるん? コフーライ?」

流石に真横にしゃがみ込まれ、声を掛けられたのでは無視をするわけにもいかないので、私は渋々口を開く。

「コフーライは進化したらビビヨンになりますけど、カロス地方ではその種は実に二十の個性豊かな色柄をしています。パルデア地方ではその内のファンシーな模様のビビヨンだけですけどね。その中には特別な柄をしたビビヨンも何処かに生息しているのだとか……進化前のコフーライをたまたま見つけたので、観察中です。カロス地方のコフーライと何か違いがあるのか気になります」
「(めっちゃ喋るやん……)  ふーん。さすが、詳しいなぁ。自分、研究員や言うてたもんな」

質問してきたから答えたと言うのに、彼女はさほど興味があるわけではないようだった。
精々、“さすが、詳しいね”で片付けられてしまう程度なのだ。
たまたま話題が無かったから、振っただけのお座なりの質問であったらしい。
だったら、無理に話題を振っていないで立ち去ればいいのにと思う。この間も感じたが、やっぱり私達は違いすぎる。

――何がだなんてそんなもの、何もかもだ。

「チリさん、何かご用があったのでは?」
「あー、そやったそやった。ちゅーか、その“チリさん”て止めて欲しいんやけど。この間は“チリちゃん”て、呼んでくれたやん? それに、なまえの方が歳上なんやから、敬語も要らんし、呼び捨てでかまへんよ?」
「……いや、それは流石にちょっと。ところで肝心なその御用は? 婚約の件ですか? その事なら私から母に断りを入れておきますのでご心配には及びませんよ?」

何だか話が別の方向へ進みそうだったので、軌道修正する。
正直、敬語も呼び方も大して重要な要件ではないだろうに。どうせ断って、無かった事にして、私達の関係は白紙に戻るのだから。

「はあ!? ちょお、断るて……そないな事言わんと。お互いの両親も乗り気やし、もう少し様子見てもええんちゃう?」
「はい?」

今も尚、私の視線はコフーライに釘付けであるが、これでも耳だけは一応傾けている。
その証拠に、私は彼女が何を言いたいのかてんで分からなかったのだから。
この関係を終わらせる為に私を探していたのでは?だから連日電話をかけてきていたのだろうし……。

「自分かて同じとちゃうの?」
「……何がですか?」
「チリちゃんな、正直まだ結婚とか、身を固めるとかそんなん全く考えられへんねん。せやから、相手がおるだけでも親の気が紛れる言うか、な?」

チリさんは、気まずそうに言った。
嗚呼、そうか……彼女も私と同じなのだ。耳を塞ぎたくなるような小言を事ある毎に言われているのかもしれない。
その点に関しては私も全くの同意見であったから、反論せずに、ただ静かに彼女の話に耳を傾けていた。

つまり、私にとっても彼女にとってもこの関係は利害が一致していると言うわけだ。
ならば、こんな都合のいい関係を見す見す手放すなんて勿体無い事をするわけにはいかなかったのだろう。

「勿論、形だけでかまへんよ? 本当にそう言った間柄にはならんでええし、親からの結婚云々の話からも解放されるし、お互いメリットあると思わへん?」
「なるほど、ウィンウィンの関係と言うわけですね。そう言う事であれば……」

私自身、その申し出は願ったり叶ったりである。
もしも、この関係を築いている期間にどちらか一方にそういった人が現れるなら白紙に戻せばいいだけの事。

「よし、なら決まりな!」と嬉々として差し出された手を一瞥し、再びコフーライに視線を戻しながらその手を握り返した。
このチープな関係が成立した瞬間だ。

これで話も済んだのだろうから今度こそ立ち去るかと思えば、しかし、彼女は何故かこの場を離れようとしない。
まだ何かあるのだろうか?正直これ以上の面倒事には関わりたくないのだけれど。

「でも、お互いの事何も知らんいうんも、いざと言う時不便やんなぁ?」
「そうですか? 名前と生年月日、血液型を知っていれば十分なのでは?」
「いや、それ寂しすぎひん? せっかく知り合うて、こういう間柄になったんやから他にも色々知りたない?」

知りたくない。
私は別に気にならないし、そもそも興味が無い。

「はぁ……例えば何です?」
「そやなぁ……好きな食べ物とか、趣味とか、後は寝る時はどっち向きとか、お風呂に入って一番最初に洗うんはどこからとか?」

後半二つは絶対にいらない情報だと思う。最後に関してはセクハラまである。
そんなマニアックな情報を知らずとも、今後の私達の関係に不自由が生じるとはとても思えない。
そんなことより、コフーライの観察に戻りたいのだけれど……。

「なあ、なまえは何が好き? あ、食べ物の話な」
「別に、栄養価が高ければそれで――んぶ、」

兎にも角にも私はコフーライの観察がしたいのだ。今すぐに。たった今。
申し訳ないが何の脈絡も無く、いつまでもダラダラと間断なく続く彼女との他愛無い話に花を咲かせている暇など無い。

それが彼女に伝わってしまったのかもしれなかった――。
お座なりな返答に気分を害してしまったのか、不意に彼女の手が此方に伸びて、そのまま私の顎を掴み上げた。
そして、無理矢理顔を彼女の方へと向けられたものだから、首が痛くてかなわない。
彼女の表情と言えば――嗚呼、やっぱり拗ねている。
その表情は不機嫌を微塵も隠していなかった。そもそも隠すつもりが無いのかもしれないが……。

「こーら! 人と話する時はちゃんと目ぇ見て話せゆーて習わへんかった?」
「ひっ、えと……サンドイッチが好きです。な、何故ならば……具材の組み合わせによってはエネルギー源となる脂質と炭水化物、体の調子を整えるビタミンとミネラル、体の組織を作るタンパク質と言った五大栄養素を効率よく摂取出来るだけでなく、手軽であり作業しながらでも食事が可能といった効率性の高さも評価に値するからです!!」
「な、何やそのテストの模範解答みたいな答え……んふっ、はははっ!」

早口に答えると、チリさんはあの日のように人懐こい笑顔で笑い飛ばした。
その笑顔があまりに眩しく眩暈を覚えるようでいて、私は両目をぎゅうっときつく瞑る。
その顔はさぞかし不細工であっただろうが、気にしない。網膜の保護が最優先事項だ。

「んぐ、ま、眩しい! チリさんの笑顔はまるで、直射日光を浴びせられるようで直視できません!」
「いやいや、どんだけやの? 一応、関係を続けるなら慣れてもらわんと」
「そうですね……サングラスの購入を検討します」
「チリちゃん真夏の太陽とちゃうねんけど…… ――うん?」
「何ですか?」

チリさんは何かに気が付いたように、私の顔をじいっと見つめる。

「こないだと何か雰囲気が違うなと思たら、今日は随分ナチュラルメイクなんやなぁ」

普段は眉しか描かないが、今日はジニア先輩に生態調査の報告がてらアカデミーに出向く用事があったので気持ち程度ではあるが化粧をしていた。
ほら、やっぱり、好きな人に会いに行くのだから、ほんの少しでも可愛らしいと思ってもらいたいと思うのが乙女心だ。
彼に関して言えば、眉だけであろうと、ナチュラルメイクであろうと興味が無いと思うのであまり意味は成さなかったかもしれないが。
その件に関して言えば、チリさんは流石だと思う。そういった細かいところに気付け、心遣いができるのはモテる人の見本なのだろう。

僅かであれどメイクを施しておいて本当に良かったと思った。
例えば、今この瞬間のような事もあるのだし。

「ああ、この間は美容室に寄って髪型と服装に合ったメイクアップもお願いしていたので……って、恥ずかしいのでもう手を離してもらっても?」
「ええやん、もっとよう見せて? こっちのなまえも可愛くて好きやで?」

そんな事をサラッと言うような人なのだから、きっとそのリップサービスは私に限ったことでは無いのだろう。
勘違いをしてはいけないと、自身を律した。
顎に掛かったままの手を自ら解いて、再びコフーライに視線を戻すと、先ほどまでそこにいたコフーライの姿がない。
ここぞとばかりに逃げ出し、草むらの中へ姿を消してしまったらしい。

「ああ! そんなっ、コフーライ……!」
「ちょお自分、目の前のチリちゃんよりコフーライって……」
「当然ですよ! 私にとっては眩しいチリさんよりも、観察対象のコフーライです!」

辺りを見回すと、少し離れた場所の草むらに隠れようとしているコフーライの姿を見つける。
慌てて駆け寄ろうとすると、それを制するように腕を掴まれ、引き止められた。

「なっ、チリさん!?」
「まだ話終わってへんし」
「終わりました。上部だけの関係を続ける事への了承もしましたし、好きな食べ物についてもお話しましたよ?」

まだ何か、彼女の問いに答えていなかっただろうかと考えを巡らせる。
まだ答えていなかった質問は、趣味と、どちら向きで寝るのか、身体はどこから洗うか――だったろうか?
そんな心底どうでもいい事が彼女にとって大切なのかと、ここでも考え方のギャップに驚かされながら、しかし、解放されるなら答える事にやぶさかでない。

「あー、ええっと……趣味はフィールドワーク。寝方は上向きで腕は胸の前で組む派、風呂は身体ではなく頭から洗う派です」

矢継ぎ早に答えると、チリさんは双眸を瞬かせた。
こいつ何言ってんの?と言わんばかりの表情で、首を傾げるのは止めてほしい。
彼女に迎合したまでであるのに、まるで、私が頭の可笑な奴みたいな雰囲気になってしまっている。

「趣味、寝方、身体の洗う順が知りたかったのでは?」
「え? ……あっはっは! ちゃうよ、ちゃうちゃう!」

違ったらしい。だとしたら、これ以上私には彼女の望む返答は無理だと思った。
チリさんは、私の見当違いな発言に再び声を上げてケラケラと笑う。
私はそんな彼女を一歩引いた視点から、それこそ職業病なのかもしれないが、観察するかのようにその様を繁々と見つめていた。
彼女は、一見中性的で美しいが故に、近寄り難く声も掛けずらいが、笑うと途端に目尻が下がって砕けたような人懐こい表情に変わるから、可愛らしく取っ付きやすい。
そのギャップがまたいいのかもしれない。本当によく笑うな……と、思った。

「そうやなくて、敬語――」
「はい?」
「敬語いらんし、さん付けは嫌や」
「何、……え?」

正直、何だそれえええ……。と、思った。
彼女には申し訳ないが、私にとってそれは考え方のギャップ、心底どうでもいい事パートツーであったのだから。
流石に思ったままを口にしなかったものの、本当にどうでもいいと思ってしまったのだ。ごめんなさい。

「いや、急に言われましても……ですね」
「急とちゃうよ? 最初に言うたやろ? ほら、呼んでみて」

いや、だから……そんな事よりも、コフーライちゃんがいなくなってしまうので……。

視界の端からいよいよ見切れてしまいそうなコフーライの行方が気になって仕方がないのだけれど、しかし、自分の意思に反して赤銅色の瞳に射抜かれてしまうと、どうしてか目を逸らせなかった。
鋼が赤く熱く溶かされる様のように、私の意識は彼女の視線に焼き付けられて溶かされてしまったのだろうか?
そこには確固とした意思があるようで、呼ばなければ解放される事も、研究を続ける事も不可能であるような気がした。
――致し方無い。

「わ、分かりました! じゃなくて、分かったよ……ええっと……チ、チリ? チリちゃん?」
「! ……ん。これから改めてよろしゅうな、なまえ」

たった名前を呼んだだけ。よそよそしい敬語を取っ払っただけ。
それだけの事が、そんなに嬉しいものなのだろうか?私にはやっぱりよく分からなかった。

こうして、私たちの世にも奇妙な偽装婚約者生活が幕を開けたわけなのだが――結局、コフーライは見失ってしまった。
この関係は確かウィンウィンの筈では無かったのか?
コフーライを見失い、私は早速損失を被ってしまったわけだが……さて、どうしてくれるのだろう?

今からとても先行きが不安でならない。


20230212




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