「なあ、まだ怒ってるん?」
「別に」
「ごっつ怒ってるやん……さっきは悪かったわ。この通り! 許してや?」

さっきとは、言うまでもなくアカデミーでの一件だった。
その通り。彼女の言葉を借りるなら、私はごっつ怒っている。

“いや、ついうっかり”
そんなふうに戯けて謝られたところで到底許す気にはなれない。
口では悪かったと言いつつも反省の色がまったく見られない、実に軽々しい態度だった。
実際そうなのかもしれない。悪かったなんて、彼女は微塵も思っていないのかもしれない。

それにしたって、酷い目に合った。
あんな衆目に晒される正面入り口で――よりにもよってジニア先輩の目の前で。

これ以上好き放題させていれば有る事無い事喋られて、あらぬ誤解を与えかねない危険性を感じた私は、持てる力を振り絞りチリの拘束と言う名のバックハグをこうそくスピンの如く身体を捩って抜け出した。
名残惜しかったが、ジニア先輩に「お疲れ様でした」と口早に一言挨拶をして、チリの手を引っ掴むなりグレープアカデミー名物地獄の階段を転げ落ちそうになりながら全速力で駆け降りて、待機していた空飛ぶタクシーへと乗り込んだのだった。

目的地の祠へ辿り着くまでのタクシー内では終始無言を貫き、今も返す言葉は冷やかだ。

平謝りするチリに一瞥もくれず、チオンジェンが封印された祠の前で封印強度の調査に取り掛かる。

予めマップに登録しておいた杭と祠の位置を照らし合わせながら調査を進めるが、今の所特に異常は見られない様だった。
祠を封印する杭は全部で八つ。既に五つ抜かれているので残りは三つだが、残りの杭が抜かれるのも時間の問題かもしれない。

半数以上抜かれてしまっているが祠を縛る鎖も張り巡らされたままであるし、存外この封印は強固な作りなのだろうか?
くれぐれも残りの杭は抜かない様に、祠にも近付かないようにとアカデミーを通じて学生に警告を促すくらいしか手立てはなさそうだ。
それが対策としてどの程度効力がるのか分からないが……。

「なまえ」
「……」

私は無言で祠の真上を見上げる。
残りの杭、そのうちの一本が丁度この崖の真上に突き刺さっている。
あと一本くらい抜いてみても……なんて、研究員としての興味というか良からぬ思考が一瞬頭を過って、ぐっと好奇心を抑え込んだ。

「なまえちゃーん」
「……」

つんつん、つんつん。
傍に立つチリが、さっきから永遠と頬を突っついてくる。
お陰で気が散って作業に集中出来ない。
まるで悪戯っ子の様なその行為にいよいよ我慢ならなくなって、無視を徹底していたのに堪らず反応してしまった。

「――っ、しつこいよ! つんつんつんつん……何なのさっきから! 私は怒ってるって言ってるでしょ!?」
「やっとこっち向いた」
「あ……!」

しまったと思った時には既に遅かった。
無視を決め込んでいた私が反応した事で、チリは人懐っこい笑みを浮かべて嬉しそうに表情を綻ばせた。

私はその笑みに弱いのだ。はねつける事が出来ない。
これだから面の良い人間は――。
初めて彼女と出会った夜も、私はその顔に見惚れた。

しかし、まあ、反応してしまったからには仕方がない。
許す許さないはさておき、アカデミーでの問題行動に至った経緯くらいは聞いておいて損はないだろう。

「……何で、あんな事したの?」
「何でって……そんなん、なまえのせいやろ?」
「はい?」

私はただ理由を尋ねたにすぎないのに、チリは拗ねた子供の様に外方を向いてしまう。
腹を立てているのは私の方だ。それなのに、何故チリがそんな態度をとるのか理解に苦しむ。
やはり、謝罪は口ばかりで自分は悪くないと思っているらしい。

私のせいだと口にするチリは、かろうじて聞き取れる程の声量でボソリと呟く。
「チリちゃん、あんな顔知らへん」と、不貞腐れたように吐き捨てたかと思うと、続けて聞き捨てならない台詞を口にしたのだ。

「まあ、相手が大好きな“ジニア先輩”やったし、仕方ないんかも知れんけど」
「……は?」
「聞こえへんかった? 大好きな“先輩”の前やと、自分、随分可愛らしい顔するんやね言うたんや」
「ちょ、」

やけに先輩と言う単語を強調する彼女は、語るまでもなく全てを知っているようだった。
私の思い人である“先輩”とは誰であるのか。

「ああ、全部知ってるから誤魔化さんでええよ? なまえが好きな先輩って、ジニア先生やろ? ジニア先生となまえは研究員時代の先輩後輩やってオモダカさんから聞いたで」
「んなっ!?」

この情報社会、どのようにして個人情報の流出を防ぐのか永遠の課題のように思えた。
まあ、この話の出所は前述の通り、以前オモダカさんに話した内容であったから流出させたのは私本人というわけだけれど。
どこから自分の情報が漏洩するか分かったものじゃない。

私には選択肢が二つ。
一つ目、チリの推測通り私の好きな人はジニア先輩だと認める事。
二つ目、その推測は間違っていると白を切る事。

――さて、どうするべきか。最適解はどちらであるのか。

チリは、口を噤んでじっと此方の出方を窺っているようだった。黙って、見つめて、私の返答を待っている。
果たして私は彼女の意に沿った言葉を紡げるだろうか?

「……そう、だよ」

歯切れ悪く答えた。私は、一つ目の認める事を選択したのだ。
これ以上誤魔化す事は不可能であるし、アカデミーでの一件もどこから見られていたのかは知れないが、彼女の言動から察するに、断定に値する十分な確信を得ているからに違いない。

「ジニア先輩はずっと私の憧れだから。一方的な片思いだけど……とにかく、今日みたいな事は止めて欲しい。あと、婚約者とかそういう事も言わないで。……その、偽装なんだし」

端から答えが分かりきった、見込みの無い恋だけれど。
それでも、そんなものでも私には大切なのだ。失うには惜しいくらいには。
だから、私はあの日チリの手を取った。
蓋を開けてみれば全くもってウィンウィンではないけれど、それでも両親(特に母親)の小言からは解放された。
それだけでも、私にとってはチリとの偽装関係を結んだ大きな見返りとなっている。

出来れば、都合がいいこの関係は続けていたい。
そこに、愛だの恋だのと言った色恋沙汰が含まれない見てくれだけの、張りぼての間柄を望む。

「じゃあ、次の祠に行こうか。パオジアンだったよ、ね――」

マップ機能を開き、空飛ぶタクシーの手配を済ませた直後の事だった。チリが、踵を返す私の腕を掴み、引き止めたのは。

「……ふぅん。で? その片思いが成就したらこの関係破棄して、チリちゃんとは何事もなかったような顔して綺麗さっぱりお別れって事か。はは、そらええな」

引き止めたかと思うと、突然何を言い出すのだろう?
混乱の一途を辿る私をどこまでも置き去りにして、チリは続ける。
私を捉えて離さない、焼き付ける様な赤銅色の瞳はひどく鋭かった。

「ええっと、急にどうしたの……?」
「誤魔化さんといて。言うとくけど、好きやって伝えたのに袖にされた事、忘れてへんからな」
「だから、それは昨日も言ったけど……」
「言うてる意味が分からんって?」

その通りであったから、彼女の問いにぎこちなく頷く。

先回りして、私の言い分を潰しにかかる。
半ば意固地になって告げられた昨日の好きだと言う言葉は、やっぱり彼女の勘違いだと思うのだ。
そんな状況でどう答えていいのか分からないし、どこまで本気かも分からない。
分からない事だらけであったから、そのまま“分からない”と答えたのだ。

「なあ、なまえの中にチリちゃんはこれっぽっちもおらへんの? 全部ジニア先生だけ?」
「あの……チリ、」
「答えて。あんな顔するなまえ初めて見たし、それが出来るんはジニア先生だけなんやって思うたら、正直悔しかったわ。婚約者なんて、なーんも意味無いんやもん」
「そんな事言われても……っ、」

だって、婚約関係は偽装ですし。
よっぽど言いかけて、言葉を飲み下した。

「なあ、苦しい――せやから、なまえがこれ……治して?」
「は?……――っ!」

胸の痞えを直せとばかりに、トントンと自分の胸元を指で押し示したかと思うと、一瞬の隙を突いて唇を奪われてしまった。
抵抗する間もなく押し当てられた柔らかな唇の感触に、私は双眸を見開いて固まる事しか出来ない。

「んー、まだ治らんな。……もう一回したろ」
「んう゛!?」

もう一回。彼女は確かにそう言ったのに、啄むように何度も口付け、角度を変えて、あろうことか差し込まれた舌が歯の羅列をなぞった。
途端に背筋が粟立って、抵抗したいのに自分の意思に反して段々と身体から力が抜けていくのが分かる。
こんな経験は初めてで、終いには頭も回らなくなってきた。
脱力して、思考すらままならない。

「っ、はぁ……チ、リ……」

彼女がどんな意図でこんな事をしているのか知れないが、例えばジニア先輩に一方的に嫉妬して、私の脳内から欠片も残らない程に追い出してやろうだなんて思っているのなら、それは大成功だ。
だって、私の脳内には何も残っていない。
頭がぼーっとして、唇から伝わって全身に駆け巡る甘美な刺激にただただ溺れているのだから。

「……あー、残念。着いてもうたな」
「……へ?」

彼女の言葉に促されて顔を上げた。
それは先程私が手配した空飛ぶタクシーで、ゆっくりとした速度で降下してくる。

それを見ながら心底感じた事は、助かった!この一言に尽きる。
これは、昨夜の彼女の気持ちを袖にした私への報復であったのだと知るには十分すぎた。

チリは気が済んだのか口角をつり上げ、上機嫌で私の胸元へ人差し指を押し当てた。

「なあ、チリちゃん少しは“ここ”に入り込めた?」
「っ、こんなの……ウィンウィンじゃない!」

ぺちん!と胸元に押し付けられた指を叩き落として、空飛ぶタクシーの元へと駆け出す。
けれど、先程のキスの余韻で足腰が万全でない私は上手く踏ん張れずその場に素っ転ぶ。
背後から「ぶはっ!」と吹き出した声が聞こえて、羞恥心をこれでもかと擽られる。恥ずかしいやら悔しいやら。

地面に伏したままの私の腕を掴んで引き上げながら、チリは言う。

「そんな可愛らしい反応されたら、もっと苛めたくなってまうな」
「っ!」
「ナハハ! かーわいい。……チリちゃんな、諦めだけは悪いねん。覚えといてな?」

腕を掴む手に力が込められ、反射的に表情が引き攣る。

やっぱり私は彼女の事が何一つ理解出来なかったが、ただ、とんでもない奴に目をつけられてしまったと言う事だけは、嫌と言うほどに理解出来たのだった。

20230413




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