「いやぁ、ホンマさっきは驚いたわ。感動の再会や思うたら急に泣き出すんやもん」
「あはは……ごめんね。チリちゃんの顔見たら何だか我慢してた気持ちが溢れちゃって」
「気持ちのついでに顔から出るもん全部垂れ流しとったけどな」
「ちょ、それは言わないでよ!」
「ナハハ」と、気さくに笑う彼女は十年前と何も変わっておらず、言葉を交わす度に緊張は解け、離れていた時間が段々と埋まっていくような気がした。
「ん、これでええよ」
「ありがとう、チリちゃん」
チリちゃんは、擦りむいた手のひらと膝に絆創膏を貼ってくれた。
処置を終えて救急箱を元あった棚に戻すチリちゃんの姿を横目に、キョロキョロと辺りを見渡す。
あれから――街中で泣き出してしまった私を連れてチリちゃんが向かった先は、自分の住うマンションだった。
一人で住むには少々広く感じる間取りであるが、インテリアも雰囲気もシックで落ち着いた大人の女性の部屋といった感じだ。
けれど、そんな空間の端々に感じられる生活感が彼女らしさを滲ませているようでいて、何だかとても落ち着く。
ソファーへ無造作に脱ぎ捨てられたシャツだとか、テーブルに広げられた読みかけの雑誌だとか、シンクに残ったままのコップだとか――。
「ほい」
「わあ、ありがとう! いただきます」
手渡された缶ビールを受け取ると、チリちゃんは隣に腰を下ろし「再会を祝して、かんぱーい」と、缶を当てた。
美人で一見近寄り難い印象を抱かれがちな彼女であるが、それを払拭させるこの気さくな笑顔が昔から大好きだった。
「あー……、五臓六腑に染み渡る」
「あははっ! チリちゃんってば、おじさん臭い」
「失礼やな、美人さんなチリちゃんに向かって」
「はいはい、チリちゃんは相変わらず美人さんだよー」
ふざけ合うような会話をするのも久しぶりで、自然と頬が緩んでしまう。
乾杯も済ませたことだし、私もビールを頂こうとプルタブに指を掛けるけれどネイルのせいで酷く開け辛い。
思ったように開けられず、苦戦している様を傍で見ていたチリちゃんは、至極自然な手付きで私の手から缶を取り上げると、軽々蓋を開けて再び私の手の中に戻した。
それがあまりに自然で流れるような仕草であったから、ぽかんとしてしまった。
「ちょっとチリちゃん……相変わらずイケメンすぎない?」
「そらおおきに。“いじらしいなまえちゃん”は昔からチリちゃんが守ったらなあかんかったしな?」
「ガラル地方から越して来た余所者だったし、鈍臭かったからよく男の子にからかわれてて……。意地悪される度にチリちゃんが助けてくれてたよね。本当、今日みたいにさ」
それこそ十年前の話だ。
一時期ジョウト地方で暮らしていた事があって、チリちゃんと出会ったのもその頃だった。
余所者で、自己主張が苦手な私にとって、コガネ弁飛び交うコガネシティはなかなか馴染む事が出来なかったのだけれど、今思えばその時期を乗り越えられたのも、チリちゃんの存在があってこそだったと思う。
今も昔も、チリちゃんは私のヒーローだった。
「あー、はいはい。あれな。あの年頃の男の子が意地悪するんは、なまえが可愛かったからやろ」
「いやあ、それは無い無い。そんな風に言われた事一度も無かったもん」
「違わへんよ。なまえに近付こうとした奴をチリちゃんが何人やっつけたったと思うてるん?」
「え?」
今の今まで知る由もなかった聞き流す事の出来ない事実を、チリちゃんはサラッと言ってのける。
グビグビと喉を鳴らしてビールを飲み干し、すかさず二本目に手を伸ばすチリちゃんは、意地悪そうな、してやったりと言わんばかりの笑みを浮かべて見せた。
ゆるりとこちらへ伸ばされたチリちゃんの手が、溢れた横髪を耳に掛け直す。
指先が掠めた頬が熱を帯びてジンジンと熱い。
所詮は、ほろ酔いの上機嫌な彼女の口から溢れた冗談なのだろう。
「なんてったって露払いのチリちゃんやからなぁーアハハ!」
「出来上がるの早くない?」
嗚呼、びっくりした。
お酒が入っているからといって、その色気に当てられて引きずり込まれそうになってしまった。
「そう言や、何でなまえはテーブルシティにおったん? 旅行にしては荷物少なすぎひん?」
チリちゃんは床の上に置かれた鞄を一瞥して問う。
手短に説明するには少々重たい事情にも思えるが、致し方ない。
「あー、えっとね……元々別の地方で働いてたんだけど、色々あってここの職場に出向する事になったんだ」
「へぇ」
「そのせいで住み慣れた場所を離れなきゃだし、恋人とも遠距離になるからって別れちゃって……」
「あー……マジか」
「いつか結婚しようね、なんて言ってたくせに! そこは普通さぁ、仕事辞めて結婚しようって言ってくれても良くない!?」
話し始めると段々とその理不尽さが腹立たしくなってしまって、一気にビールを煽って缶をテーブルに叩きつけた。
その様を目の当たりにするチリちゃんも泣いたり怒ったり忙しい奴だと呆れていることだろう。
けれども一度吐き出した感情は堰を切ったように溢れ出してしまったのだから仕方がない。
出るわ出るわ、不平不満の嵐。
感情の赴くまま二本目のビールを掴んでプルタブをカツカツカツカツと爪に引っ掛ける。
勿論、どれだけ意固地になっても一本目同様に開く気配は無いのだけれど。
「おー、よしよし。可愛いなまえを振るやなんて見る目が無いなその男も。チリちゃんが慰めたる」
「ヂリぢゃーん!!」
私の手からビールの缶を取り上げテーブルに戻すと、チリちゃんは言葉通り私をその胸に包み込んでくれた。
ポンポンと、背中に添えられた手があまりに優しくて、ささくれた心ごとあやしてくれるものだから、一生伝えるつもりなんてなかった言葉を、思い出を、つい吐き出してしまったのかもしれない。
「……あーあ、チリちゃんが恋人だったらなぁ」
「は?」
「なーんて。今だから言っちゃうけど、私の初恋……チリちゃんだったんだよねぇ」
それこそ十年前の愛も恋もよく知りもしない思春期真っ只中の多感な時期の、不安定な感情から生まれた不定形な想いだ。
それにもう、今となっては時効だろう。
ならば今この瞬間、酒の勢いに任せて、浄化して昇華させてしまえ。
そしてまた明日から心機一転、この地で新しく人生を始めればいいのだ。
そんな安易な考えで叩いた軽口が、今後の人生を大きく左右させてしまうなど思いもせず。
自分の首を絞める羽目になるなんて事も。
「はぁー、チリちゃん抱いて! 大好き!」
「……」
けれど、私の意に反してチリちゃんの反応がない。
「アッハッハ! なまえかーわいい!」なんて軽口を叩いて、今日は飲もうぜ!みたいなノリになるものだとばかり思っていたのに。
「チリちゃ……」
「ええよ」
え え よ ?
いや、“ええよ”って?え?
「……あ、あの、チリちゃん?」
無言のまま、じっと此方を見据える。
私を射抜く赤い瞳――その眼差しにジリジリと焼かれそうな劣情を見てしまった。
想定外なんて言葉では到底足りない。
――嗚呼、しまった。踏み抜いてしまったのだ、私は。
「ち、違くって! あのね、そういうんじゃなくて!!」
「もう遅いわ。大人しくチリちゃんに食べられとき」
「――……っ、」
それ以上の言葉は重なった唇に飲み込まれてしまった。
これだからお酒の力って怖い。
20221211