「しはぁん……可愛い継子(仮)がただいま戻りましたよー……しはぁん……」

“しはぁん”とは一体誰だ?嗚呼、俺か。
俺は決して“しはぁん”などではなく、師範だが。
そして自分を可愛い継子と呼んだ事に関しては、もはや何も言及するまい。
いつ何時も決して(仮)を付け忘れない所は何とも彼女らしく、つい失笑してしまったが、まあいいだろう。
相変わらず俺となまえは良くも悪くもこんな感じであるので、今ではもうすっかり慣れてしまった。

情けない声で水柱邸の門を潜る奴は十中八九なまえであるので――なまえ以外にはいないので、今日も今日とて“疲れた”だの“もう働きたくない”だの、いつもの調子で不平不満を垂れながら任務報告来をしにやって来るものだとばかり思っていたのだが……。

腑抜けた声はいつも通り。しかし、彼女が口にしたのは不平不満よりも先に俺であったから、不思議な事もあるものだと思いながら玄関まで出迎えてやると、そのあまりに変わり果てた風貌に双眸を見開いた。

「戻ったか。何をそんな腑抜けた声を出し、て――!?」

それはまるでボロ雑巾か何かのような酷い草臥れ具合で、急ぎ治療を施す程の大怪我は見受けられないものの、顔や手足には切創やら擦過傷、おまけに挫滅創――と、決して楽観視はできない程度には負傷しているらしい。

そればかりか、隊服も所々切り裂かれ、破れ、その下からは白い肌が覗いているし(目のやり場に困る)、そして何より衝撃であったのは、日々の手入れを欠かさない彼女ご自慢の濡羽色の髪がバッサリと肩に掛からない長さにまで短くなっていた事。
出立前には高い位置で結えられていた筈の髪が今では見る影もなく、そのザンバラ髪といったら長さが左右非対称で目も当てられない。

「一体どうしたんだその格好は……!」
「うぅ……最悪です……」

まさにその一言に尽きると思った。
それ以上、現状を嘆く彼女にうってつけの言葉は見当たらないくらいには、言い得ていた。

常日頃、身なりに気を使っていたなまえを知っているからこそ気の毒でならなかったし、かと言ってどうしてやる事も出来ず――。
悲惨な現状に打ち拉がれる彼女を前にして、流石の俺でも修行不足だとして叱り飛ばす事も、鍛え直すよう活を入れる気にもなれないくらいには、目を覆いたくなる、それは惨状だった。
もっと言えば、可哀想に――と憐憫の情すら沸いて来る。

なまえが斯々然々で――と、その仔細を語り出したところで一先ず手当が先だと彼女の手を引き、上がるように促す。

「来い。取り敢えず先に手当だ。何で蝶屋敷に寄らなかったんだ?」
「大した傷じゃ無いので帰ってから手当すればいいと思ったんです。蝶屋敷に寄ったら遠回りだし……屋敷には師範がいると思って……」
「はぁ……仕方のない奴め」

だから開口一番、俺を呼んだのか。
もしも俺が任務に出ていたらどうするつもりでいたのかと呆れたが、結果的に自分は屋敷に居たのだから、まあいいか。

薬やガーゼ、包帯といった手当に必要な一通りの物は常備してある。
棚から応急箱を取り出して消毒を済ませると、手際よく軟膏を塗り、必要であればガーゼと包帯を巻いてやる。

「いだだだ! ちょ、もっと優しくして下さいよ!」
「この程度の事で音を上げるな。……まさかとは思うが、その格好のままで街中を歩いたんじゃないだろうな?」
「当たり前です。流石に私だって恥じらいの一つや二つ持ち合わせていますから」

手を動かしながら、目のやりどころに困るその格好について問うと、なまえはいつもの調子で「人目に付かないように、夜な夜な帰って来たんですから」と、口を尖らせながら答えた。

ほう、お前にも恥じらいがあるのか。
知らなかったな、いつも俺の前ではそんな素振り微塵も見せないしな!

今までの事を思い出し、彼女の言葉に反駁を加えてやろうと思ったが、ぐっと堪えた。
思わず口を衝いて出そうになったが、ここでつまらない意地を張ったところで、どうこうなるわけでもなし。

溜息を吐いて自分の着ていた羽織を脱ぐと、そのままなまえに差し出した。

「取り敢えず、これでも着ていろ。その格好は流石に目のやり場に困る」
「……師範、まさか私の事をそんな目で? ――痛っ!!」
「寝言は寝て言え、馬鹿者」

仮にもなまえは怪我人であるが、それだけの減らず口が叩けるのだから手刀の一つや二つ脳天に落とした所で、精々今の怪我にたん瘤が加わるくらいだろう。

痛みのあまり、なまえは瞳にうっすらと涙を浮かべ、頭を擦りながら大人しく羽織に袖を通す。
初めから黙ってそうすればいいんだ。愚か者め。

一通り手当をしてやって、幸い縫合が必要な程の大きな怪我は無く安堵した。この程度の軽い怪我ならば後が残る事もなさそうだ。
ただ、思うところがあるとするならば――頬に出来たこの切創ぐらいか……。
深くはないが、うっすらと血が滲んでいる。
そっと傷に触れると少し傷んだのか、なまえは小さく身を震わせた。

「な、何ですか……? お説教は聞かないですよ!?」
「そうしたいところだが、まあ、今はいい。それよりも、鬼狩りであるお前にこんな事を言うのは筋違いなんだろうが……顔はあまり傷付けるなよ」
「へ?」

そんなに俺の発言は的外れだっただろうか?
嗚呼、そうだろうな……鬼殺の剣士たるもの、たとえ手足がもげようと身を投げ出し、命をも投げ出し、身を挺して鬼と戦い、人々を守る。それが使命だ。
そんな中で、顔に傷を作るなだなんて笑い種以外の何であるのか。
それでも、言葉を紡がずにいられなかったのは何故かと問われると、よく分からなかった。
自家撞着に陥っていると分かっていても、伝えずにはいられなかったのだ。

「……勿体無いからな」

静かに告げれば、彼女は頬をほんのりと色付かせた。

「――っ! な、なに恥ずかしい事言ってるんですか……錆兎さんのくせに」
「おい、それはどう言う意味だ」
「そのままの意味ですけど!」

本当、何を言っているのだろうな……俺は。
今この瞬間だけは、なまえの言い分に全面同意する他無かった。

それから、師範呼びが取れている。
久しぶりに“錆兎さん”と呼ばれて、その響きは何だかとても懐かしかった。
義勇にも真菰にも炭治郎にも――そしてそれ以外の皆からも飽く程に呼ばれ慣れた名である筈なのに。

なまえの頬へ大判のガーゼを貼り付けてやって、そのままざんばらになった髪に指を絡める。
乱れて、ちぐはぐな長さに切れて、不恰好になってしまっても、その指通りはさながら絹糸のようだと思った。

「この酷い有様も含めて、鍛錬が足りんな」
「……油断しちゃったんですよ。それより、真菰さんはお留守ですか?」

初心で愛らしい少女のような表情は影を潜めてしまって、またいつも通り愛想が無く、掴み所の無い彼女に戻ってしまった。
欲を言えばきりが無いし、一瞬であれど見た事の無い表情が見れたのだから、良しとすべきなのかもしれない。そう割り切っておいた。

「真菰なら、今し方任務が入って屋敷を発ったばかりだ。お前と入れ違いだったな」
「ええー! そ、そんな……真菰さんが戻るまでこのままだなんて殺生な……髪を整えてもらいたかったのに」
「……ふむ、そういう事なら少し待ってろ」

救急箱をしまって、その引き換えに鋏を持って戻ると、なまえはまるでこの世の終わりのような顔をして鋏と俺の顔を交互に見た。
何も言わずともその表情が彼女の心境をそのまま表しているかのようだった。失礼な奴め。

「し、師範が切るんですか!? 嘘でしょう!? 冗談はその脳筋だけにして下さいよ!」
「喚くな。しれっと失礼な事も言うな。仮にも師範に向かって」
「結構です! 髪は女の命ですよ!? その意味わかります? 私、尼になんてなりたくありません!」

どれだけ俺に髪を切られたく無いのだろうか?
そして、どれだけ俺は彼女に信用されていないのか。
鋏で坊主にする方が髪を切るよりも難易度が高そうであるが……。
その必死さをほんの少しで構わないから稽古に向けてもらいたいものだと思いながら、大判の布をなまえの首へ巻き付けた。

「心配するな。昔先生の元で修行をしていた時は、俺がよく義勇と真菰の髪を切ってやってたんだ」
「へぇ……それは意外でした」
「動くなよ?」
「はーい……あ! 師範!」
「な、何だっ!? 動くなと言った側から振り向くな!」

それは、襟足に鋏の刃を差し入れようとした時だった。
動くなと警告した側からなまえはこちらを振り向き、仰ぎ見る。
お陰で、襟足部分の髪を根こそぎ持っていくところだった。髪は女の命なのだと豪語したくせに自ら手を下してどうする。

「揃えないでいいですから」
「は?」
「だから、横髪は左右対象にしなで下さい。片方だけ肩に掛かる長さのまま残しておいて下さいね。後ろと、横髪以外のバラバラな長さになっている所だけ揃えて整えて下さい」
「お前がそれでいいと言うなら、そうするが……」

片方の横髪だけが不自然に長いまま、左右非対称のこの髪型を敢えて選択すると言うならその通りに鋏を入れるまでだが、そんな突飛な髪型で本当にいいのだろうか?
その髪型を選ぶ真意というか、センスと言った所は彼女自身の問題であるのだから俺はこれ以上何も言わないでおいた。
なまえに指示されるがままに鋏を入れて、出来上がった所で布を外して鏡を手渡すと、鏡に映った姿を見た彼女は満足気に頷いた。お気に召したらしい。

「ほら、出来たぞ」
「おお、意外と器用なんですね、ありがとう御座います」
「意外は余計だ」

そして、彼女はボロボロの隊服のポケットを漁り、何かを取り出した。
一体何だろうかと、なまえの手に握られた物を見ると、それは昨晩まで彼女の髪を縛っていた結い紐だった。

いつだったか俺が彼女に贈った結い紐は、もうその役目を果たせない。
結ぶ髪が無い彼女には結い紐なんて必要がない。つまりはお役御免と言うわけだ。
そう思うと、少しばかり惜しい気もした。
なまえの髪を縛っていたそれは俺を連想させる宍色であったから、結えた髪が揺れる度に目を惹いて、その度に悪くないと目を細めたものだった。

すると、なまえは不自然に長く残した横髪を慣れた手付きで三つ編みに結う。そして、その先を結い紐で縛った。

「うん、いい感じ」
「その為に片方だけ髪を残したのか?」
「はい、この結い紐気に入ってるので。どうです? 似合うでしょう?」

そこは、“似合いますか?”と問う場面ではないのだろうか?
“似合うでしょう?”と問う所が、彼女らしさで言えばこの上ないくらいのらしさであったので、またしても失笑してしまう。

なまえは、俺の心情を知ってか知らずか返事を待たずして、満面の笑みを浮かべて見せた。

「……ああ。よく似合ってる」
「そうでしょう、そうでしょう!」

そんな風に笑うお前は初めて見たな……全くもって悩ましい。


それから問題のボロボロになった隊服についてだが――後日、恋柱の甘露寺と瓜二つの助平隊服とやらが届いたので早急に処分したのは言うまでもない。
存外、なまえは乗り気であったが、あんな物、冗談ではない。
そういえば、なまえは自分にも恥じらいの一つや二つ持ち合わせていると言ったが、そんなものは実に取るに足らない芥子粒のようなものだったのだなと思わずにはいられなかった。
あんな目のやり場に困る服を恥じらいと思わない時点で終わっている。

ともすれば、その感性の箸にも棒にも掛からなかった俺は一体全体何であったのだろう?
考えると腹立たしくなったので、これ以上は何も考えまい。


20230209


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