「あ、あのっ……これ!」

今となっては随分と見慣れてしまった。
嗚呼またかと一言で片付けてしまえるような私の生活の一部として溶け込んだ、それは日常風景だった。

いつも通り決まった時間に出勤して、リーグ施設の通用口へ向かう最中の事。
正面玄関で待ち構えていたらしいアカデミーの学生がこちらに気が付いて、駆け寄って来た。
そして、冒頭の台詞と共に一通の手紙を差し出した。

どうしてこれが見慣れてしまった風景なのかと問われれば、その理由は実に単純明快である。

「あー……うん。チリちゃんに渡せば良いんだよね? 分かった」

今日は男の子からなんだなぁ……と頭の片隅で思いながら、私の恋人は男女問わずよくモテると改めて思い知る。
私と恋人同士になってからと言うもの、チリちゃんは手紙を受け取ることが無くなったせいで、よく行動を共にしている私にこうして間接的に手紙を渡してくる学生が増えた。

ファンレターであるのか、はたまたラブレターであるのか分かりかねるが、きっと今回に限っては後者であるのだろうな……と少し落ち込みながら、それでも断れずに手紙を受け取った。
だってこの手紙は自分に宛てられた物ではないし、ましてや学生の純粋で初心な恋心を認めた手紙を私の一存で突き返すなんてとても出来ない。

私とチリちゃんは恋人同士なのだからその権利くらいあると主張出来そうなものだけれど、この手紙を書くにあたって――手渡すにあたって、この子がどれだけ勇気を振り絞ったのかと忖度すれば、私にはこっ酷く突き返すなんて出来なかった。
お人好しだと謗られ、恋人としての自覚がないと罵られても仕方が無い。

「ち、違います!」
「え?」
「それは、その、貴女に……渡したく、て……」

尻すぼみに言いながら、顔を真っ赤に染めた男の子は持てる勇気を最大限に振り絞って「ラブレター……です」と口にした。
いつも通りに、それこそ惰性で受け取ってしまった手紙がまさか自分に宛てられた、しかもラブレターだなんて思いもしない。
想定外な出来事に驚いてしまって、一体どうすればいいのか分からず固まってしまった。

どうしよう……てっきりチリちゃんに宛てられた手紙だと思って受け取ってしまった。

「ええっと、その……」

この場合、なんて言えばいいのだろう?
ごめんなさい私はチリちゃんとお付き合いをしているので受け取れません、と言えばいい?
別にチリちゃんの名前は出さなくてもいいのか……。
いや、出してはいけないのか。
チリちゃんは有名人であるから、凡人の私とは比べ物にならない程のネームバリューを誇る彼女の価値を、私如きが地に落としてはならない。

だから、恋人同士になった今も関係を秘密にして欲しいとチリちゃんにお願いした。
チリちゃんは酷く不服そうであったけれど。

文言はどうであれ、取り敢えずこの手紙は理由を付けて返さなければ――そう思った直後だった。
背後からスッと手が伸びて、私の手の中にある手紙を取り上げる。

「ごめんなぁ。せっかくやけど、この手紙は受け取れへんねん。なまえには大切な恋人がおるさかい、諦めたってや」
「チ、チリちゃん!?」
「……なぁ? なまえ」
「う、あ、はいっ!」

ニッコリと貼り付けたような笑みで同意を求められれば、頷く以外の選択肢はない。
チリちゃんは私から取り上げた手紙をにべもなく男の子に突き返すものだから、すっかり萎縮してしまった彼は「すみませんでした」と言って俯いてしまった。

「バッジ八個集めて出直してや? そしたら、その時は全力でチリちゃんが勝負したるよ?」
「う……は、はい」

そこには些か……いや、存分に私情が混じっていたように思う。
“全力で勝負したる”とチリちゃんは言ったが、“全力で叩き潰したる”と剣呑な台詞に聞こえたのは私だけでは無い筈だ。

すっかり萎れてしまった男の子の背を見つめながら、心の中で申し訳ない事をしてしまったと彼に詫びた。
私がよく確かめもしないで手紙を受け取ってしまったばかりに。

しかし、これで終わりではなかった。寧ろ本題は此処からだと言っていい。
そう、“後始末”だ。私の軽佻浮薄な振る舞いの。

「なあ、自分何してるん? 受け取ったらアカンやろ」

私の行いを責めるチリちゃんの声色は普段よりも低く、そこにはいつも以上に苛立ちと怒気が混じっているように感じられた。
思わず、視線を足元へ逃してしまう。気不味いなんて言葉ではとても片付けられない重苦しい空気だった。

「ごめん、その……まさか自分宛だとは思わなくて。いつもチリちゃんに渡して欲しいって頼まれるから……」
「はぁ……それも前から思ってたんやけど、どうして受け取ってまうん? なまえは恋人がそんなモン貰っても何も思わへんの?」
「そ、そんな事ないよ!」

それは私を責め立てるような口振りだった。

何とも思わないのかだなんて、そんな事は嫌に決まっている。
でも、チリちゃんにとってそれは日常茶飯事であるのだろうし、今に始まった事でもないのだろう。
それに一番の理由は手紙を貰ったからといって気持ちが靡いてしまうなんて露ほどにも思っていないからであると、どうして分からないのだろう?

チリちゃんも同じではないのだろうか?
私だって、こんなにもチリちゃんの事が大好きであるのに、チリちゃんの事しか考えられないのに、手紙一つで心変わりしてしまうとでも思われているのだろうか?

険悪な雰囲気をどうにかしたい一心で、私は戯けたように口を開く。
それが益々状況を悪化させるだなんて思いもせずに。

「でも、何て言うかちょっと驚いちゃった! ラブレターとか初めて貰ったから……」
「思ってたより嬉しいもんやったって?」
「いや、そこまでは言ってないけど……」

駄目だ。いつものように笑い飛ばしてくれる自信に満ち満ちたチリちゃんに戻ってくれる気配が無い。
何をどう伝えても捻くれた意味に捉えられてしまう。
すると、チリちゃんは「初めてちゃうよ」と、小さく吐き捨てた。

「なまえがジョウトにおった時は、ぜーんぶチリちゃんが撃退してた言うたやん」
「……へ?」

冗談とも本当とも取れそうな、本心の読み取れない表情で――要は真顔で、チリちゃんは私を眼下に捉える。

「なーんてな!」
「ちょ、びっくりさせないでよ……あはは」

いつものように砕けた笑顔を浮かべてくれた事に少しばかり安堵したけれど、それは些か早計であったらしい。
彼女が笑顔の時こそ恐ろしいと、先程身を持って実感したばかりだったじゃないか。

「けど、何ですぐ断らへんの? 自分にはチリちゃんがおるのに」
「……ごめん」
「少しも入る隙なんて無いって思わせるぐらい手酷く振らなアカンやろ?」
「いや、流石に相手も学生さんだよ?大袈裟だよ……」
「そんなん関係あらへん」

嗚呼、やっぱりチリちゃんはまだ私の事を許していなかった。

徐ろに伸びたチリちゃんの手が頬を撫でる。
それは、人肌ではなく手袋越しの少し冷やかな感触で、まるで私達の温度差を示しているかのように感じてしまった。
そのまま顎に指を掛けられて、チリちゃんは身を屈める。
彼女の美しい顔が近づいて鼻先が触れそうになった刹那、堪らず声を上げる。

「だ、駄目! ここ外だよ!?」
「!」

胸元を押し返したところで、はたとした。

――しまった。

私の頭を過ぎったのは、そんな言葉だったように思う。

いつだったか、ガーネットの宝石のように輝く彼女の瞳が美しいと思ったが、今はどうだろう?
此方を射抜くその赤は私をジリジリと焼き付け、焦がすようでいて息苦しい。

「ちょ、待って……チリちゃん!」
「……」

外だからと言う理由でチリちゃんを拒んでしまった事に対して――突き飛ばしてしまった事に対して腹を立ててしまったのだろうか?
いや、それは違うか。だってもうチリちゃんは十分過ぎるほどに腹を立てているのだから。不機嫌を微塵も隠さない。

チリちゃんは私の手首を掴んで通用口から建物内に入ると、始業前で薄暗い館内の廊下をずんずんと進んでゆく。
その背中を不安気な面持ちで見つめたって、チリちゃんは此方を見向きもしないから彼女の機微が読み取れない。

迷う事なく歩みを進めて、行き至った場所はチリちゃんの執務室で、ドアを開けるなり私を放り込んで後ろ手に鍵を締めた。
静まり返った室内に鍵を掛けた無機質な音が響いて、それは私にこれ以上の逃げ道はもう無いのだと知らしめているようだった。

「あの、えっと、チリちゃ――」
「自分が!」
「っ、」

遮るように、チリちゃんは言う。
力強く遮られて、思わず身を竦めた。
壁に追いやって、私の頭上に片腕を突いて見下ろすチリちゃんは、いつもの気さくで包容力に満ちた彼女ではなく、初めて見る冷ややかな表情をしていた。

「……自分が、周りには内緒にしてたいって言うからそうしたったけど、間違ってたんかもなぁ」
「え?」
「なぁ? 何でそない隙だらけやの?」
「……あの、何の事?」

尋問されて、けれど、先程の手紙以外の事は問い詰められても思い当たらないので、答えようがなかった。
確かに先程の手紙の件は迂闊だったと反省している。
けれど、それ以外に何があったと言うのだろう?

私の発言はそんなに的外れだったのだろうか……チリちゃんは「ふは、」と小さく笑った。
笑って、そして吐き捨てた。

「それとも、身体に直接教え込まなアカンかな?」
「っ、何で……」
「なまえは、チリちゃんのもんやって分かりやすく印でも付けとかなアカン?」

彼女の指先が首筋を撫で下ろして、そして、ブラウスのボタンを一つ外した。
もう一つ外されたところで、より露わになった首筋へと埋められたチリちゃんの唇がきつく肌を吸い上げて、チリ……と焼けるような小さな痛みが走る。

「やだ、痕……付けないで……そこ、見えちゃうから」
「どーして? 見せたったらええやん。見せつけたったらええよ。なまえはチリちゃんのなんやから……」

言いながら、チリちゃんは首筋へ再び“印”を刻んで下へと唇を滑らせる。
首だけでは飽き足らずに鎖骨へ、胸元へ――幾つも散らして、刻んで、胸の谷間へ顔を埋めながらチリちゃんはボソリと言った。

「……最近新しく入って来た、あの新人」
「新、人……?」
「なまえ、教育係かなんか知らんけど、よう面倒見てるやろ?」

ああ、そういえば。確かに今私は先日入ってきたばかりの新入社員の面倒を見るようにとオモダカさんから仰せつかったばかりであるけれど。
その分チリちゃんの補佐官としての仕事は今までよりも少なくなったかもしれない。
けれどそれは一時的であるし、チリちゃんだって理解してくれると思っていた。

「この間、聞いてん。なまえの事ええなぁって話とった」
「へっ?」
「自分、気付いてへんのかもしれんけど、結構モテてるで? さっきの手紙だってそうやんか」
「う、嘘だ! だってそんなの聞いたことな…… ――っ、んぅ」

これ以上の反論は認めないとばかりに唇を塞がれる。
一分の隙間も無いくらいピタリと唇が合わさって、捩じ込まれた舌が口腔内を這いずり回る。
控えめに応える私の舌を絡め取って、吸い上げて、注がれる唾液が口の端から溢れ落ちた。

唾液で濡れた唇を舐めずって、それでもチリちゃんはまだ気が済まないと言いたげに私を見つめていた。

「はぁ……チリ、ちゃ……」
「ん……こっちおいで。そんな顔じゃ仕事でけへんやろ?」

腕を引かれ、覚束無い足取りで辿り着いた応接用のソファーへ身を横たえると、直ぐ様チリちゃんが跨ってシャツのボタンを外し、ネクタイを緩める。

「待って、仕事が……」
「うん……せやからちょっとだけ。まだ時間あるやろ?」

そういえば、チリちゃんと再会したばかりの時、私に好意を寄せていた男の子を追っ払っていたと笑いながら話してくれた事もあったけれど、でもそれは昔の話。
しかし、今朝の手紙の件を思えば今も尚、私の知らない所でチリちゃんはそういった事に奔走しているのかもしれなかった。
彼女の言葉を借りるなら、“少しも入る隙なんて無いと思わせるぐらい手酷く”だったか……。
俄に信じ難いけれど。

「なまえ、あんまり妬かせんといて……心臓止まってまう」
「うん……ごめんね、チリちゃん」
「こない可愛い顔見せるんも、チリちゃんだけにしてや?」
「あ、当たり前だよ……」

「これから先も、ずっとずーっと……なまえはチリちゃん以外、誰も知らんでええねん」と、囁かれた誘惑めいた台詞を最後に、私はこれ以上の思考を放棄した。

チリちゃんの頬を包む私の指先は今も“チリちゃんの色”で染まっている。
絶対にその色は嫌だと言い張って、それでも無理矢理に塗られてしまった記憶が懐かしい。

覆いかぶさったチリちゃんから垂れ下がる深碧の長い髪が、まるで檻のようだと思ったが、それにいつまでも囚われていたいと思った時点で私も大概なのだった。
重苦しい感情を抱いた彼女の虜であるのだから。


20230122


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