列車の時間が刻一刻と近付いている。
ガラルで過ごした一年間は長かったようで、しかし振り返ってみればとても短く、今日がもうその約束の最終日だ。
結局この一年間ダンデくんは秘書を雇わなかったから、私の仕事は彼の側近のリーグスタッフに引き継ぐ事になってしまった。
そして今、引き継ぎの漏れが無いか最終確認をしつつ、委員長室で部屋の主が戻って来るのを今か今かと待ち侘びている。
多忙なオーナー様は、今日も今日とて執務に追われ、現に今も会議の真っ最中である。
「重要データはフォルダ分けしてリストごとに保存したし、書類も項目別に整理して戸棚にしまった。鍵はちゃんとかかってる……よし!」
詳細をメモして、USBメモリと戸棚の鍵をデスクに置く。これで、ガラル地方のリーグスタッフとして私の仕事は全て終わりだ。
何だか改めてこれで終わりなのだと思うと万感胸に迫るというか、この一年間ガラル地方で過ごした日々はとても充実したものだったと、しみじみと感じられた。
初めはどうなる事かと思ったものだけれど……。
ダンデくんの手伝いをする為にガラルへ行く!などと大口を叩いた割に、異動したばかりの頃は何の役にも立たなかったらどうしよう、なんて不安に襲われたものだ。今ではそれも、いい思い出だけれど。
感慨に浸っていると部室のドアが開いて、やっとダンデくんが戻って来たのだと思い振り向けば、そこにはキバナくんの姿があった。
「なまえ、荷物の手配終わったぜ」
「ありがとうキバナくん! 忙しいのに手伝ってもらってごめんね。助かったよ」
私が今日ガラルを立つと知ったキバナくんは、色々と忙しい身でありながら手伝いを買って出てくれたのだ。
ジムリーダー兼宝物庫の管理を担っている彼は予定も仕事も詰まっていたことだろう……急な事にも関わらず貴重な時間を割いてくれて感謝しかない。
「気にすんなって。けど、本当にきっかり一年で帰るんだな」
「まあ、最初からその約束だったし」
「てっきりこのまま残るもんだと思ってたけどな……そんなに慌てて帰る必要でもあるのか?」
今更だが、とキバナくんは問う。
「あ、ある……! 大ありだよ! 攫いに来る……絶対やりかねない。だから帰らなきゃ」
「いや、攫いにって……そりゃまた随分と物騒な話だな」
一日二日予定がずれただけで大袈裟な。物騒な。
流石にそれは冗談だろうと、笑い飛ばすキバナくんは知らないのだ。
チリちゃんならやりかねない。有言実行の、行動力の塊のような彼女なら。
その証拠に、ガラルを立つ一週間前には彼女から連絡が来たのだ。ついでに言えば昨日も来た。
「ついに明日やな!一年間長かったわー!」と、テンション高めの電話があったばかりだ。
前倒しで引き継ぎ作業と荷作りに取り掛かっていた自分を褒めてやりたい。褒めちぎりたい。
「へぇ……そんなにイイ男なのか? なまえが夢中になるくらい?」
恋人とも彼氏とも口にした覚えはないのだけれど、茶化した延長なのか、 それとも探っているだけなのか……。
きっかり一年で、しかも一日も過ぎる事なく急いで帰らなければならないと言い張るのだから、その理由が気になるのも頷けた。
別に隠していた訳ではないし、その必要も無い。
「えっと……彼氏じゃないかな。“イイ男”じゃないし」
「うん?」
「か、彼女……私には勿体無いくらい、めちゃくちゃ“イイ女”!」
誰かにチリちゃんの事を話すのはこれが初めてであったから、妙に気恥ずかしい。
予想外の返答に双眸を瞬かせるキバナくんは、いまいちぴんと来ていない様子だったので、説明するよりも見せた方が話が早そうだと思い、スマホロトムを呼び寄せる。
そして例の、チリちゃん曰く世界に一つだけの待ち受け画像を彼に見せた。
「おー、こりゃまた」
「美人さんでしょ? 自慢の恋人。大好きなんだぁ……うへへ」
「想像以上っつーか……にしても相変わらずだよな、その変な笑い方」
予想以上だと言わんばかりに、キバナくんはまじまじと待ち受け画面のチリちゃんを見つめた。
スマホロトムの画面に映った時刻を見ると、いよいよ列車の時間が迫っていた。
本当にそろそろ出発しなければ列車に間に合わなくなる。
最後にダンデくんに会いたかった。きちんと顔を見て言葉を交わし、別れを伝えたかったのに。
すると、騒がしい足音がだんだんと部屋に近付いてくる。
ドタドタバタバタ――実に騒がしく慌ただしいそれは、段々と大きな音を響かせて部屋の前まで来るとピタリと止む。
そして、一瞬の静寂を経て勢い良く開いた委員長室のドアの先にいたのは、今度こそ、今か今かと待ち侘びたダンデくんその人だった。
「すまない、遅くなった! 会議が長引いてしまって……」
「お疲れ様、ダンデくん」
「なまえ! まだ居たのか……間に合ってよかった。色々手伝ってやれなくて、すまない」
「ダンデくん忙しいんだから気にしないでよ。キバナくんが手伝ってくれたから大丈夫」
「よっ、お疲れ。オーナー様は忙しいな」と、キバナくんはヒラヒラと手を振って合図する。
「そうだったのか。キバナ、助かったぜ」
「お安い御用だ」
急いで戻って来たからか、ダンデくんは少し息が上がっていて、彼を象徴する美しい菫色の髪も乱れている。
全力疾走して来たとあらば、それを見られていた日には、また委員長としての威厳がどうのこうのと口酸っぱく言われてしまうのに……。
「髪、乱れてる。走って来たの? そんなところ見られたら、また怒られちゃうよ?」
言って、背の高いダンデくんに対して爪先立ちで精一杯手を伸ばし、乱れた髪を直してあげる。
「なまえに会いそびれる事に比べたら、そんな小言いくら貰っても構わないぜ」
「もう、何言ってるの? 駄目だよ。あと、もし会えなかったらいけないと思ってメモ残しておいたから。引き継ぎは終わってるけど、一応ね」
「そうか。すまないな……最後の最後までキミに頼りっぱなしだ」
「その為にガラルに来たんだから、いいの」
ローズタワーからバトルタワーに改修して軌道に乗せるまで一年間――その算段でいたのに、ダンデくんのバイタリティと行動力には目を見張るものがあって、ガラルスタートーナメントの大会まで企画立案し、開催まで漕ぎ着けてしまったのだから、目が回る忙しさだった。こうして約束の一年間でパルデアへ帰れるのは奇跡だと言っても過言ではない。それはそれは十分過ぎる程に充実してはいたけれど……。
ダンデくんは目を細め、少し寂しげな表情で笑う。
「本当に気持ちは変わらないか?」
「え?」
「このままガラルへ残らないか? 秘書でなくても、リーグスタッフとしてでも構わないから」
「しつこい事も、諦めが悪い事も分っているんだ」と付けたした。
ただただ惜しい――と、言いたげなダンデくんの表情に、胸が締め付けられるようだった。
けれど、私はパルデアへ戻る。チリちゃんの元に帰る。
ならば、こんな私でも必要としてくれた事への感謝と誠意を伝える事が、ダンデくんに報いる唯一なのだと思った。
「ありがとう。でも、ごめんなさい。この一年間とても充実していたし、そう言ってもらえるって事は、私はダンデくんの為に――ガラルの為に貢献出来たって思ってもいいんだよね?」
「そうか……分かった。ああ、勿論。礼を言うのはこちらの方だ。力を貸してくれてありがとう、なまえ」
時計に視線を向けて、私は鞄を手に持つ。
寂しいけれど、名残惜しいけれど、そろそろ出発しなければ。
「なまえ、駅まで送ろう」
「え!? いい! 平気だから!」
「大丈夫だ。遠慮しなくてもいい」
「遠慮じゃないから! 大丈夫じゃないよ!? 道に関してだけは。ね!? キバナくん」
「あー……まぁ、そうだな。ダンデはこの後も仕事詰まってるだろ?」
縋るようにキバナくんに視線を投げると、全てを察しってくれたらしい。助け舟を出してくれた。
流石はキバナくんだ。モテる男は違う。空気が読める。
キバナくんから指摘されて諦めたのか、ダンデくんは渋々納得したようだった。
別れ際、最後に差し出されたダンデくんの大きな手。ふしくれ立った無骨な手だ。
この手に私は今まで何度も助けられ、支えてもらった。
言葉では言い表せない程の感謝の気持ちを胸に抱きながら、応えるようにその手を握り返す。
「なまえ、パルデアでも元気で」
「ダンデくんも、元気でね。またね」
“またね”と言った。
パルデアへ戻るが、ガラルが私の故郷であることは変わらない。どこへ行こうと、此処が私のルーツだ。
委員長室のドアを閉めて、一歩踏みだす。
振り返る事はしなかった。
「ダンデ、元気出せ」
「はは……こうもあっさりと振られてしまっては、いっそ清々しいな」
「飲みならいつでも付き合うぜ」
「ああ。今夜でも付き合ってくれ」
***
相変わらずの長旅を経て、私は一年振りにパルデアの土を踏んだ。
青く高い空も、緑一杯の自然も、澄んだ空気もとても懐かしい。たかが一年、されど一年。
長旅で凝り固まった身体を解すように、ぐんと伸びて大きく息を吸う。
ガラルにいた時は職務に掛かり切りであったから、全身で自然を感じるのは久し振りで、とても気持ちがいい。
一応、ガラルを出発する時に連絡は入れておいたけれど、久しぶりにチリちゃんと顔を合わせるのは気恥ずかしくて、何だ緊張してしまう。
ちゃんと、顔を見て“ただいま”と、言えるだろうか?
“会いたかった”と、笑えるだろうか?
テーブルシティまでの道のりを歩きながら、懐かしさと少しの緊張に浸っていると――嗚呼、なんという事でしょう。
「ひいいいっ」
辺り一帯には私を取り囲むようにして、羽を広げるカラミンゴの群が……。
群れと言うより大群と言った方がしっくりくる。
何故気が付かなかったのかという疑問は、語るまでもなく、チリちゃんと再会してからのあれこれを妄想しながらご機嫌になっていたからで。
遠足は、お家に帰るまでが遠足ですよ。幼い頃教わったはずの教訓は、成人した今、何の役にも立っていなかった。
それにしても、私を取り囲むカラミンゴの数は異常で、こんな大群今まで出会った事がない。それは恐怖を抱く程だ。
ここでふと頭をよぎった。何だったか、何処で耳にしたのだったか思い出せないが、一箇所に特定の決まったポケモンばかりが湧く現象――大量発生。
右を見てもカラミンゴ。左を見てもカラミンゴ。勿論、前も後ろもカラミンゴ。
四方八方をカラミンゴに囲まれている。
そして、今にも襲いかからんとばかりにけたたましい鳴き声を上げながら翼をばっさばっさと羽ばたたかせた。
一年振りに帰って来た途端にこんな事に巻き込まれるだなんて、とことんついていない。
さすがにこの数に対して手持ちのエーフィ一匹だけではどう足掻いたって手におえない。
こういう状況を、何と言うんだったか――そう、絶体絶命。
「うわああああ!!」
私の持てる運動神経を全注入して、僅かな隙間を縫って走り出す。
走る、走る、直走る。
いい歳した女の悲鳴を上げながらの全力疾走ほど滑稽なものは無い。
今はそんな事を、体裁を気にしている余裕も無い。
やるかやられるかの瀬戸際なのだから。
しかし、運動能力が低い私にとっての全力疾走は、かなり辛いものがある。事実あまりスピードは出てないだろう。スタミナだってそう長くは保たない。
どうか追いかけて来ないでくれと、一縷の望みを持って振り向くと、悲しい事にカラミンゴが大群になって私の後を追っていた。
それはもう、獲物を狩るハンターが如く鋭い目つきだった。
とは言え、惚けたような可愛らしい目だったけれど。
何を考えているか分からないからこそ、狂気というか殺気みたいなものを感じる。
「な、何で追いかけて来るの!?」
チリちゃんと感動の再会が持っていると思っていたのに。
嗚呼、私はこのままカラミンゴの大群に襲われて、剰えボコボコにされて……そんな状態で、チリちゃんは私だと気付いてくれるだろうか……。
ついにスタミナが尽きてしまって、足が縺れてずっこける。
もうだめだ。諦めていた、まさにその時だった。
「ナマズン、ふぶき!」
技を指示する声と共に、凍てつくような冷気が頬を撫でる。
振り向くと、私を襲うカラミンゴの群は一掃されていた。キラキラと舞う雪と冷え切った空気の余韻が残る中、全てが一瞬で片付けられてしまった事に頭が追いつかず呆然とする。
放心していると不意に声を掛けられて、はたとする。
「大丈夫やった?」
「すみません、ありがとう……御座います」
「あーあ、手ぇ擦りむいてもうてるやん」
何だか酷く懐かしいやり取りだと思って、弾かれたように顔を上げると、あの日の様に――パルデアに来て久し振りに再会したあの夜のように、目の前にしゃがむチリちゃんの姿があった。
「なかなか帰ってけーへん思たら……自分、ホンマようトラブルに巻き込まれるなぁ。やっぱりチリちゃんが傍で守ったらんとあかんな」
「チリ……ちゃん」
「まいど! チリちゃんやで。……おかえり、なまえ。待っとったで」
チリちゃんは、ひらひらと手を振りながら、戯けるように笑って見せる。
混ざり合った様々な感情が込み上げて、あれもこれも言いたい事の一つも言えないで、ただただ胸が一杯になってしまったから、そのまま勢いよく抱きついた。
「た、ただいま……ただいま、チリちゃん」
勢い任せに抱きついたものだから、チリちゃんは支え切れずにそのまま尻餅を付く。
「おーおー、随分熱烈やんか」
「だって……あ、会いたかったんだもん」
「! ……チリちゃんもや。会いたかったで」
ここが外である事も忘れて抱き締め合った。
一年間という歳月を埋めるかのように、きつくきつく。
私を見つめるチリちゃんの瞳は熱を帯びている様だった。それは多分、私も同じであったと思う。
チリちゃんの顔がゆっくりと此方に近付いて、私は受け入れる様に目を閉じると、額にそっと唇が押し当てられる。
てっきり唇にしてくれるものだとばかり思っていたから、不思議そうに小首を傾げると、チリちゃんは眉を下げて苦笑する。
「今こっちにしたら、我慢出来ひんから。堪忍な」
「っ、」
「だってもう、我慢せんでええんやもん」
そうだった。
私たちはもう恋人同士であるから、我慢なんてする必要はないのだ。
チリちゃんは、もう我慢はしないと言って唇を親指の腹でなぞる。
耳まで真っ赤に染めて、ぎこちなく頷くと「アハハ!リンゴみたいに真っ赤や」と、からかいながら、赤く染まった私の頬を愛おしそうに撫でてくれた。
「んじゃ、帰ろか」
「パルデアのポケモンリーグ久しぶり! 皆元気かなぁ……」
「んなわけあるかい! チリちゃん家に決まっとるやろ? チリちゃん家」
「え!? でも、チリちゃん仕事の途中なんじゃないの?」
立ち上がって土埃を払いながら問うと、チリちゃんは少々不貞腐れながら言う。
「久し振りの再会やのに、いけずな事言いなや。半休もろてん。今日の為に、チリちゃん死ぬ気で働らいて半休もぎ取ったんやで?」
「そ、そうだったの……」
「せやから、一年分。これからたーっぷり愛し合おか!」
「ひぃ……!」
チリちゃんは私の手からカバンを奪い取って、もう片方の手で私の手に指を絡めた。
繋いだ手をそのまま口元へ寄せると、チリちゃんの形の良い唇が弧を描く。
その仕草が、表情が、チリちゃんが――とても爛々と輝いていて、嗚呼、私の恋人はこんなにも美しいのだと、ただただ純粋に見惚れてしまった。
「ぜったい離したらんから、一生チリちゃんに愛される覚悟しときや?」
「し、心臓もたないです……」
きっと私はこれから先何度もチリちゃんに見惚れるたびにそう思うのだ。
【fin.】20230107