朝一番、今日中にと頼まれていたリーグ関係の書類を提出する為にオモダカさんの元を訪れた。
リーグ施設の一角に設けられた委員長室。
外出予定のない時は、リーグ委員長を務める彼女は大体いつも此処にいる。
それは今日も例外ではなく、委員長室の扉をノックをすると部屋の中からは「はい、どうぞ」と落ち着いた声がする。

委員長室の扉がやけに重たく感じたのは、十中八九心労から来る錯覚なのだろう。
その原因は昨夜の出来事で、思い出すと悔恨の念にかられてしまう。
あーあ、やってしまった……と。

言い訳をさせてもらえるのなら、昨日、告白をするつもりなんて更々無かった。
それなのに事に及んでしまったのは――いや、いい。言い訳なんて自分らしくない。
そこにどんな理由があったとしても、してしまったものは仕方がないし、覆水盆に返らずで致し方無いのだ。

それに……昨夜の出来事は“無かった事”にされてしまったようだし?

それは言うまでもなく告白の返事だったのだけれど、パニックに陥ったなまえは、それに対して“はい”でも“いいえ”でもなく――“仰っている意味がよく分かりません”と答えたのだ。

その台詞をそっくりそのまま返してやりたいと思う程、それは自分史上最も不名誉な返事だった。
そんなこんなで、今朝は最悪な気分で出社し、今に至る。

「お疲れ様です。トップ、頼まれていた書類持ってきました」
「ありがとう御座います。随分仕事が早いですね、チリ。無論、助かりますが」
「ああ、はい。今日は午後からなまえ、さん……と、厄災ポケモンの祠の封印調査に向かう予定がありますんで」

思わずいつもの調子で呼び捨ててしまいそうになり、慌てて言い直す。
さん付けなんて何だか他人行儀で落ち着かないし、違和感を覚えて仕方がないが、なまえと婚約者の間柄である事を外部には漏らしていないので、ここはあくまでも自然にやり過ごさなければ。

「そういえば、午後から面接入れんといて欲しいってお願いしていた件は大丈夫ですよね?」
「はい、勿論そのように手配していますよ。なまえさんにはアカデミーの客員教授として講義もお願いしているので、祠の調査までお任せしてしまって心苦しくはあるのですが……」

トップ、彼女はすっかりその約束忘れてましたよ。とは、とても言えなかった。
婚約者のよしみでここは黙っておいてやろう。

「でも、何でなまえさんに? 祠の調査なら、歴史やら考古学に詳しいレホール先生がアカデミーにおるんやないですか?」
「それでも構わなかったのですが、彼女は……却って杭を抜いてしまいそうなきらいがあるので」
「あー……なるほど」

苦笑するオモダカさんに対し、それを言うならなまえもなかなか負けていないのだと、よっぽど進言するところだった。
そこには――祠には、準伝説と位置付けられた厄災ポケモンが封印されているのだから、それを知ったなまえが興味を抱かないわけが無い。
喉元まで迫り上がった言葉を飲み込んで、そして、良からぬ想像は全て残らず頭から追い出した。
嫌な予感ほど当たるものだし、考えれば考えるほどその物事に焦点を当ててしまうので万が一という可能性も出てくる。
心配事の80%は起こらず、残りの20%のうち16%は予め準備をしておけば回避出来るものだと言う。
つまりは、残りの4%しか実際には起こらないらしいが、なまえの場合予測がつかないので、その96%の壁をぶち破り、4%に滑り込む可能性が大いにありそうで洒落にならないのだ。

結論、なまえはレホール先生と大差ない。

その点に関しては、同行する自分が十分に目を光らせ、少しでもその気が見られた場合は窘めればいいだけなので何とかなりそうだ。これこそ、16%の下準備。抜かりはない。

それにしても、学者やら研究者やら本当に変わり者が多いと思う。
先日、なまえには一考の余地なく人間よりもポケモンの生態に惹かれると即答されたばかりだ。
とにかく、そんな専門職を生業とするには変わり者でないと務まらないと言う事。
興味を惹かれる物に対して脇目も振らず、没頭し、孤独に堪え、我が道を行き、ひたすらに追求する探究心と集中力が問われる職業だと思う。
するとやはり凡人では成し遂げる事は不可能なのだろう。

「そう言えばご存知でしたか? 彼女、生物学のジニア先生とは研究員時代の先輩と後輩の間柄だったそうですよ」
「! ……先輩って、それホンマですか?」

ジニア先生といえば、生物学の他に確かネモとアオイの担任でもあったような……。
記憶の中のジニア先生を引っ張り出して、思い浮かべてみる。
人当たりの良い柔和な表情で物腰柔らかく、間延びした語調で話すのが印象的だった。
そんな彼となまえは、かつての先輩後輩。

そうなれば彼女の思い人というのは必然的に――ジニア先生という事にはならないだろうか?

「ええ、確かジニア先生の研究員時代の上司が現校長を務めて頂いているクラベル先生だった筈ですから。なまえさんはクラベル先生からご紹介頂きましたし。教師に転向されたジニア先生の助手をしていた事もあったと、この間の顔合わせで話をしたので間違いないかと」
「へえ……」
「優秀な方々のご縁を頂けて、助かります」
「そうですね」

まさか、こんな形で思い人がバラされてしまった事実を、彼女はまだ知らない。
お陰で彼女が焦がれてやまない先輩が“誰”であるのか聞き出す手間が省けたわけだが、その心境は何とも複雑なものだった。

とりあえず、気分を切り替えて午後からの祠調査へ向かわなければならない。
委員長室の扉は、やっぱり入室時と同様に、重たく感じた。

***

なまえとの約束は午後一番から。
午前中に講義があるからと事前に聞いていたので、待ち合わせ場所はグレープアカデミー名物である地獄の階段の下の広場にしておいた。
なまえが講義を終えたら此処で合流し、調査に向かう予定だ。

厄災ポケモンが封印されている祠は全部で四ヶ所あり、今日はそのうちの二ヶ所の調査を行う。
一番多く杭が抜かれているのが確認され、尚且つアカデミーから一番近い場所にあるチオンジェン。
そして、そこから少し足を伸ばしてパオジアンの祠へと向かう。
残り二ヶ所のディンルー、イーユイはまた後日、日を改めてという事になった。

それというのも、丸一日予定が空けられれば良かったのだが、何しろリーグの仕事が忙しくてかなわない。
リーグ業務で多忙を極める中、半日でも予定を空けられた事も言えば奇跡のようなものだ。
だからといって、レホール先生と同様に杭を抜きかねないなまえを一人で向かわせるのは論外であるから、仕方が無い処置だったのだ。

そんな中、約束の時間が段々と近付いて、今か今かと首鶴してなまえを待つ最中「チリさん!」と、聞き慣れた声に名前を呼ばれて振り向いた。

「アオイ、久しぶりやな。なんや自分、いっつも飛び回ってんのかと思たら、ちゃんと授業受けてるんやね」
「勿論です! 勉強は学生の本分ですから」
「おー、偉い偉い」

本分だなんてまた随分と鼻高々に主張する彼女であるが、危険だから近付くなと言われた黒い結晶に挑むなど(先日はそれ以上の難易度の危険なレイドにも挑んでいた)色々とその所業を小耳に挟んでいる。
その為、アオイの主張をどこまで間に受けたら良いのか、その程度は定かでない。

「それに今日は、なまえさんの隔週の特別講義だったので。とっても楽しかったです!」
「へえ……、そらええなぁ。どんな内容やったん?」
「ガラル地方におけるカジッチュの……あ、チリさん明日から覚悟しておいた方がいいですよ?」
「うん?」

カジッチュ?覚悟?
一体アオイが何を言いたいのかよく分からないが、先程、物凄い勢いで階段を駆け降りて、目の前を通り過ぎていった学生が数人いたが……それと何か関係があるのだろうか?

「ああ、そうや。そのなまえ先生は? チリちゃん用事あって待ってるんやけど」
「さっきジニア先生と一緒に生物室にいらっしゃいましたけど……用事なら呼んできましょうか?」
「ふぅん……いや、もうちょい待ってみるわ」

“ジニア先生と一緒に”
その言葉に思わず眉を顰めた。
何しろ午前中の事があったので、二人の名前を揃って聞くと腹の底で澱んだ感情がフツリと沸いた気がした。

「用事言うか、リーグの仕事があってな。厄災ポケモンを封印してる祠の杭が数個抜かれとるから、封印の強度やら色々調べるねん……て、アオイ。まさか杭抜いて回ってるんは自分とちゃうやろな?」
「んなっ、んの事でしょう? あはは」

まさかと思い、念の為に尋ねただけであったのに、そのあからさまな反応と動揺は、言葉にせずとも自分が抜いたのだと物語っている。
まさかこんな形であっさりと杭を抜いて回る不届者を見つける事が叶うとは。
今日は思い人の正体やら、杭を抜いて回るお尋ね者を発見したりと実りの多い一日だ。

「アオイ!」
「っ、うう」

明後日の方向へ視線を逃してもバレバレである。寧ろその仕草で犯人が自分であると肯定しているようなものだ。
所詮は学生。子供の苦しい言い逃れ。
白々しい嘘をついていながら素っ惚けるなんて、それはそれで中々に豪胆な振る舞いであって、ある意味脱帽だけれども。
そう思えば、アオイを凌駕するあの過剰な反応を見せるなまえは、もう救いようがないのだと思った。

「はぁ……もう、頼むわ。あんま危ないことしたらあかんよ? 金輪際、杭は抜かん事。ええな?」
「はーい。ごめんなさい」

口では素直に謝っているが、本当に危険だと分かっているのだろうか?
黒い結晶に加えて、エリアゼロの件もあったと思い出して、再度溜め息をついたのだった。

「それじゃあ、チリさん。また!」と、手を振りながら駆けてゆくアオイに手を振り返し、段々と小さくなる背を見送った。
講義は終わったようだし、もう暫く待っていればなまえも階段を降りて来る事だろう。
なに、彼女と関わるようになってから待つことには随分と慣れてしまったので。

***

確かに、慣れてしまったとは言ったが……それにしたって――

「……いや、おっそ!」

あまりの遅さに、思わず声を上げてしまった。
慣れたものとは言っても決して気が長くなったわけでは無いので、永遠と待たされるこの状況にいよいよ我慢ならなくなってしまう。

スマホロトムで現在の時間を確認すると――ほらやっぱり。
約束の時間を過ぎている。
それも、“少し”過ぎたわけじゃない。“優に”時間を超過しているのだ。

流石にここまで待たされたとなると苛立ちも募ってしまい、つい癖でタンタン!と足を打ち鳴らしてしまう。
こんな事になるのなら、アオイに声を掛けてもらえば良かったと、今更ながらに後悔する。

なまえには約束を反故にされた前科があるのを考慮し、初めから先回りして行動していれば良かったのだ。
このままここで待っていても待ち惚けを食って気が付けば夕方……なんて可能性も大いに有り得る。
そんな冗談事を易々とやってのけるのが彼女なのだから。

イレギュラーの塊。イレギュラーが服を着て歩いているようなもの。

けれど――

「……」

“それ”に向き直って、思わず「う……」と、言葉を詰まらせた。

眼前に広がるのは、気が遠くなりそうな名物と称される地獄の階段。
広がると言うより、その様はさながら聳えていると言っても過言ではない。
しかし、ここで待ち続けていても埒が明かないので、残された選択肢は一つだけ。腹を括るしかないのだった。

「四天王露払いのチリちゃん舐めんなやー!」と、叫びつつ半ば自棄糞になりながら階段を駆け登る。
全速力で駆け上がれば、終いには膝が笑ってしまいそうだが、中途半端に足を止めてしまっては、二度とその場から動けそうにない。
“気合”の二文字を胸に、己を奮い立たせる。そんな暑苦しいキャラではないのだが……。
それでも自分を掻き立てる何かがそうさせてならないのだ。
待ち惚けを食う事に加えて……やはり気になって仕方がない事柄は言葉にするまでもなく――。

“ジニア先生と一緒に生物室にいましたよ”

結局の所、きっとこれが自分を掻き立てる最たるものに違いない。

「し、しんど……」

何とか階段を登りきったところで、学生の「チリさんだ」と色めき立つ声が耳に届くが、今はどうにも“まいど!チリちゃんやで”なんて、いつものように愛想を振り撒く気にはなれなかった。
愛想よりも疲労が先に立つ。
残念ながら、そんなサービス精神は地獄の階段を登る途中で落としてきたらしい。

ゼエゼエと肩で息をしながら呼吸を整える最中、不意に何処からか聞こえた「先輩!」と、溌剌とした声に伏せていた顔を上げる。
弾かれたように面を上げた先の情景に目を奪われた。

アカデミーの正面入り口前、ジニア先生と向き合うようにして立つなまえは、こちらに気付いていない。

「授業お疲れ様でしたあ。さすが、なまえさんですねえ」
「い、いいえ! その……緊張のあまり終始何を喋っていたのか良く覚えていません……ははは」
「いえいえ、ちゃあんと出来てましたよ?学生の皆さんも、とっても真剣になまえさんのお話を聞いていましたし」
「先輩にそう仰って頂けると、その……嬉しい、です」

言いたい事は山程あるが、まず、そのデレきった顔は初めて見たのだけれど……。
そんな顔もするんだ?的なトキメキ要素は、是非、自分の手で実現したかったし、ただひたすら仲の良さを見せつけられているようで、如何せん腹立たしくて仕方がない。
……いや、違うか。自分では決して叶わない事を、彼が容易にやってのけるから嫉妬しているのだ。

その初々しい表情も、照れくさそうな笑みも、全て彼でなくては引き出せない。
自分はそれを眺めている事しか出来ないでいる。

「うんうん、良く出来ました。偉いですよお」
「――っ、」

極め付けにジニア先生は、なまえの頭を撫でる。
そこにどんな意味があるのかは知らない。けれど、これ以上それをただ黙って傍観する事は出来なかったのだ。

息が上がって苦しかった呼吸も、階段を駆け上がった脚の痺れも忘れてしまうほどに。

「わああ! つい癖で生徒を相手にしている時みたいに……すみません」
「……」
「なまえさん?」
「此処の学生になると、ジニア先輩に頭を撫でて褒めてもらえるんですか? 私、此処の学生になってもいいですか? どこで手続き出来ますか?」
「ええ?」

ズンズンと大股で歩み、二人との距離を詰める。
頭の悪そうな会話が間近で聞こえたのを最後に、なまえの背後に回って白衣の襟首を掴むと、感情のままに引き寄せた。
首が締まったからか「グエ」と、潰れたような声が彼女から漏れて、そのままヨタヨタと数歩下がりながら胸元へと寄りかかる。
逃げられないよう、すかさず首元へ腕を巻き付けて顔を擦り寄せた。

襟首を引っ掴んで顔を擦り寄せるまで一瞬の出来事。
突然の出来事に、なまえは抵抗する間もなくただただ瞠目して固まった。
それは眼前のジニア先生も同じく、一体何事かと言わんばかりに呆気に取られている。

「つーかまーえた」
「ひいっ! え……チ、チリ!? な、んで――」
「チリちゃんの事放ったらかして何イチャついとんの?なまえちゃん」
「!?」

声にならない声というのか、飛び出そうな程に目をひん剥いて口をぱくぱくと開けている。
背後からガッチリと抱き締めているので、抜け出そうともがいても拘束は解けない。

「ナハハ、驚いとる。おもろ」

婚約者だとバラされなかっただけ感謝してもらいたいものだ。

その様も相俟って、まさに為す術が無い彼女は俎上の鯉――いや、俎上のコイキング?
ガッチリと腕を回しているから、コイキングの十八番である“はねる”すら今の彼女には叶わない。

さてと。俎上の鯉よろしく、これからどうやって料理したろーかな?

20230322




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