まるで天国から地獄へと真っ逆さまに転がり落ちたような気分だった。
運という運、全てから見放されてしまった、そんな感じ。

折角、ジニア先輩と夢の様なひと時を過ごしていたというのに。
今日も例に漏れず玉砕こそしたが、そんな私と先輩にしては珍しいトキメキイベントが発生したのに、一日の締めくくりがコレだなんて……。

「何か言うことは?」
「た、ただいま戻りました……」
「えらい遅いお戻りやなぁ。……んで、今何時?」
「に、二十一時と三十分を少し回ったところでありますっ!」
「せやな。お陰様で予約しとったフレンチ駄目になってもうたわ」
「フレンチ!?」

気付かれないように音を抑えて鍵を解錠し、まんまと部屋に入ろうなどと、そんな小癪な真似は許される筈がなかったのだ。
眼前には立腹したチリ。
そして、チリの鋭い眼光に気圧されて、これ以上ない程に身を窄めて目を泳がす私。

私の行動は全て筒抜けであるかのように、玄関の扉を半分開けた先にチリが立っていた時の衝撃と言ったら無い。
半分だけ開いた扉から覗く、貼り付けた笑顔を前にして、そのあまりの恐ろしさに血の気が引いてしまった。
これでも自覚はある。非常に拙い事をしでかした自覚は。
けれど、自覚があるからといって、許される程甘くはない事もまた、分かっていた。

それは最悪な選択だと分かっていて、それでもいっその事逃げ出してしまおうかと考えたが、如何せん足が動かなかったのだ。
まるで根が張ったかのように、びくともしない。
そうこうしているうちに、腕を引っ掴まれて、部屋の中へ引きずり込まれる。
チリは、手早く扉を閉めて施錠すると、すかさず玄関の扉へ片手を付く。
バン!と、大きな音を立てて顔の横に手を付かれて、反射的に身が跳ね上がる。
取って付けたようなその笑顔が私をより一層恐怖へと突き落とすけれど、チリはそんな事など心底どうでもいいようだった。

これが俗にいう“壁ドン”というものなら、これのどこにトキメキ要素を見出せば良いのか皆目検討がつかない。
そんな物がこの行為の何処に存在するのか、誰か教えてくれないか。
トキメキだとかキュンだとか微塵も感じられない。寧ろ恐怖でしかない。
鳩尾の辺りがヒュッとなって、もっと言えばチビりそうになった。
いや、ちょっとチビってしまったかもしれない。

思わず「ひいっ」と小さく悲鳴をあげて、磔の如く扉へ張り付いた。
もしかしたらこれは、“壁ドン”ではなく、ただの磔刑なのかもしれなかった。
うん、違いない。これは壁ドンに見せかけた磔刑なのだ。

「その店な、当日予約なんて滅多に取れへんねん。せやから、ビックリさせたろかなぁって思てたんやけど……逆にチリちゃんがなまえにビックリさせられてもうたわ」
「いや、その……斯々然々でして……私もこんなに遅くなる予定ではなく……」
「……」

この後に及んで言い訳を――御託を並べようとする私を、チリは無言で見下ろした。
それは間違った選択だと分かっていた。けれど、気持ちばかりの弁明をさせて欲しいと、少しばかりの欲を見せた事が彼女の癪に触ってしまったらしい。
無言に敵う圧はない。
貼り付けた笑顔も十分恐ろしかったが、それを超越する不機嫌な表情に加えた無言の圧力を纏ったチリを相手に言い争う事などどう考えたって無理だった。無理を通り越して無謀だった。

この場合の最適解は心からの謝罪。これに勝るものは無し。

「た、大変申し訳御座いませんでした。お詫び致します。慙愧の至で御座います」

思いつく限りの謝罪の言葉を早口で並べ立てるが、果たして効果があったのかよく分からない。
まだお説教タイムは続くのだろうか?私の口から全てを洗いざらい聞き出して、事の次第を詳らかにするまで解放してくれないなんて、まさかそんな事――

「で? チリちゃんとのディナーを放って、自分、何処で何してたん?」

そんな事はあった。

寧ろ本番はここからのようで、因みに私の思いつく限りの謝罪の言葉は彼女の“で?”の一言で潰えた。

「オモダカさんとお話をしていて……」
「今の今まで?」
「うーん、うん、そうそう」

目が泳いでいる。
自分でも分かるくらい、尋常ではないほどにバシャバシャ、クロールでもしているかの様に激しく泳いでいる。

この後に及んで、そんな見え透いた嘘を堂々と吐いてしまった事に、自分の頬を張り飛ばしたくなった。
そんな吐くだけ無駄な大嘘は、チリにも瞬時にバレてしまって、彼女の眉間に深い皺がぎゅっと刻まれる。
目は口ほどに物を言うが、私の場合、口で物を言いながら目で否定しているので、何だかややこしい現象を引き起こしている。
兎にも角にも、さぞ喧しい顔面をしている事だろうと、自分事であるのに他人事のように感じてしまったのだった。

今も尚怒られている最中であって、こんな事を言えた立場ではないが、話なら部屋でしたいと思う。
いつまでも玄関先で何をやっているのだろうと、一歩引いた目線でこの状況を俯瞰出来るくらいには余裕が出て来た証拠なのかもしれないが。

確かに私はチリに対して不誠実な態度を取ってしまった。それに関しては謝るし、悪い事をしたと反省している。
けれど、そこはお互い大人なのだから。別に恋人同士でもないし、婚約者だとしてもあくまでも偽装関係。
それなのに、何処で何をしていたのかまで一切合切を話さなければいけないというのは、些か度が過ぎていると思うのだ。

その全てをチリにぶつけてやろうと思った時だった。
不意に顎へ指を掛けられ、強引に上向かされる。
一瞬何が起こったのか思考が追いつかない。そんな私に対し、チリは鼻先が触れそうな距離まで顔を寄せ、追い討ちをかけるかの如く、どこまでも無慈悲に淡々と告げる。

「こんな状況で考え事でもしとんの? へぇ……まだ話の途中やのに随分な態度やなぁ。嘘吐きな子には、嘘つく毎にチューしたるからな。ベロ突っ込む奴」
「!? 話はものの三十分で終了し、セルクルタウンの近くでポケモンの観察をしました」

即座に白状した。
私の決意は豆腐の角より柔らかい。

「それから?」
「え……それか、ら?」
「ベロチュー」
「先ぱ――……知り合いにバッタリ会って、そこから今に至るまで話し込んでしまいました」
「(せんぱ?)」

ジニア先輩の名前を口にしそうになって、慌てて引っ込める。
何だかチリには先輩の話をしたく無かった。
チリはポケモンリーグの職員で四天王であるから、当然アカデミーで教鞭をとる彼の事を知っているだろう。
うっかり私達の関係を話されて、話が大きくなる事が嫌だった――と、言うのは表向きで。
見込みがなくとも、この恋をまだ諦めたくないだけだ。チリに手折られたくなかっただけ。

“ジニア先生”としての彼ではなく、研究員時代の“ジニア先輩”としての彼。
その思い出だけは何があっても土足で踏み荒らされたくは無かった。

私がチリに話せる事は全て白状した。よって、これ以上どれだけ凄まれようと私からは何も出てこない。
夕方から夜まで――二十一時まで話し込むだなんて怪しまれるかもしれないが、研究員の飽くなき探究心を舐めてもらっては困る。
ポケモンの話題なら、夜っぴて語り続ける自信がある。

けれど、チリにしてみれば私の言葉がどこまで本当で、どこからが嘘であるのか疑えばきりが無いのだろうし、証明しろと言われてもどうする事も出来ない。
だから、彼女が先程の説明で納得してくれるのを願うばかりだった。

「はぁ……」
「ほ、本当だよ!?」

暫しの沈黙を経て吐き出された溜め息は、果たしてどちらの意味合いなのだろうかと狼狽する私だったが、顎を掴むチリの手から解放されたので、どうやら彼女は私の言葉を信じてくれたようだった。

その表情は未だに納得がいっていないと言いたげであるが、一先ず窮地を脱したという意味では安堵してもいいだろう。
嗚呼、良かった。本当に良かった。舌を突っ込まれずに済んで。

「分かった。……なまえは嘘吐くのがびっくりする程ヘタクソみたいやから、信じるわ。けどな、連絡の一つぐらい出来たやろ?」
「それは、その……ごめん。電源切ってたんだよね……」
「はぁ!?」
「だ、だって! 観察に集中したくて……邪魔されたくなかったから……それで、そのまま」
「邪魔! ……はぁー、信じられん。それスマホロトムの意味なーんも無いやんか」
「そうだよね……気を付けます。それと、折角お店予約してくれてたのに……ごめん」

一体このやり取りはいつまで続くのか。
口で謝罪しながら、そんな事を頭の片隅で考えている時点で本当に反省しているのかと責められたって反論は出来ない。

「店の事は、もうええよ。ん、葉っぱ付いてるで……なまえは、そないチリちゃんよりポケモンの方がええの?」
「え? それは、まあ」
「……」
「……」

ミツハニーの観察の際、茂みに身を潜めていた時に付いたものだろうか?
私の髪に付いていた葉っぱを取って、チリは唇を尖らせながら不貞腐れたように言う。
そして、少しも言い淀む事なくその問いに当然だと答えてしまった私は、やっぱりどこまでも空気が読めない奴だった。
嘘も吐けなければ、空気だって読めない。どこまでも社会不適合者だった。

彼女ほどのビジュアルを引っ提げていれば、さぞ今までの人生イージーモードだった事だろう。
そしてこれからも、死ぬまでイージーモードなのだろう。
けれど、それは彼女が真っ当な道を進めばの話だ。
私のような変人と関わる事のない人生を歩めばの話で、きっと、彼女のこれまでの人生、こうまで自分をぞんざいに扱う人間はいなかった筈だ。

――こんなにも手に余る奴なんて、ただの一人も。

「と、とにかく……今後、電源を切るのは止めるから……その、それで良いで――っ、」

それで良いでしょう?
これで手打ちにしませんか?
そう伝えるつもりが、全てを言い終える前に私の身体は温もりに包まれた。

一体全体、これはどういう事なのか。
チリに抱きしめられている。
確かに彼女は私に立腹して、説教をしていた筈で……そこからどう間違えれば抱擁へと繋がるのか、その理由が全くと言っていい程分からない。

状況確認をする前に、私の思考を遮ったのは耳元で絞り出されたように紡がれた一言だった。

「良かった……」

私は、何でもかんでも理論立てて理由を求めようとする。
理屈を並べてばかりではいつまで経っても他人を理解することは出来ない。

人の起こす行動の全てに理由があるわけではない。
抱き締めたかったから、抱き締めた。
今この瞬間のように、理由を付けてはいけない時だってあるのだ。

「チ、チリ?」
「帰ってきて、良かった。……逃げ出したんやないかって、このまま帰ってけえへんかったらどないしよう思て……」

怒りと、不安と、それから――後一つは何だろう?
息苦しい程に私の身体を抱きしめる理由が、隠された“その後一つ”であることは明確だった。

“逃げ出したかと思った”
“帰って来なかったらどうしようかと思った”

少なくともチリの中で、葛藤があったのだろう。
そんな様子はおくびにも出さなかったくせに……とは、言い切れなかった。
それは私が気付かなかっただけで、現にこうして吐き出された言葉が、彼女の心境をそのまま準えている。

チリにとって私は、何かに付けて一筋縄ではいかないから、どんな行動に出るのか予測ができない。
いつも連絡をするのは自分からであるし、一向に関係は変化せず、自分から持ちかけた偽装婚約関係を破綻させ、半ば無理矢理同棲にまで持ち込んだから、嫌気が差して逃げ出したとしても何ら可笑しく無い状況だと、考えたのかもしれない。
とはいえ、これはただの推察に過ぎない。推察で、想像で、その通りなのかもしれないし、そうで無いのかもしれない。

こんな時、気の利いた言葉を掛ける事が出来たなら、苦労はしない。
今、彼女は私にどんな言葉を求めているのだろうか?
この行き場の無い手は、どうしたらいい?

「う……あ……うぅ」
「……ははっ、なまえ? そう言う時はなぁ、チリちゃん大好き言うて、ぎゅうっとしてくれたらええんやで?」
「チリ、自分に嘘はつけないよ。嘘はダメ」
「自分、ついさっき目ん玉でクロールしとったくせによう言うわ」

こんな時でも線引きを忘れない私なのだった。

身体を包み込んでいた腕が解けてしまって、チリは眉を下げて困った様に笑うから、思わず彼女のシャツの袖を引いた。
せめて、何か一言掛けなければいけないと、らしくも無い事を思ってしまったのも全部、チリのせい。

「ぶ、文献も!」
「……文献?」
「生態をまとめたデータが入ったパソコンも、調査に必要な道具一式も此処にあるから……その、逃げ出したり、しないから。だから……ちゃんと帰ってくるよ」

一体、私は何を言っているのだろうかと思った。
こんなの、自分じゃない。だって私は確かにチリから離れたかったのだから。
こんな奴とは一緒に住めないと思われる為に画策しようと、それこそ今朝方心に決めたばかりだった。

自分でもらしくないと自覚しているのだから、チリにしてみたら、もっと理解し難い状況であるに違いない。
チリは、双眸を見開き自分の袖を引く手を一瞥して、私を見つめる。
そして、突然吹き出したかと思うと、ケラケラと笑い出した。解せない。

「ふは、はははっ」
「何で笑うのかな!?」
「いやいや、堪忍な……でも、そっかぁ。ん、ありがとう。嬉しいで?」
「いや、別に喜ばせるために言ったわけじゃ……」
「違うん? チリちゃんがしょげとったから、なまえなりに慰めてくれたんやろ?けどまあ、そこはアレやな……文献やらパソコンに負けっぱなしいうのも気に食わへんな」
「?」

なぜ彼女はいつも私を置いてけぼりにして、自己完結してしまうのだろう?

徐に伸びたチリの手が頬へ触れる。
そのまま顔を寄せてくるから、思わず歯を食いしばって、きつく目を閉じた。
この流れは先日、そして今日の昼間にも経験した。キスをされる流れだ。

決して受け入れる為に目を閉じたわけではない。避けられなかったから、罷り間違っても舌が突っ込まれないように歯を食いしばって唇を閉じ、目を力の限り瞑ったのだ。
私の顔面は強固な砦であるので、どんな手を使っても突破することは不可能だ。

「ひっ!?」

しかし、あっという間に、難なく顔面砦は突破されてしまう。
彼女の唇は、私の額にそっと押し当てられたのだ。
ちゅ、と鼓膜を揺らしたリップ音は私の羞恥心を存分に煽った。

額を両手で覆い隠し、目を剥いて、何をするのかと睨めつければ、チリは動じる仕草を微塵も見せる事なく自信に満ちた笑みを湛えて言う。

「いつか、“チリちゃんがおるから帰ってくる”って、言わせたる」
「っ!」

覚悟しろと言ってのける彼女は、これ以上ない程に彼女らしくて、いっそ清々しく感じられてならなかった。
今更ではあるが、私は余計な事をしてしまったと心底自分の行いを悔いたのだが、それすらもう手遅れなのだ。

20230305




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