ただただ、気まずい時間が流れるだけだった。
そこに息苦しさを感じているのは多分、私だけじゃない。
オモダカさんへの挨拶を済ませ委員長室を後にし、次の目的地である執務室へと続く廊下を横並びで歩くのは先程私の上司となったばかりのチリちゃん。

まさか昨日の今日でこのような展開が待ち受けていようとは。
人生ってのは時にとんでもなくファンタスティックである。

いくらあざけ皮肉ったところで現状は何も変わらないけれど。
嗚呼、叶うなら再会を果たした場面まで時間を戻して欲しい。
口にするのも憚られる昨夜の記憶を消し去りたい。

だが、決まってしまったものは仕方がない。
雇われの身である私への上層部からの口達とあらばどうしようもない。
チリちゃんが私の上司になってしまったものは今更覆せないのだから。
私の為に心を砕き腐心してくれたダンデくんの恩に報いる為にも。

それに、この状況下でいつまでも逃げ回っているわけにもいかない。
隣を歩くチリちゃんの様子を窺うように、恐る恐る口を開いた。

「あ、あのね……チリちゃん」
「自分、結構えっちな下着つけてるんやね」
「ファッ!?」

突然の爆弾投下。
心中で結成された、対チリちゃん防衛部隊は想定外のゲリラ爆撃によって壊滅し、消し飛んだ。

「ちょ、違っ、ばっ、チリちゃんんん!?」
「それにチリちゃん、なかなかのテクニシャンやろ?」
「んなっ、」

黒手袋をはめた手をわきわきと動かして、わざと私の羞恥心を煽る。
黒手袋って何だかエッチだなと、密かに性癖を擽られた事は今はどうでもいい。

意地悪な笑みに、せっかく抹消しようとしていた記憶がフラッシュバックして、顔が茹で蛸のように真っ赤に染まった。

「アハハ! 顔真っ赤やで」
「こ、これ以上の追い討ちは……色んな事が一杯一杯で死んじゃうからぁ……」
「堪忍な。なまえが可愛いから意地悪してもうた」

「これじゃあチリちゃんもあの頃の男の子と大して変わらんな」と、眉を下げて困ったように笑い、あやすような手付きで私の頭を撫でた。
思わずその表情に、仕草に、トクンと胸が高鳴ってしまったのは昨夜の出来事が原因であったからだと思いたい。

条件反射というか。
だってほら、チリちゃんってばお顔がめちゃくちゃ良いから。

けれど、私とチリちゃんの間に何かあったとしても職場では上司と部下の関係になってしまった以上、私情を持ち込むべきではない。
与えられた職務は全うしなくてはならないのだ。
その為にも、今一度昨日の出来事についてきちんと話さなくては。

「チリちゃん。今朝は、その……色々と迷惑を掛けたのにあんな別れ方して……ごめん」

絞り出すように言葉を紡ぐと、チリちゃんは小さく笑って一言「ええよ」と返してくれた。

「気まずかったんやろ? あんな事があった後やし」
「ごめんね」
「……まあ、正直言うたら少し堪えたけどな。チリちゃんの純情弄ばれた思うたわ」
「本当ニ申シ訳ゴザイマセンデシタ」
「なんで急に片言やねん」

シリアスな場面でもツッコミを欠かさないチリちゃんは流石だった。

さて、本題はここからだ。
誠心誠意謝罪して、昨日の事は無かった事にしてもらう。
自分勝手だと罵られても、今までのように友達に戻れなくても、それでも。

「それでね、チリちゃん……昨日の事は、」
「あーそれな、無かった事にはせえへんよ」
「へえ!?」

予想外の返答に先程と同様、素っ頓狂な声を上げてしまった。
即答された事にも驚いたけれど、そのものを拒否された事に驚きを隠せない。

「もうこの際、始まり方なんて正直どうでもええわ」
「んん!?」

チリちゃんは一歩こちらへ踏み出して、私との距離を詰めた。
それにつられて私も一歩後ずさる。
そのままあれよあれよと詰め寄られて、背中には壁の感触が伝わった。
つまりは、これ以上私に逃げ場はない。

私より頭一つ分抜けた背丈から見下ろす彼女の瞳は、昨夜と同じ色を滲ませていた。
その視線を浴びせられると、どうにも私は堪らなくなる。

手袋に覆われた指先は、スルリと私の輪郭をなぞって、唇へ辿り着く。

「チリちゃ……」
「せっかくの機会をみすみす見逃すわけないやん。絶対モノにしたるから覚悟しい」

それはつまり、どういう?
予想だにしない返答、想定外の展開――思考は愚か一時の呼吸すら忘れてしまった。

ゆっくりとチリちゃんの端正な顔が近付いてくるものだから、堪らず条件反射でギュウッときつく目を閉じる。
けれども、一向に何も起こらない。
唇に触れていた指は離れ、代わりに「忘れんといてな」と、一言だけチリちゃんは静かに告げた。

期待をしていたわけではないが、目を瞑ってしまった自分が恥ずかしい。
突き飛ばす事だって出来たはずなのに、よりにもよって目を瞑るだなんて。

「ほな、着いたから」
「え、着いたって……?」
「執務室。自分も荷物置いたら来てや。面接の準備せなあかんから」
「は、はい!」

いつの間に辿り着いていたのか。
結局、何の実りも無かった――結果的に押し切られただけの話し合い?は、執務室に到着した事で切り上げられてしまった。

「ああ、事務室はそこブワーッと行って、シュッと曲がった突き当たりの左手な!」
「ブワー? シュッ? え?」

分かったような分からないような。
チリちゃんは身振り手振りを加えて何とも豪快な道案内をして「ほなあとでな!」と何事も無かった様に執務室へ入ってしまった。

あまりの落差に呆然としてしまう。
委員長室から執務室までの僅かな間の移動で、まるでジェットコースターのように目まぐるしい濃密な時間を過ごしてしまったせいでどっと疲れが襲ってきた。
結局、チリちゃんは今後私をどうしたいのか。肝要な部分を聞かされていないような気がするが、今はもう色々とキャパオーバーで何も考えられなかった。

私もきちんと仕事モードに切り替えなければ。
己に言い聞かせたところで、突然執務室の扉が開くものだからビクリと肩を跳ね上がらせる。

「なまえ」
「ど、どうしたの? まだ何かあった?」
「んー、ええからええから」

問いかけるけれど、チリちゃんは私の質問に答えず、こちらへ来いとばかりにちょいちょいと手招く。
誘われるがまま駆け寄れば、チリちゃんの指が顎にかけられる。
そこからは一瞬の出来事だったと思う。

柔らかな感触が唇に触れ、チュッと可愛らしいリップ音を残して離れた。

「好きやで、なまえ」
「――っ、!」

満足げに笑むチリちゃんはあまりに眩しくて、目が離せなかった。
じんわりと胸に広がるそれは、幼い頃抱いた酷く懐かしい感情であったけれど、今の私には恋心と呼ぶにはあまりに時が経ちすぎたどうしようもない代物だった。

とんでもない置き土産を残して、今度こそチリちゃんは執務室に戻って行く。人の気も知らないで。
一人廊下に残された私といえば、ふらふらとよろけて壁に頭を打ち付けてしまった。

「初恋に……こ、殺される……」

その後、どうやって事務室まで辿り着いたのか記憶が無い。


20221213


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