その面持ちに覚えがあった。
いつの事だったろうかと、在りし日の記憶を引っ張り出しては頭の中に巡らせる。

あれは確か、母上が亡くなって間も無い頃だったように思う。
なまえが歳の近い男児と取っ組み合いの喧嘩をして(見事にのした)、煉獄家ではちょっとした騒ぎになった。
母上を亡くしたばかりであったから、きっと精神的なものだろうと事態を収めはしたが、何分、なまえは塞ぎ込んでしまって口を利こうとしなかったので、頭を抱えた父上の姿を今でも鮮明に覚えている。

もしかすると、何があってもなまえを守らねばと決意を新たにしたのはその時だったのかもしれない。

結局、なまえが“言いたくない”の一点張りであったから、父上はその理由を聞き出すまでに至らなかった。
その代わりに、俺となまえの二人だけの秘密だと。他言しない事を条件に彼女が口を開いたのは実に一週間後のことだった。
一週間など大した期間ではないかもしれないが、それは子供にしてみれば随分と長い期間だった事だろう。
活発で、口が達者ななまえが一週間も口を利こうとせず塞ぎ込むだなんて、それは、煉獄家にとってみれば未曾有の大事件だったのだ。

そして、それは今でも俺にとっては忘れられない一言になっている。

容姿について揶揄われたと瞳一杯に涙を浮かべ、なまえは言った。
押入れの中で膝を抱えて蹲ったなまえは消え入りそうな声で、確かこう言ったのだ――“私は他所の子なの?”と。


「あ、兄上……肩が痛いです」
「! あ、ああ……すまない。無意識に力が入ってしまったようだ」

なまえは痛みに顔を歪め、訴えた。
その声にはたとして、手を彼女の肩から退かせる。
俺はそれだけ動揺していたのだろう。無意識に力を込めてしまう程度には。

まさか、あれ程嫌がっていた見合いをすんなりと了承するとは、一体どんな風の吹き回しであるのか。
それが嫌で煉獄家を飛び出し、鬼殺の剣士にまでなった彼女が。

確かに、俺は鬼殺隊を辞めるようにと言った。
説得というよりは半ば無理矢理――半強制的に辞めさせるような形をとった俺であるが、それでも、望みは辞めて実家に戻るという事であって、見合いを勧めた覚えはこれっぽっちも無い。
だから、彼女の先程の発言には面食らってしまい、眦が裂けんばかりに双眸を見開いた。
なまえが見合いなどする筈がないと心の片隅で踏んでいたばかりに。

不意に文の存在に思い至る。
幾度か千寿郎と交わした文の存在をなまえには知らせていなかった為、もしかするとそれを読んでしまったのだろうか?
しかし、彼女の性格上、怒りこそすれ納得するとは到底思えない。

「千寿郎からの文を読んだのか?」
「手紙は、読みました……ですが、腹いせに丸めて屑籠に放ってしまいました……」
「よもや……」
「……ごめんなさい」

素直に罪を認める妹はやけに潔く、おかげで叱るタイミングを逸してしまった。
だとすれば、手紙を屑籠行きにした事を思うと文の内容に反発しての行動であろうから、やはりなまえが見合いを承諾するきっかけには成り得ない。文が原因でないなら、一体――。

「取り敢えず、炎柱邸に戻るとしよう。話はそれからだ」
「はい」

いつまでも往来で立ち話をする訳にはいかないし、いくら蝶屋敷から出ていく許可を貰っていても、なまえの体調は万全では無い。
腹の傷に障っても困るので、続きは炎柱邸で行う事にした。
いつもように闊歩するのではなく、控えめな歩調で緩やかに歩を進める。
顔は前方に向けているが、その手にはしっかりとなまえの手を掴んでいた。

「あの、兄上。そう手を掴まずとも、もう逃げ出したりしませんから」
「む、そう言った意味で掴んでいる訳では無いが……嫌か?」
「いえ、嫌では無いです。ただ、珍しいなと思いまして」
「はは。確かにな……偶にはいいだろう? 可愛い妹に、大好きだと言われて浮かれる兄を笑ってくれ」
「っ! あ、あれは……つい、勢いです。……もう! 幼い頃とは違うんですから」

その言葉に、先程思い出した記憶が再度脳内に流れ込んでくる。
嫌な感じがした。胸騒ぎにも似たそれは、まるで指の隙間を砂がすり抜け溢れ落ちるような――何かを失いそうな、そんな感覚だった。

「そうだな……もう、お前は幼くないから、尚更こうして繋ぎ止めておきたいのかもしれん」
「?」

小首を傾げるなまえを一瞥して、俺は再び前を向く。
解けぬようにしっかりと、その手を掴んだまま。

***

「茶を淹れてこよう。なまえは縁側で待っていてくれ。今日は天気がいいからな、ここで話すとしようか」

頷くのを見届けて、俺は厨へと向かう。
茶を淹れたのは久方ぶりだった。屋敷に戻るといつもなまえが淹れてくれたから、すっかりそれに慣れてしまっていた。

湯呑みを二つ乗せた盆を手に再び縁側へ戻ると、なまえはそれに気が付きふわりと微笑む。
その笑みに抱いた違和感は、やはり気のせいではなかった。何か拭いきれない不安と、胸騒ぎと、それから――。

片方の湯呑みを手渡し、本題を切り出す前に一度口をつけ、一旦気持ちを落ち着かせてから口を開く。
胸の騒めきの、その正体を確かめる為に。

「なまえ、何も急いで帰らずとも全快するまで此処に居ればいい。炎柱邸で過ごしてくれた方が俺も安心だ」
「ですが……」
「それから、見合いは無理にする必要はないぞ?」

父上の事を説得すると大口を叩いたものの、結局、見合いの席を仕切り直す準備が出来ていると文に認められていた事は変えようのない事実。俺が至らなかったばかりに。

だから、なまえが望まないと言うのなら俺は全力でそれを跳ね除けてやりたいと思う。
本当は見合いなどしたくは無い。そんなのは嫌だと首を振ってくれる事を、望んでいる。

なまえには人並みの平凡な幸せをと望んでいた筈なのに、それが自分の本心であると思い込もうとしていたのはいつからだろうか?
血の繋がりの無いこの妹を、俺はいつから手放す事が惜しいと思うようになったのか。

いつまでも子供では居られない。在りし日のままでは居られないのだ。
年頃になれば、それ相応の話が上がる事だって分かっていた筈なのに、蓋を開けてみれば俺は妹の“人並みの幸せ”を手放すよう画策しているのだから。

言祝ぐ事など、どうして出来ようか。
何処の馬の骨ともしれない男にくれてやるにはあまりに惜しいと思ってしまった時点で、俺はもう兄たる資格が無いのに。
逸脱した感情が腹の底で沸いている。フツフツと、澱のような感情が。

「文にはあのように認めてあったが、お前が嫌だと言うのなら、俺は――」
「……いいえ。嫌ではありません」
「! ……なまえ、しかしあれ程見合いは嫌だと、」
「大丈夫ですよ、兄上。今度は淑やかにしてみせます。尻を撫でられても顔面を殴る事なんてしないし、慎ましく振舞ってみせますから、ご安心を」
「なまえ」

「ああ、でも……腹の傷は残ってしまいますから、断られてしまいますかね」と、庭へ視線を向けたまま、なまえは眉を下げ困った風に笑う。
腹を摩りながら浮かべる笑みはあまりに自虐的であったから、いよいよ我慢ならなくなった。

「なまえ、何故こちらを見ない?」
「――っ、」
「どうした? 黙りとは感心しないな」
「……」
「なまえ、こちらを向きなさい」

再三呼びかけると、なまえは顔を俯かせたまま、小さく肩を振るわせる。
そして、おずおずと顔を上げ、こちらを向いた。

「何があった? 話してくれなければ分からない」
「何も……」
「うん?」
「十七年もの間、何も話してくれなかったのは兄上の方ではないですか……!」

“十七年”
その具体的な数字に、俺はハッとした。
俺を残して一人勝手に蝶屋敷を抜け出した事も、突然見合いをするなんて言い出した事も。
先程、兄上と言い淀んだ事も全部――。

「もしかして、胡蝶と話していたのを聞いたのか?」

なまえは、口を開く代わりに首を縦に振る。
コクリと小さく、僅かに頷いたそれは肯定の意だった。

俺は自分自身の軽率な行動を悔いるばかりだが、しかし、もう隠す事は無理であると悟った。
あの日の問いに、こんな形で答える羽目になってしまうなんて、誰が想像しただろう?

“私は他所の子なの?”

「やっぱり、私は他所から貰われて来た子だったんですね」
「なまえ、これには――」

これには訳がある。言い掛けて、言葉を喉の奥へと押し込めた。
今更、何を言っても俺の言葉など彼女に届くことは無いのだろう。全て紛い物に聞こえてしまうに違いない。

「沢山の迷惑をかけてしまいました。父上にも、母上にも、千寿郎にも。それから、兄上にも。……もう、これ以上迷惑をかけたくありません。今更ではありますが」

急に、そんな他人行儀に話すのはよしてくれ。
線を引いて遠ざけるのは。心を閉ざしたように笑うのは、よしてくれ。


“煉獄さん、いくら大切な妹だからと言って、少し過保護すぎではありませんか?”

これは胡蝶に言われ、なまえの素性を明かすきっかけとなった言葉であるが……嗚呼、そうかもしれない。
過保護なんて言葉では、とてもじゃないが言い表せない。

「……確かにそうだ。お前は、煉獄家と血縁がない。だが、たとえそうだったとしても父上と母上の娘であり、千寿郎の姉であり、俺の――……」
「……兄上?」

俺の妹である。
それなのに、何故その一言が躊躇われたのか。

「見合いは、しなくていい。しないでくれ」
「何を……」
「お前を手放す事が惜しい。もう、これ以上の誤魔化しはどうやら効かないようだ」

その華奢な身体を抱き寄せる。
腕の中に包み込み、抱き込んだ身体に目一杯縋り付く。

思考が追いつかないのか、なまえはされるがままだった。
抵抗する事もなければ、受け入れる素振りもない。

「……こんな感情は、もう兄ではないな。なまえ、よく聞いてくれ。俺は、お前の事を――」
「っ、」

腕の中の小さな身体がピクリと震えた。

“愛している”と告げた事に、後悔などあるものか。


20230421


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