親愛なる兄上に頬を張り飛ばされること早二週間。
――なんて言い方をすれば、未だ私達の仲は拗れたままだと誤解を招きかねないが、結局の所どうなったのかは当事者の自分自身ですらよく分かっていなかった。

この度の負傷は、何しろ鬼殺隊を辞めるよう兄上から宣告された直後の出来事であった為、事の重大さがこれまでの比でない。
それ見たことかと灸を据えられ、今度こそ弁解の余地なく煉獄家へと強制送還される未来が見える。
そうなったとしても、今回ばかりはそれを拒む権利などないのかもしれない。

一時的ではあるが意識を失ってしまったし、それこそ、初めて命の危機を感じた。

鬼殺隊こそ、私の生きる道――そんな風に驕り高ぶっていた自分が恥ずかしい。
今回の負傷にしたって、油断と慢心が招いた事態だ。
兄上に頼らずとも、守られずとも私は一人で大丈夫なのだと証明したいがばかりに無茶をした。己の能力を誇示したいが為に。
炭治郎くん達の増援を待っていれば、ここまで大きな怪我にはならなかったと、己の不甲斐なさと判断能力の欠如に深く恥じ入るばかりだった。

もう兄上の傍で肩を並べ、同じ道を歩む未来は断たれてしまうだろう。
親愛なる兄上の手によって。

皮肉なものだと思う。
けれど、これが現状だ。現状こそが全てなのだから。

昨日、蝶屋敷で休養中の私の元へ新しく打ち直された日輪刀が届いた。
無断で煉獄家から持ち出した刀は先の任務で折れてしまったのだ。

本来ならば、今度こそ大切にしなければと決意を新たにする所だろうが、道を閉ざされるであろう私には、その刀が酷く重たく感じられた。
無情にも新調された刀は、私の意思に背くかのようにみるみるうちに濃く、深く、そして鮮やかに――
色変わりの刀と呼ばれる日輪刀は、その刀身を真紅に染めた。
もう、振るうことは叶わないと言うのに。

***

蝶屋敷の廊下を行く最中、ちょうど中庭に差し掛かった時、木刀を手に素振りをする炭治郎くんの姿を見つけた。

善逸くんは柔軟を、伊之助くんは衰えた体力を取り戻すかのように屋敷中を走り回っているらしい。
私も彼ら程ではないが、日常生活を送るのに不自由無い程度には回復している。
本来なら、今頃私もあの中に混じって機能回復訓練に励み、鍛錬に精を出していただろう。
彼等と共に励み、精を出し、任務復帰に向け勤しんでいた筈だ。

どうして私はあの場に居られないのか――そう思うと、遣る瀬無い。
何度言い聞かせてみても、そこには悔しさと無念が募るばかりだ。

「あ! なまえさん」と、私に気付いた炭治郎くんが此方に駆けて来る。
病衣から隊服に着替えた私を不思議そうに見て、彼は問う。

「今日から任務復帰ですか? そう言えば、さっき煉獄さんも――ええっと、“お兄さん”も、此処にいらっしゃってましたけど……」

兄上の事を煉獄さんと呼びかけて私も煉獄だったと気付いたのか、炭治郎くんは“お兄さん”と呼び直す。
まったく、律儀な子だなぁ。

「ううん、私は今日から炎柱邸に戻る事になったの。それで今、兄上が迎えに来ていて」
「そう、ですか」
「?」

本来の彼ならば“よかったですね“、“煉獄さんに稽古つけてもらえるなんて羨ましいです”との言葉が返ってきそうなものだけれど、代わりに返ってきたのは彼らしくない歯切れの悪い返事だった。

炭治郎くんは鼻がよく効くそうだ。
それは通常、人が感じる嗅覚としての“匂い”だけでなく感情にも及ぶらしい。
だから、彼はお得意の鼻をクンと鳴らして私の感情を嗅ぎ取ってしまったのだろう。
その苦々しい表情が全てを物語っている。

「あの、なまえさん……また、任務ご一緒出来ますよね?」
「……そうだと、私も嬉しい」
「なまえさん」
「それじゃあ炭治郎くん、鍛錬頑張ってね。善逸くんと伊之助くんにも宜しく伝えておいて」

どんなに笑顔で取り繕ったって、彼の前では無意味で何の用もなさないと分かっていても、最後くらいは笑顔で別れたいじゃないか。

炭治郎くんと別れ、再び歩き出す。
足早に歩むと、塞ぎかけた腹の傷が少し痛んだ。
私の元に日輪刀が届いたと言うことは任務復帰が近いと言うこと。
大方、また何も告げずに任務に発ってしまうのを許すまいと、事情を聞き付けた兄上が蝶屋敷に私を迎えに来たのだろう。

過保護にも程があると呆れたが、それはただの表向きで――。
そこには監視の意味も含まれているのかもしれないと思うと、得も言われぬ寂しさを覚えた。

浮かない顔のまま廊下を歩んでいると、洗濯物を抱えたアオイさんが「炎柱様なら診療室でしのぶ様とお話をされていますよ」と教えてくれる。
私は、アオイさんに礼を告げて、診療室へ向かう。
身支度が整ったら声を掛けるよう兄上に言われていたからであるが、怪我人でもないのにそんな場所で、しかも二人で改めて話す事なんて、よっぽど重要な話なのだろうか?
そうでなければ、玄関先で待っていればいい。

腹の傷に触るので、そろりと摺り足で部屋の前まで行き至る。
扉をノックしようとした所で、扉一枚隔てた奥からは何やら話し声が漏れ聞こえる。
それは紛れもなく兄上の声で、ノックするのを躊躇ってしまう。思わず手を止めた。
大切な話の途中であるなら、少し時間を空けようか……そう思ったのも束の間、話し声がいつもの溌剌としたそれでなく、心なしか重苦しさが混ざっているように感じる。

「……(何の話だろう?)」

嗚呼、聞き耳を立てるなんて行儀の悪い真似をしたばかりに――。

「――なまえは、煉獄家の娘ではない」

「……え、」

一瞬、兄上が何を言っているのか分からなかった。
私が煉獄家の娘ではないと、確かに兄上は今、そう言ったのだろうか?

「……父も、母も、俺も、そして千寿郎も、なまえとは血縁がないんだ。勿論、この事はなまえに話ていない。千寿郎も知らない。知っているのは父と亡き母と俺だけだが――」

一歩、後退った。
扉の先ではまだ話が続いていたが、もう私の耳には何も届かない。

兄上が何を話しているのかよく分からない。

私が煉獄家の娘でははい?誰とも血縁がない?
じゃあ、私は誰で、何だと言うのだろう?
兄上は私の何であると、言うのだろう?

煉獄家で過ごした日々の思い出が一気に頭の中へ流れ込んでくる。
物心がついた頃からの楽しかった事、辛かった事、嬉しかった事、家族で過ごした思い出――兄上と共に過ごした日々。

平行感覚がない。
まるで鈍器か何かで頭を思い切り殴られてしまったような感覚に襲われて、立っているのか、座っているのか、歩いているのか、自分が何をしているのか、何も分からなくなった。

ただ、今まで自分が信じていたものが全て偽物で、その幸せは虚像の上に成り立っていたと言う事だけは良く分かった。

私は、兄上の待つ部屋の扉を開けることはせず――否、出来なかったと言う方が正しい。
踵を返し、この場を去った。
途中で再度すれ違ったアオイさんに何か声をかけられたけれど、やぱり良く分からなかった。

とてもじゃないが、今は兄上の顔をまともに見れる気がしない。
三週間ほど世話になった蝶屋敷に頭を下げて、誰にも何も告げずに屋敷を後にした。
タイミングよく任務が入ってくれないだろうかと願って往来を行く。
任務が入らずとも黙って蝶屋敷を出てきてしまった以上、またしても兄上に叱られる理由は出来ていた。

この街は、兄上との思い出が多すぎる。
よく連れて行ってもらったお気に入りの甘味屋も、食材を買いに寄った店も、任務の帰り共に肩を並べて歩いた街並みも、その道の先に続く炎柱邸も。

「(歩くの疲れた……お腹の傷も痛い……)」

居た堪れずに蝶屋敷を飛び出したが、結局私には行く場所なんてない。
こんな時でも、一番に思い浮かぶのは兄上の姿だ。
私の名前を呼んで、優しげな笑みを湛える尊敬する兄上の姿。
立ち止まり、俯いても。目を伏せても。何をしていても。

「なまえ」
「っ!」

――嗚呼、どうして。

耳に届いたのはとても優しげで、大好きで堪らない声だった。

「探したぞ? ……何故、一人で帰ってしまったんだ」
「あ……っ、」

“兄上”と、呼びそうになって言葉を詰まらせる。
それに違和感を覚えた兄上は双眸を瞬かせた。

勝手に蝶屋敷を抜け出した私をてっきり叱り飛ばすのだとばかり思っていた。
俯いた顔を上げた先の兄上の表情は……どうしてこんな時ばかり優しげに私を包み込むのだろう?

「うん? どうしたんだ、いつものように“兄上”と、呼んではくれないのか?」
「……」
「それとも、俺はもうお前の兄ではないか? ……先日、お前に初めて手を上げてしまった事は謝る。すまなかった……」

そうではない。怒ってなどいない。
あれは私が悪かったのだし、兄上が私を叩いたのは心配が故。窘めたその結果なのだから。

兄上は此方へ歩み寄り、再度俯いて足元を見る私の頬へ手を当てがった。

「……っ、」
「そう足元ばかり見ていないで、その愛らしい顔を兄に見せてはくれないか?」

金色の美しい瞳が私を映した。
それは、息を呑む美しさだった。
その瞳の色も、燃ゆる炎を思わせる髪色も、私には無いものだ。

「呼んで、も……いいのですか?」
「当然だとも。俺は、何があろうとなまえの兄であるのだから」

その言葉も、今だけは酷く息苦しく感じてしまった。
その笑顔も、私が本当の妹でないと知っていて何故、見せてくれるのだろうか?

勢い任せに、兄上の胸元へと飛び込む。そして、そのまま顔を埋めて目一杯抱きついた。

「兄、上……兄上……」
「うん?」
「大好きです、兄上……」
「! ああ、俺もだ」

反芻するように呼んでみても、やっぱり私は貴方の妹でありたいと思う気持ちはこれっぽっちも薄れないのだ。

「兄上、私……家に帰ります」
「それは本当か!?」
「はい。それで、兄上が喜んでくださるのなら」
「……あ、ああ。そう、だな。父上も千寿郎も喜んでくれるだろう」

そっと私を包み込むように抱き返してくれる腕の温もりに、いつまでも縋り付いていたい。
あやすように髪を撫でるその手つきがとても心地よかった。

「明日、炎柱邸を発ちます」
「明日? そう焦らずとも……」
「それから、見合いの話も受けようと思います」
「は?」

その言葉に、胸に抱かれていた身体は勢い良く引き剥がされる。
私を見下ろす兄上は瞠目し、両肩を掴む手が食い込んで痛かった。

私は今、うまく笑えているだろうか?
貴方の妹として、正しい顔で、正しい言葉を紡げていますか?


20230330


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