「なまえ」
「え? チリちゃん……!」

まるで待ち伏せでもしていたかのように、リーグの通用口を出たところで声を掛けられ、思わず足を止めた。
ヒラヒラと手を振りながら「お疲れさん」と私を迎えてくれるチリちゃんは、甚く上機嫌だった。

こんな風に定時で仕事を切り上げた彼女と帰宅のタイミングが被ったのは久しい。
そればかりか、チリちゃんに待ってもらう事自体滅多にない事であるから、なんだか新鮮だ。
同じ職場でありながら、彼女の立場上その仕事量と言ったら私の比ではないので、今日みたいな事は本当に珍しい事だった。

「珍しいね、チリちゃんが定時で上がれるなんて」
「せやろ? 今日こそはなまえと一緒に帰ろう思て、頑張って仕事片付けたんやで?」

「褒めてや?」と、誰をも魅了する美しい笑みを浮かべるチリちゃんは、背を屈めて顔を覗き込む。
不意打ちは狡い。
以前、いい加減慣れて欲しいと言われたが、そんなのは無理な話だ。
私がチリちゃんに慣れる日なんて永遠に訪れない。
チリちゃんは魅力的だから。いつだって私を堪らなくさせる。

ぐっと近付いた距離に思わず息を呑む。
そして、みるみるうちに頬を染める私の反応がお気に召したのか、彼女は「ふは!」と悪戯に笑った。

「イ、イイコ……イイコ……?」
「! ん、ふふ……っ、ふふ……おおきにぃ」

どうしたものかと一瞬戸惑いながらもぎこちなく、ついでに片言で、差し出されたチリちゃんの頭を撫でると、何故か彼女は小刻みに肩を振るわせながら笑いを堪えているようだった。
何がそんなに面白いのかよく分からない。

冗談半分で褒めろと言ってみたところ、私が何の捻りもなくド直球で褒めたからだろうか?
だからと言って、そんなに笑わなくたっていいのに。

「何処かでご飯食べて帰る?」
「んー、それでもええけど……」
「うん?」

チリちゃんは何やら考え込んだ後、思い立ったように口を開く。その瞳はキラキラと輝いていた。

「久しぶりになまえの手料理食べたい!」
「ええ……いいけど、あんまり手の込んだものは作れないよ?」
「そんなん関係あらへんよ。なまえが作ってくれる事に意味があんねん」
「そっか。なら、スーパー寄って帰ろう」
「おん!」

不思議だなと思う。
あまり好きではない料理も、彼女の為だと思えば苦にならないのだから。
二人仲良く肩を並べ、職場であるポケモンリーグを後にした。

***

夕方のテーブルシティは様々な人で溢れていて、いつも賑やかだ。
夕食の材料を買う為に最寄のスーパーを目指して雑踏の中を行く最中、上機嫌なチリちゃんとは対照的に私は何処かソワソワして落ち着かない。
勿論、緊張しているわけではなく、ただ今日が“平日”であるというだけ。
言葉にしてみれば、ただそれだけの事であるが、しかし、それは私にとって看過出来ない問題だった。

休日に出掛ける時はお互い服装も髪型も普段とは違った格好をするので気にならないが、なんと言っても今は仕事帰りだ。
私は別に構わないとして、問題はチリちゃん。
四天王としての彼女――言ってみれば、どこからどう見ても。雑踏に紛れたとしても“チリちゃん”と一目で判別できる格好なのだから。

勿論、私達の関係は公にしていない。
関係について問われれば正直に話しているけれど、世間一般に浸透しているような、周知の事実というわけではない。
だから、つい周りの目を気にしてしまう。
チリちゃんに話せば“くだらない”と一蹴されてしまいそうだが、私にとっては大問題なのだ。

チリちゃんの話に相槌を打ちながらも、気は漫ろ。
すれ違い様「あ! チリさんだ」と黄色い声が聞こえた途端、反射的に身体が強張る。
無意識で半歩下がった私を、チリちゃんは見逃してくれなかったようだ。

「っ、!」

瞬時にチリちゃんの手が拒むように私の手を掴む。
振り返り、「まいど!」とお馴染みの営業スマイルを浮かべ手を振りつつも、もう片方の手にはしっかりと私を拘束していた。
そして、こちらに向き直るとその営業スマイルをひっぺがし、咎めるような視線が私を射る。

「こーら。今、距離とろうとしたやろ?」
「し、してないよ……」
「はい、嘘ー。騙されへんよ?」
「うぅ……だって、」

――周りの目が気になって。

口に出さずとも雰囲気で察したのか、チリちゃんは口吃る私に対して大きな溜め息を吐いた。
重苦しい溜め息がのしかかってくるようで、俯いた顔を上げられない。

未だに手は掴まれたまま。
控えめに腕を引いてみてもびくともせず、そればかりか、私の行動が気に食わなかったチリちゃんは手を離してくれるどころか、更に握る手に力を込めた。
先程からやる事なす事全て裏目に出てしまっている気がしてならない。

すると、何を思ったのかチリちゃんは掴んでいた私の手に指を絡めて、繋ぎ直す。
互いの指と指を絡めるようにして握る――所謂、恋人繋ぎ。
突然、グン!と力を込めて繋いだ手を引かれ、体勢を崩してしまう。

「うわっ!」

たたらを踏んだ私は、半歩後ろからあっという間に彼女の傍へと引き寄せられてしまった。
そればかりか、そのまま――

「ちょっと、チリちゃん……!」

繋いだままの手を口元へと導いて、私の手の甲へ軽く口付ける。
その仕草は一瞬で私の意識を絡め取った。
目を逸らすことは許さない。そんな風に赤い瞳は私を真っ直ぐに射抜く。その熱に焼かれるようだと思った。

ちゅ、とリップ音を残して離れた唇が弧を描く。

「ここ外だよ!?」
「だから? 別にええやん。何処だって」
「んなっ……!」
「寧ろ、見られた方が都合がええわ。……この間の事もあるしな?」

少しばかり不貞腐れた表情で彼女は吐き捨てた。
この間とは言うまでもなく、私がラブレターを貰った日の事だろう。
あの一件は、未だにチリちゃんの中で尾を引いているらしい。

「なまえはチリちゃんのもんやろ?」
「っ、……ソウ、デスネ」

面と向かって真っ直ぐな言葉をぶつけられると、またもや私の頬は紅潮してしまう。
それを知っていて言葉を浴びせるチリちゃんも相変わらず狡い。

「それに、言うたやろ? 絶対離したらんから覚悟せえって」
「!」

嗚呼、そうだ。そうだった。
あの日、彼女は何があっても離さないと私に言った。そして、私も離さないで欲しいと思ったのだ。

痛いくらいに胸が高鳴って、堪らなくなって、私はただただ何度も頷く事しか出来ない。
それでもどうにか自分も同じ気持ちでいる事を伝えるために、繋がれた手をぎゅうっと握り返した。
双眸を柔和に細めたチリちゃんは満足げに笑っていつものように「かーわいい」と私にだけ聞こえる声量で呟いた。

「あー……アカン! なまえ、やっぱ今すぐ帰るで!」
「へ? か、買い物は……?」
「そのつもりやったけど……今、めっちゃなまえとイチャつきたい!」
「……っ! 街中でっ……な、何言ってんの!?」

存分に私の羞恥心を煽り、惹き付けてやまないチリちゃんは、雑踏の中でも眩しいくらい一際輝いていて目を離せなかった。
今日も私は、そんな彼女に恋をしている。


20230608


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