「ただいまー」

チャイムが鳴って玄関のドアを開けると、そこには陽気な声と共にチリちゃんが立っていた。

まず始めに、今し方彼女は至極当然のように“ただいま”と口にしたが、ここは私の住うマンションの一室であって、断じてチリちゃんのお家ではない事を、ここに宣言しておかなければならないだろう。

「いや、ここ私の家だからね?」
「いけずな事言わんと、おかえりのチューぐらいしてくれたってええやん」
「チュー!?」

思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

「ほれほれ」と言いながら、身長差を埋める様に身を屈めて唇をトントンと指で示し、催促するチリちゃんは私の返事を待たず目を閉じる。
キス待ち顔ですら芸術作品の様で、今日も今日とて私の恋人は美しかった。

以前の私達であるならいさ知らず、今はもう恋人同士であるのだから拒む理由が見当たらない。
ここは私の家で、誰が見ているわけでもないのに、キョロキョロと辺りを見渡してからチリちゃんの頬へ遠慮がちに短いキスを贈る。

初めてでもないのに、なんなら恋人同士になって一年は過ぎているのに、チリちゃんを前にすると満足にキスの一つも出来ない。
私はチリちゃんの様に、開けっ広げで真っ直な愛情表現が得意ではないので、どうかこれで勘弁願いたい。

そんな私の頑張りを他所に、チリちゃんは「ほっぺかーい!」と、すかさず安定の突っ込みを披露してくれた。
チリちゃんと一緒にいると、日常の出来事さえコントの一幕と化すので面白い。

突っ込みを披露してくれたチリちゃんには申し訳ないが、勿論、このやり取りにウケを狙ってやろうだなんて目論みは寸毫も無く、ただ単にチリちゃんの要求に対して一杯一杯だっただけだ。
ごめんね、チリちゃん。

それを知ってか知らずか……眉を下げて小さく笑んだかと思うと、チリちゃんは靴を脱いで部屋にあがる。
私の横を過ぎる間際、片手を私の頬へ添えて触れるだけの軽いキスをした。
日常の仕草に紛れてキスをするものだから、身構える間もなくあっさりと唇を奪われる。

パルデアでは、これが普通の生活習慣なのだろうか?
いや、チリちゃんはジョウト出身だから、それは違うか。

「恥ずかしがるんも可愛いけど、ええ加減慣れてや?」
「は、はひ……」

頭をポンポンと撫でられて、見つめる瞳を柔和に細められれば、私はその仕草と表情だけで真っ赤に頬を染めてしまう。

慣れるだなんて、到底無理だと思う。
確かに私達はお付き合いを始めて一年間と少しの期間が経過したけれど、そもそも一年間は私がガラル地方へ転勤していたから、有るようで無かったような空白の期間だったと言ってもいい。
だから体感としては、お付き合いを始めてひと月目のような気分だった。
チリちゃんはどう感じているのか分からないが、少なくとも私はそうだ。

とは言え、恋人の関係に落ち着くまでに私達は恋人になってからするような事を既に経験してしまっているので、照れるだとか、慣れないだとか何を今更と言った感じであるが……。
しかしながら、以前とはまた一味違う甘ったるいチリちゃんに、早くも生命の危機を感じざるを得ない。
だから、パワーアップしたチリちゃんの愛情を受け止めるにおいて慣れるなんて事はないのだ。決して、無い。

「こっちおいで」と、手を引かれてリビングのソファーへ座る。
すると、何か思い立ったらしいチリちゃんは、私の手をぎゅうっと握って、満面の笑みを湛えながら顔を覗き込む。
嫌な予感しか無い。しかもこういった予感に限って当たるのだ、悲しい事に。

「なあなあ、アレ言うてみて?」
「……アレとは?」
「よく言うやん! ご飯にする? お風呂にする? それとも私?って」
「嫌だ! 絶対嫌だ! 言わないよ! 無理無理無理!!」

やっぱり、予感は的中した。
そんなのは漫画やアニメ、ドラマといった創作物の中ならではの会話では?
そんな小っ恥ずかしい事、リアルではとても言えない。
創作物であっても、恥ずかしいな……よくやるよ、と鼻白んでいた私だ。

それに、申し訳ないけれど、突然のアポなし訪問であったから夕食の支度も、風呂を沸かす事も、私の心の準備すらも何一つとして整っていないのだった。
どの選択肢を選ばれても、どれもチリちゃんに提供出来ない。

「ええー……そないな事言わんと」
「嫌だよ!」
「今日もくたくたになるまで仕事頑張ったチリちゃん癒したってやぁ……」
「うぐ……」
「な? 今回限りでええからぁ!」

そんな風に必死に頼み込まれてしまっては、断り辛い。特に仕事を引き合いに出されてしまった日には。
学期が変わり、アカデミーで宝探しが始まった直後、ジムバッジを保持していないのに興味本位で面接を受けに来る学生が増加する。
面接官を務めるチリちゃんにとってそれは何の実りも無く、ただ単に仕事が増えるだけ。
それを知っているからこそ、仕事を引き合いに出されると、私は断れなくなる。

「い、一回だけ……だからね?」
「おん!」

やった! そんな風に人懐っこい笑顔を満面に浮かべるチリちゃんに、私は一生敵わないと思った。

しかしながら、一回限りだと念を押したはいいが、私にとってはその一回すら試練であって――。
今か今かとその時を待つチリちゃんを眼前にして、早くも前言撤回したくて堪らない。
ええい! と、それこそ清水の舞台から飛び降りる覚悟で口にする。

「んごっ、ご飯にする? ……おっ風呂にする? そ、それとも……わた――っ!」
「そんなん、勿論なまえにする!」

一世一代の渾身の台詞(噛み倒していたけれど)を、全て言い終える前に、チリちゃんは食い気味に返答した。
始めから答えを決めていたかのように即答し、剰え台詞を被せてきた。
お陰で全部言い終える事が出来なかったではないか。
こんな小っ恥ずかしい思いをしておきながら、不完全燃焼で終えてしまった私って一体……。

しかしながら、どうして私はそれで安堵してしまったのだろう?
こんな台詞を口にして、勿論チリちゃんから返って来る言葉も大凡分かっていて、それでいて――。
チリちゃんが、こんな会話一つで納得して終わるわけがないのに。

「――っ、チリちゃん!?」
「んー?」
「な、何やってんのぉ!?」
「何って、見たまんまやん?」

気が付いた時には既に遅かった。
私は一瞬でチリちゃんに組み敷かれてしまって、覆いかぶさる彼女は頬へ軽く口付けた後、唇を下へ下へと滑らせて、首筋に顔を埋めた。

「……ちょ、チリちゃん、やだ」
「だって、もう我慢できひんもん」
「最初からそのつもりだったでしょ!?」

肩を押し返してみても、びくともしない。
その間もチリちゃんは私のブラウスのボタンを一つ、また一つと外していって素肌を暴いていく。
チリちゃんだって同じ女の子であるのだから、懸命に押し返せば少しぐらい抵抗出来そうなものなのに、どうしてこうも力差があるのだろう?

首筋に埋まっていたチリちゃんの唇が耳に齧り付いて、耳を象るように舌が這う。
グチュ、と耳に響いた水音が私から思考を取り上げ、背筋を這い上がる快感が抵抗を奪った。

何故、押し返せないだなんて疑問の答えは簡単な事だった。
抵抗しているつもりだっただけ。押し返す力なんて既に入っていなかったのだから。

「んぅ、は……っ、」
「なまえ、耳弱いん?」

「……かーわいい」と、耳元で囁かれてしまえば、もう私はチリちゃんの事しか考えられなくなる。

「ま、待って……せめてシャワー」
「んー、どうしよかな?」
「チリちゃん、お願い……」

瞳に涙を滲ませ、上気した頬で懇願したところで、チリちゃんの劣情を煽るだけだと分かっていても、そうせずにはいられない。

「じゃあ、一緒に浴びよか?」
「ん、」

チリちゃんの返事に胸を撫で下ろしたのも束の間、仕事を終えても珍しくリーグの手袋をはめていたままの彼女の指先が素肌に触れ、その感触に身を震わせる。
てっきり、シャワーを了承してくれたから一旦これで解放されるのだとばかり思っていただけに、尚も肌を滑る指先に困惑してしまう。

「チリ、ちゃん……?」
「うん。その前に、ちょっと味見……な?」

味見とは!
シャワーの意味がないのでは!?

与えられたほんの少し余裕で、取り戻しつつある思考をフル回転させてチリちゃんの言葉を反芻するも、行き至る最悪の結末に私は青ざめる。
結局私はここで一度、チリちゃんに食べられてしまうのだろう。

情欲に塗れた双眸は、さながら私を捕食する獣のように爛れていて、嗚呼もう逃してはもらえないのだと思った。
味見なんて言っておいて、その程度で済む筈がないのだと、それこそ本能で感じていた。

チリちゃんは私に跨ったまま上半身を起こす。
その仕草を見せつけるかのように手首のボタンを外し、手袋の指先を咥えて手を抜き去った。

「――っ、」

その仕草が実に扇状的で、目が離せなかった。頬に熱が集まって、そして、身体の芯が疼いて仕方がない。
これから私はその手で――指で、ドロドロに溶かされて快楽に溺れる。

チリちゃんは、その仕草に釘付けになってしまった私を満足げに見下ろして、もう片方の手首のボタンを外すと私の唇へ向けて差し出した。

「こっちは、なまえが外してや?」
「え、」
「ほら、咥えて。上手に出来たら、うんと可愛がったるよ?」
「……っ、ん」

そんな甘ったるい言葉を吐かれて、熱に魘された瞳で射抜かれれば、私にはもう彼女に従う以外の選択肢は存在しなかった。
私を占めるのは羞恥と、そして、それ以上にチリちゃんに暴かれたいと思う愛欲であったのだから、もうどうしようもない。

おずおずと唇を開いて、差し出された指先を受け入れる。
指先を噛まないように、布だけを咥えてチリちゃんを見上げれば、ゆっくりと、手袋から手が抜き出された。

「……ええ子」

褒めるような手つきで髪を撫で、恍惚とした表情でチリちゃんは唇を舐めずった。

嗚呼、私はこれからチリちゃんに抱かれる。
満更でもなく、寧ろ期待してしまっているのだから、私は随分と彼女に溺れてしまったものだと思った。

ソファーが軋んで、心地いい重みを感じながら、私はそっと目を閉じた。


20230115


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