予め宣言しておくと、私は水柱様の継子になるつもりはない。
微塵も、毛ほども、これっぽちもその気はないのだ。たとえ、仮であっても。

何を勘違いしているのか知れないが、水柱様は、もうすっかり私が“仮”として継子になっていると思い込んでいるけれど――残念でした。私はそれすらも了承していない。

勘違いしないで頂きたい!

ここで言う水柱様とは義勇さんの事ではなく、彼と同門でありながら共に水柱としてその名を馳せる錆兎さんの事である。
共に水柱でありながら、義勇さんを端麗、美丈夫、眉目秀麗と喩えるなら、錆兎さんを準える言葉といえば精悍、勇猛果敢、豪胆。まさに柔と剛。
口を開けばやれ稽古だの、やれ継子としての自覚が欠如しているだの、やれ女としての恥じらいを持てだのと口酸っぱく言われるばかりで、正直、辟易としている。彼の説教には食傷していた。
だから私は水柱様――錆兎さんの継子になるつもりは毛頭ない。

そして今日も、私はこっそり錆兎さんの目を盗んで水柱邸を抜け出す。

錆兎さんを水柱様と呼び、同じく水柱である同門の彼を義勇さんと呼び分けると、先日何故か不服だと咎められてしまったのでその日から“錆兎さん”と呼ぶ事になってしまった。
けれど、私が彼を“水柱様”と呼んでおきながら“師範”と呼ばず一足飛びで“錆兎さん”と呼ぶのは、継子には決してならないという意思表示である。
彼をそう呼ぶ事で旗幟鮮明にしているのだ。だから、さっさと私の性根を叩き直すなんて無駄なことは諦めた方がいい。

とはいえ、これでもう何度目の逃亡未遂であるのか正直覚えていない。
未遂とはつまりそう言う事だ。逃げ出せた試しがない。いつも尽く回収されてしまう。
それでも、今日も今日とてそうせずにいられない私は、また錆兎さんの目を盗み水柱邸の門へ駆けていく。

いつもなら、そろそろ背後から彼の手が伸びて襟首を掴まれる頃なのだが――。

「んぶ!」

しかし、今日は背後ではなく正面からそれを阻止されてしまった。
背後ばかり気にして走っていたせいで、前を向いた瞬間私は顔面を何かにぶつけてしまう。
勢いよくぶつかったものだから反動で背後によろけ、尻餅をつく――そんな状況を想像した刹那、私の身体を支えるように背に回された手がそれを食い止める。

「大丈夫か?」
「義勇さん……!」

任務を終えて実に二週間ぶりに屋敷へ戻ってきた義勇さんは「すまない」と、落ち着いた声音で謝罪する。

「お帰りなさい!」
「ああ。ただいま」

次いで、そんなに急いでどうしたのかと問う義勇さんは、私の返答を待たずして想到したらしく、小さく笑んだ。
相変わらず美しい笑みだった。

「まだ諦めていないのか?」
「諦めませんよ! 嫌です、錆兎さんの継子なんて……」
「だが、錆兎は――」

義勇さんは言いかけて私の背後へ視線を向ける。
その直後、背後から悪寒がして、それが何であるのかを瞬時に感じ取った私は思わず義勇さんの背後に隠れる。

「なまえ?」
「か、匿ってください……!」

脱走に気づいた錆兎さんが苛立ちを孕んだ声で私を呼ぶ。

「なまえ! 何処だ! また性懲りも無く逃げ出そうなどと……!」

地面を踏む草履の擦れる音が段々とこちらに近付いて、そしてピタリと止まった。

「義勇、戻ったのか。おかえり」
「ただいま、錆兎」
「……それで、お前はいつまでそうしているつもりだ? 義勇の背に隠れていないでさっさと出てこい」
「う゛ぅ……」

一瞬で見つかってしまった。
柱である彼の目を欺こうなど、百年早かったらしい。
あからさまに不機嫌である錆兎さんに対して、はい分かりました! だなんてしおらしく言う事を聞けば、首根っこを掴まれて引き剥がされて、地獄の打ち込みと素振りの鍛錬が始まる。
だから、何が何でもそれを阻止したかったので、素直に頷くことなど到底出来ない。

「嫌です。鍛錬ならもう朝に済ませました」
「それは、“早朝”の鍛錬だろう? これから昼の鍛錬だ」
「嫌です。断固拒否します」
「なまえ!」

言って、義勇さんの背から半分だけ顔を覗かせて、羽織をぎゅうっと握る。縋るみたいに。
その様を見て、錆兎さんは額に青筋を浮かべた。
元々私を喝破するその圧が恐ろしいのに、剰え額に青筋を浮かべられてどうして素直に私が義勇さんの背から出てくると思ったのだろうか?
私の扱いが甚だなっていない。そんなことで私を継子(仮)だど公言するなんて、片腹痛い。

「だから、さっさと諦めてくださいね。“水柱様”」
「! だからその呼び方は……せめて“師範”にしろと言ったろう!?」
「嫌ですー。師範と呼べば、即ち、私は水柱様の継子になったも同義! お断りします!」

義勇さんを盾にするように、んべ!と舌を出して全身全霊で拒絶すると、錆兎さんは我慢ならないと今にも義勇さんを押し退けて私に掴みかからんばかりの剣幕で凄む。

「――っ、いい加減にしないか!」
「ひいっ!」

仮にも彼は柱で、私の階級は丁。
立場上、このような舐め腐った口の利き方は決して許されない。
そもそも継子にしてもらえる事こそありがたく、望むべくもない幸運事だと世間では言うが、しかし、そんなものに何の興味も抱かない私にとっては迷惑千万というか、ただのありがた迷惑でしかない。

それに、錆兎さんはすぐに怒るし、厳しい事ばかり口にするし……私は根性論者ではないので、寧ろ真逆の属性であるので、彼の言葉は一向に響かない。
“男なら”だとか“女であるなら”だとか……。
私の事が気に食わないなら、根性を叩き直す云々よりも放棄してくれた方が手っ取り早い。
どうしてそんな簡単な事が彼は理解出来ないのか不思議でならない。

「錆兎、そう怒鳴ってばかりではなまえも萎縮してしまう」
「そーだそーだ!」

義勇さんの言うことが最もだと言わんばかりに拳を突き上げながら彼の言い分に加担すると、これまた鋭い眼光で睨み付けられてしまい、背中に引っ込む。

「これが萎縮した奴の態度か? 義勇はなまえに甘すぎるぞ」
「なまえは、叱るより褒めた方が伸びる」
「! ……そんな甘い事ばかり言っているから、このていたらくなのだろう?」

何だか、一瞬場の空気が変わったような気がした。肌で感じ取れる、ピリッと張り詰めたような空気感だった。
恐る恐る顔を覗かせると、今度こそ錆兎さんは私を義勇さんから引き剥がして小脇に抱える。
首根っこではなく、脇に抱えたのは私がこれ以上抵抗をしても逃げ出せないようにする為だったのだと思う。

錆兎さんは義勇さんに「なまえが迷惑をかけたな」とだけ言って、今度こそ私を回収して中庭へ歩を進める。
蓋を開けてみれば、やっぱり今日もこの水柱邸から――基、錆兎さんから逃げ果せる事は叶わなかった。

「……」
「……」

一瞬変わった空気も相まって無言が一層恐ろしい。
いつものように叱り飛ばされた方が幾分もましだと思える程、重苦しく息苦しい。

突然、錆兎さんは歩みを止めて脇に抱えていた私をその場に下ろす。そして、眼下に捉えながら言う。

「お前は、俺が恐ろしいのか?」
「……えっと、その」

てっきりお説教が待っているのだとばかり思っていただけに、正直その問いには呆気に取られるばかりだった。
先程までの鬼のような形相とは打って変わって冷静に問う。
だから、彼の心情がいまいち読み取れず、よって、この場合の正しい返答が分からなかった。
言い淀む私に対して、錆兎さんは促すようにーー私が答え易くなるように言葉を加える。

「正直に答えて構わない」
「……怒らないですか?」
「善処する」

善処とは!
出来るだけそうするが、必ずしもそう出来るかと問われたら分からないといった言い回しだと、捉えていいのだろうか?
だとすると、この問答は限りなく私に不利だ。
思ったままを口にして、うっかり地雷を踏んでしまって、彼の怒りを買ってしまったら私はどうなる?
逡巡していると「どうなんだ?」と急かされ、仕方なく口を開いた。

「嫌いじゃない、です」

錆兎さんはなんとも言えない顔をしてしまった。
しまった。彼の求める返答と違ったらしい。

「えっと……つまり、その、錆兎さんはすぐ怒るし口煩いし……やれ鍛錬だ、やれ稽古だって面倒臭いし、男だから女だからどうのって根性論的な事ばかり言う所を除けば、好きです」
「……ほう」

一思いに吐き出して本心を伝えると、錆兎さんはその精悍な面に笑顔を貼り付け、額にはしっかりと青筋を浮かべていた。
考えてみれば今私が口にした事は、謂わば私に接する錆兎さんそのものを拒絶したようなものだ。
これらを取り除いてしまえば何が残るのかとばかりの排除っぷりである。

「お、おおお怒らないって言ったじゃないですか!」
「善処するとは言ったな」

全身の毛穴から汗が噴き出して、生命の危機すら感じてしまったら、私には逃げ出す以外の選択肢は無い。
僅かに身じろいだ、その隙すら錆兎さんは見逃さなかった。
瞬時に手首を掴んで逃走を阻止した。私の行動など彼はお見通しであるらしい。

「話はまだ終わってないぞ?」
「ソーデスネ」
「なまえ」
「ハイ」

はあ……と、ため息をついて彼は言う。

「俺は、見込みの無い者を構わないし、気に入らなければ傍に置こうとも思わん」
「?」
「お前が俺を恐ろしいと言うなら、出来る限り善処する。だから、義勇ばかりに懐いていないで――」

そこまで言いかけておいて、錆兎さんは自分の発言にはたとして、咳払いで誤魔化した。
彼の口から出た予想外の言葉に私は首を傾げる。

つまり、彼の言葉を総括すると――

「錆兎さん、寂しいんですか?」
「んなっ!」

いつも叱りつけてばかりである彼の、意外な一面だった。
「意外ですね」と、口にしながらその精悍な顔を覗き込むと、いつもの調子で怒鳴られた。

「そんなわけがあるか!!」
「だ、だって! さっき、義勇さんばかりに懐くなって言ってたじゃないですかー!」
「っ! お前と言う奴は、何故そう必要の無いところばかり……!」

やっぱり、彼は何が言いたいのかよく分からなかった。
理不尽な怒りを買ってしまったばかりに、今日も変わらず私は彼の厳しい鍛錬を半べそをかきながら努めるのだった。

20230121


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