「ああ、真菰か」

そこに他意は無く、何気無く口にしただけだった。
しかし、これが失言以外の何物でもなかったのだと気付いた時には既に遅かったらしい。
正に、綸言汗の如しとはこの事だ。

当然、真菰がそれを聞き逃してくれる筈も無く、にんまりと笑んで揶揄うような口振りで問う。

「私でがっかりした?」

また突拍子の無い事を。
含みのある笑みを眼下に捉えつつ、嗚呼、また厄介な奴に捕まってしまったと溜め息を吐く。

「はぁ……一応聞くが、なんの事だ?」
「あー、誤魔化した」
「誤魔化して無い」
「誤魔化してるよ。素直に認めればいいのに。帰ってきたのがなまえじゃなくて私でがっかりしたって」

そんな事は決して無いのだが、不思議なものでこうも自信に満ちた口振りで言い切られてしまえば、無意識の内に態度や表情に出てしまっていたのかもしれないと思えてくる。

確かに、俺はなまえの帰りを待っていたとも。
けれど、それはこれから向かう任務に継子である彼女を同行させる為だからであって、真菰が期待しているような愛だの恋だのといったくだらない動機は一切含まれていない。
単独任務に出ていたなまえから、昼までには戻れそうだと鎹鴉を通じて連絡が入ったから待っていた。
ただそれだけ。

「そうじゃない。もう直ぐ戻ると連絡があったから、任務になまえを同行させようとしていただけだ」
「ほらやっぱり。なまえが帰ってくるの首を長くして待ってたんでしょ?」

“首を長くして”という言い回しが引っ掛かかるが……まあいいだろう。
此処で反論すれば話が長くなる。
これ以上余計な詮索をされるのは御免だ。

「まあでも、もうすぐ帰ってくるんじゃない? ……多分ね」
「多分?」
「さっき街でなまえを見かけたんだけど……なんて言うか、あの雰囲気は邪魔しちゃ悪いなぁと思って」
「どういう事だ?」

はっきり言えばいいものを、真菰は奥歯に物が挟まったような物言いをする。

真菰の事だ。街でなまえの姿を見かけたのであれば声の一つでも掛けそうなものだし、寧ろ声を掛けてそのまま一緒に帰って来そうなものだ。
それなのに、彼女は一人で帰ってきた。何故だろうか?
邪魔とは一体なんの事で、歯切れの悪い物言いをせざるを得なかった事柄とは一体何だ?
相手が義勇や炭治郎であれば……やはり結論は同上となるだろう。
要するに、真菰が声を掛けるのを躊躇う程の相手となまえは話していた事になるが、果たして……。

「あ、そういえば最近、なまえと仲良くやれてるみたいで安心したよ。よかったね」
「(話を逸らしたな……)仲良くも何も、別に普通だろ」
「いい関係が気付けてると思うよ? 茶屋で悩んでいた頃に比べたら大進歩じゃない。だって、錆兎も膝枕してもらうくらいなまえに気を許してるんでしょ?」
「んなっ!?」

何故、お前がそれを知ってるんだ!

真菰は先程よりもその憎たらしい笑みを濃くして此方を見やる。
その様は、完全に俺をおちょくって楽しんでいるように感じられた。

しかしながら、いくら揶揄いの眼差しを向けられたとしても、現実はまさに彼女の言葉通りであったのだから流石に言い逃れは出来なかった。
今更言い訳なんて見苦しい。男らしくない。
どんなに理不尽であっても、軽率であったとしても……男なら、自分のとった行動に責任を持つべきなのだ。

……と、しかつめらしく述べたところで所詮は膝枕の話なのだけれど。

あの時、半ば無理矢理だったとはいえ膝枕を受け入れ、たったの三十分の間で熟睡してしまった事を何より驚いたのは他でもない自分自身だった。

なまえのせいだ。
髪を撫でる手付きも、膝の柔らかな感触も、彼女の温もりも――その全てが心地よかったから。

「あんなに気を許して無防備に眠る錆兎は初めて見たからびっくりしたよ」
「それ以上、何も言わないでくれ……男の矜持に関わる……」
「大丈夫! 義勇には言わないから。私の気配に気付かないくらい熟睡してたんでしょ? うんうん、いい傾向だよ」
「何が……」

継子の膝枕で眠りほうける師範など、威厳のかけらも感じられない。
そればかりか、その程度と言ったら水柱としての沽券にまで及びかねない怠慢だ。

これ以上は何も言ってくれるなと、背けた顔を片手で覆い隠す。

「そんなに照れなくてもいいのに。……私はね、とっても嬉しいんだよ?」
「……何でお前が嬉しいんだ? 揶揄って楽しんでいるようにしか思えないんだが」
「あ、それもちょっとあるかも」
「おい」

「あはは、冗談だよ」と真菰は戯けてみせるが、冗談ではなく限りなく楽しんでいるように感じられてならない。
溜め息を吐いてみても、俺がなまえの膝で眠りほうけた事実は何も変わらないのだ。

ただただ驚いた。短時間だったとしても熟睡してしまった自分自身に。
確かに疲れは溜まっていたが、正直眠るつもりはなく、ただ目を閉じて身体を休めるつもりでいただけに、なまえに起こされて意識が浮上した時には暫く放心したくらいだ。

真菰の言う通り、それ程まで俺はなまえに気を許しているという事なのだろうか?

いや、そんなまさか。
俺となまえの間にある繋がりなんてものは“師範と継子”、“同門の好”せいぜいこのくらいの筈だ。
それでいい。それ以上の感情など不要だ。

「ただ……ああいう性格だからか、なまえといるとどうも気が緩んでしまってかなわない……という感覚は、ある」
「うんうん、それで?」
「それで?」
「その先だよ」
「? その先なんてないが……」

今日の真菰はいつもに増して表情が豊かだった。
揶揄うような笑みを浮かべたり、瞳を輝かせてみたり――白けきった目つきで俺を見たり。

「うっそ、信じらんない……ここまできてまだそんな答えになるの?」
「何だ、言いたい事があるならはっきり言え」
「……私が言っても意味ないっていうか、錆兎自身が気付かないと駄目だと思う」

真菰は、俺に“何か”を気付かせようと躍起になっているようだったが、俺には彼女の意図するものの欠片すら伝わっていなかった。
彼女曰く、俺自身が気付かなければ意味がないらしい。
正直、まどろっこしい事は好かない性分であるし、これが俺自身の問題であるならば、それこそ時間が解決してくれそうな気もする。
だから、それ以上は考えない事にした。これ以上言葉を交わしたところで禅問答の堂々巡りだろう。

「(それにしても遅いな……)」
「なまえ遅いね?」
「……人の心を読むのはやめろ」
「そんな目で門を見つめてたら誰だって分かるよ」

だから、それは一体どんな目だというのか……。

「そういえば、街でなまえを見かけたんだろう? 珍しいな、お前が声を掛けずに帰って来るなんて」
「うん。だって、相手は炎柱の煉獄さんだったし、流石に私だって話に割って入るのは遠慮しちゃうよ。それに、あんなに嬉しそうな顔で話してたら……尚更、声なんて掛けられないでしょ?」
「!」

煉獄――その名前を聞いて、思わず反応してしまった。
それこそ条件反射のように、無意識の内にピクリと眉を顰めたのを、真菰は見逃してくれなかったようだ。

「そんなに心配なら迎えに行けば?」
「心配なんてしてない。それに、なまえは煉獄に憧れていると言っていたからな。至極真っ当な反応だろ」
「……何だか無理矢理言い聞かせてない?」

馬鹿馬鹿しいと切って捨てる俺の態度が気に食わなかったのか、真菰は「んー」と、手を口元にあてがいながら思案して、ポツリと一言零す。

「女心と秋の空……って、言うよね」
「ん?」

先日、なまえは煉獄に対して抱いている感情は愛だの恋だのと言った代物ではなく、純然たる憧れだと断言していた。
だから、彼の名前を聞いても俺が危惧する必要などないし、あまりにも嬉しそうだったと様子を聞かされても、俺が気を揉む要素はどこにもない。

「なまえ、煉獄さんの継子になったりして」
「は?」

その端的で的確な一言は俺から余裕を取り上げるには十分すぎた。

「何言ってる。なまえは俺の継子だぞ?」
「でも、なまえはまだ錆兎の継子“(仮)”なんでしょ?」
「……!」

継子(仮)。カッコ仮。
よくよく考えてみれば、そのあたりが曖昧であるが、なまえは未だ正式な継子ではなく、カッコ仮である事を失念していた。
最近、俺の事を師範と呼ぶから。辞めたいと喚くことも、脱走癖も影を潜めていたからついうっかり仮である事が頭から抜け落ちていたのだ。

確かになまえは了承したけれど、それは俺の継子(仮)である事を了承したに過ぎない。
随分とややこしいが、初め彼女は仮ですら了承していなかったので、今の俺たちの関係は《師範と継子》ではなく《師範と継子(仮)》と言うことになる。

そうなれば、これは由々しき事態だ。
それこそ、俺の継子に迎えたかったと煉獄から言質を取ったばかりではないか。
先程まで取るに足らない些末な事柄だと胡座をかいてふんぞり返っていたが、それどころでは無くなった。

「迎えに行くの?」
「……あまりに遅いと任務に支障が出るからだ」
「(素直じゃないなぁ)錆兎」
「何だ?」

門を潜る手前、呼び止められる。
振り返ると、揶揄うでも呆れるでもなく、やけに落ち着いた面持ちで真菰は口を開いた。

「あとは錆兎が素直になるだけだよ」

正直、その言葉の意味が分からなかった。

けれども、それは俺の事を見透かしたかのような眼差しで、俺自身より俺を知った風な口振りであったから、それ以上何も言葉を返す事ができなかったのだ。
何の事だと問い返す事すら無粋に感じられるほど、彼女の言葉は核心に迫っているように感じられて、妙な感覚に陥ってしまう。

素直に、などと。
それが分かれば、なんの苦労もしないのに。

***

水柱邸を出て、なまえの目撃情報があった街の大通りを目指して歩を進める。
心なしか歩調が普段よりも早くなっている気がするが、そんな事を気に留める余裕など今は持ち合わせていなかった。

“煉獄さんの継子になったりして”

真菰があんな事を言うから。
それに、なまえもなまえだ。任務が済んだのならさっさと戻って来ればいいだろう。
何事にも気を取られず、脇目もふらず、真っ直ぐに俺の元へ帰ってくればいい。

ぐるぐると渦巻く思考と、腹の底から湧き上がる如何ともし難い感情に苛まれながら大通りへ出ると、大した時間を要する事なく直様見知った姿を視界にとらえた。

「あ! 師範ー、ただいま戻りましたっ!」

今までこんな風に弾んだ声で、満面の笑みで、彼女が俺を呼んだ事があっただろうか?
いつに無く上機嫌である理由を尋ねずとも知っているので、手を振りながら此方へ駆けてくるなまえの姿を正直複雑な心境で見つめていた。

分かっている。嫌と言うほど実感じている。
俺では、なまえにそんな表情をさせることが出来いのだと。

ポタリ……と、心の中に“何か”落ちたような気がした。
それはまるで一滴の雫のように、波紋状になって広がってゆくようだった。
じわりと溶けて、滲んで、蝕んでいくような。

「遅いぞ。また何処かで油を売っていたんだろう?」
「油を売るだなんて失礼な。帰って来るなりお説教ですか? ちゃんと帰って来たんだから別にいいでしょ?」

「……折角のいい気分が台無しですよ」と頬を膨らませ、外方を向く彼女のぞんざいな態度に、またしても眉を顰めた。
なまえの言葉通り、こうして戻ってきたのだからそれだけで十分な筈であるのに、どうして俺の心はこうも穏やかでないのか。

「まさか、私の帰りが待ちきれなくてわざわざ迎えに来たんですか? なーんて――」
「ああ」
「そうですか、そうですか……へ?」

予想外の返答だったのだろう。
なまえは、その言葉を聞くなり弾かれたように顔を上げた。
真ん丸な瞳をぱちくりとさせて、怪訝な表情を浮かべながら一歩後ずさる。

「……何を企んでるんですか?」
「企んでるのはお前の方じゃないのか?」
「はい?」

柄にも無く、真菰の言葉を間に受けてしまう自分がいる。
馬鹿馬鹿しいと切って捨てたのは俺自身であるのに。

「どうした、俺が迎えに来て困る事でもあるのか?」
「別に困る事はないですけど……その、意外だったって言うか……それより師範、何だか怒ってます?」
「お前がそう感じるのなら、そうなのかもな。……ただ、その“道草”が師範である俺の元へ戻るより優先すべき事だったのかお聞かせ願いたいものだ」
「えっと、何の事だかさっぱり……」

尚も惚けるなまえの態度に、また一つ苛立ちが募った。
一歩踏み出すと、比例するようになまえもまた一歩後ずさる。

普段は何とも思わない仕草すら、小さな歪みとなって俺から余裕と正常な判断力を奪ってゆく。

「回りくどかったか? ならはっきり聞くが、お前さっきまで誰と一緒だった?」
「さっき? ……ああ!」

先程の怒っているのかという問いに答えるのなら、概ね。概ねそうであると答える。
どうでもよかった筈の事柄も、嬉しそうにしているなまえを目の当たりにすると面白くなかった。
その証拠に、指摘通り言葉の端々には僅かながら苛立ちと怒気が混じっているからだ。
そのせいであるのか定かでないが、なまえは隠し立てすることなくあっさりと白状する。
「炎柱様ですよ」と。

「偶然、お会いしたんです! 緊張したけど、この間より沢山お話し出来てすっごく嬉しくて……!」
「……」
「しかも、見てください。ジャーン! 金平糖を頂きました! 家宝にします!」
「……」

なまえは隊服のポケットから小さな包みを取り出して俺に見せた。
俺はこの間も終始無言だが、なまえはそんな事は気にも止めずに滔々と喋り続ける。
炎柱様が、炎柱様は、炎柱様、炎柱様、炎柱様――。

「あーあ、もっとお話したかったなぁ。仕方ないですよね。柱はお忙しいから……」

嗚呼、気分が悪い。
これ以上お前の口からその名を聞くのは、酷く腹立たしい。

「また会えないかなぁ……またすぐ会えたら、偶然じゃなくてもはや運命では!? ねえ、師範もそう思いません?」

沈黙を貫く俺に漸く気が付き、違和感を覚えたのか顔を覗き込む。
「どうかしましたか?」と、何とも態とらしく。

「あー、師範。また眉間に皺が寄ってますよ? 糖分が足りてないんですよ、きっと。仕方がないなぁ、炎柱様から頂いた大切な金平糖を分けてあげます。特別です、よ――っ!」

金平糖を摘み上げた彼女の指先が徐に口元へと伸びる。

そこから先は無意識だった。
こちらへ伸びる彼女の手を荒々しく掴んで、力任せに引き寄せる。
指先から金平糖が滑り落ち、ポトリと足元へ転がった。

突然の事に踏ん張りきれなかったなまえは、勢い余って無抵抗のまま俺の胸元へ凭れる。
鼻先が擦れそうな距離で、眦が裂ける程に見開かれた瞳と視線が交わった。
ほんの一瞬、喧騒が止んで辺り一帯が静まり返ったような感覚に陥る。間近に感じられる彼女の息遣い以外の全ての音が消えてしまったかのような――。

「随分とよく回る舌だな。今すぐこの場でその口を塞いでやっても構わないんだぞ?」
「っ!」

低く唸るような声音に、なまえはピクリと身を震わせる。

此処が往来である事も忘れ、迫り上がった感情のままに振る舞ってしまった事に気付いた直後だった。
なまえは至近距離で悲鳴を上げる。
――否、悲鳴なんて可愛らしい物では無く、鼓膜を破かれかねない大音量の絶叫だった。

「わ、わわ、うわあああっ!」
「んぐ!?」

たった今、家宝にすると宣言したばかりの金平糖を、なまえはあろうことか包み紙ごと俺の口内へ放り込む。
混乱しているのだろう。彼女の家宝は一瞬でその姿を消した。
あとで嘆いたって俺は知らないからな。

なまえは勢いよく手を振り解き、胸板を押し退けて距離を取った。

「やっぱり今日の師範は変です……す、助平です!!」
「っ、!」

反論しようにも、口一杯に金平糖を突っ込まれているせいで叶わない。
仮であっても師範である俺に不名誉な台詞を吐き捨て、脱兎の如く駆け出してしまったなまえは、その俊敏な動きで人波を掻き分けて、あっという間に姿を眩ませてしまった。
名前を呼ぶ事も、弁解すらも満足に出来ないままその場に立ち尽くす。
助平だと吐き捨てられ、口一杯に金平糖を詰め込まれた滑稽な男がポツリと一人、取り残されていた。

常軌を逸した甘さが口内を満たしていて、段々と気分が悪くなってきた。
ガリガリ、ゴリゴリと豪快に噛み砕く様は、誰が見たって金平糖を食べているとは思わないだろう。

数日分の糖分をまとめて摂取した気分だが、噛み砕いた金平糖が喉元を過ぎても甘ったるくてかなわない。

なまえの姿は人混みに紛れてしまって見当たらなかった。
今し方彼女の手を掴んだばかりの掌を見つめながら、ポツリと呟く。

「一体何をしているんだ、俺は……」

20230513


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