先日のあれは完全に失敗だった。
“行かんといて”なんて、間違っても言うべきでは無かった。
確かに本心であったし、そこに嘘偽りはない。
なまえは行かないと言っていけれど、本心は違うのだと思う。
あれは、縋ってしまったばかりに言わせてしまったに過ぎないのだろう。

本当は行きたいのだと思う。ダンデくんの為に――というより、ガラルの為に?
いや、ダンデくんの為だ。やっぱり。
愛だの恋だの云々ではなく、彼女は彼に対して恩義があるからなのだろうが……。
けれど、戻って来てほしいだなんて、なまえは別として、彼の方がその気でいるように感じる。

自分は知らない。
彼と彼女の間に何があって、何故そんな話になってしまったのか、何もしらない。だから嫌だった。
そして、そんな事ばかり考えてしまう自分も嫌だった。
案外、ただ単に好きだから傍に置いておきたいなんて、簡単明瞭な理由であるかもしれない。
だったらそれは、至極真っ当な理由に感じられた。
彼を責める事もなじる事も、自分はすべきで無いし、その資格も無い。
だって、同じなのだから。自分と、同じなのだから。

行っておいでだなんて、気前よくなどとてもじゃないが言えなかった。

――ドオー戦闘不能。よって、チャレンジャーの勝利。

「やったー!!」
「……っ、」

相棒が、土埃を立ててバトルコートに倒れる様を、久しぶりに見た。負けてしまったのだ。

チャンピオンテスト二次試験のポケモンバトル。
歓喜の声を上げるチャレンジャーとは打って変わって、ボールを握る手に力が篭る。
ボールに戻した戦闘不能になったドオーを眺めながら、忸怩たる思いで立ち竦む。
ドオーたちが弱かったわけではない。互角だった。押されていても十分に巻き返せる内容だった。
敗因は、自分が集中力を欠いたせい。
何があっても手は絶対に抜かないし、仕事に私情を持ち込むなどもっての他。
しかし、心のほんの僅かな綻びがこの結果に繋がってしまった。

何してんのやろ……。

「チリちゃん、チリちゃん。だいじょうぶですか?」
「ポピー……堪忍な。チリちゃん負けてもうた。でも、ポピーのおかげやね。おおきにな」

目線を合わせる様にその場にしゃがんで、ポピーの頭を撫でながら彼女の働きを労った。

「チリちゃん、さいきんげんきないですの? さては、またなまえおねーちゃんとけんかしましたね? め!ですの」
「あはは、ちゃうよ。ちょーっと油断してもうたんや。 喧嘩やないから大丈夫やで?」
「むう……あやしいのです」

ポピーがチャレンジャーを退けてくれたお陰で、なんとか四天王の面目が立った。
事なきを得て安心したのも束の間、まん丸の濁りの無い瞳で正面からじいっと見つめられると、つい目を逸らしてしまいたくなる。
この年頃の子供は、時に大人をも凌ぐ慧眼を発揮するので油断ならない。
無理矢理この話題を切り上げるように、けれど、悟られないようスマートに立ち上がる。

「次はこうはいかんさかい。まかしてや!」
「はい! チリちゃんなら、だいじょうぶですの」

***

バトルを終えて執務室に戻ると、そこにはなまえの姿があって、何やらデスクの端の方に遠慮がちに書類を置いているようだった。

あの日以来リーグで顔を合わせてもなまえは至って普通で、何事も起らなかったかのように普段通り過ごすものだから、逆に気になって仕方が無かった。
なまえ何も言わない。言わないし、聞いてこない。
どうしたらいい?だとか、どうして欲しい?なんて――おくびにも出さなかった。

「あ、チリちゃん。バトルお疲れ様」
「負けても一たけどな……」
「チャレンジャーの学生さん強かったんだね」
「いやぁ、油断したわ。そんで、それは?」

普段では絶対にしない判断ミス。だから負けてしまったのだ。油断ではない。
四天王として勝とうが負けようが、この結果をオモダカさんへ伝える義務があるわけだが……色々と追及されそうで、今から気が重い。

「押印の漏れがあって。付箋が貼ってあるから、今日中にお願いします。また後で取りに来るね」
「んな阿呆な……やってもーた。なまえ、堪忍な」
「気にしないで。上に提出する前で良かったよ」

またしてもケアレスミスをしてしまって、自己嫌悪に陥る。
やはり集中しきれてない。
自分はこうもメンタルが弱かっただろうか?

ぐしゃぐしゃと前髪をかき乱して、盛大にため息をつく。
その様子を見たなまえは、退室しようとしていた足を止めて声をかけた。

「チリちゃん……ちょっと話でもしない?」
「いや、でも」
「ほら、今ちょうど小休憩の時間だよ?」
「あー……そやね。分かった」

壁掛けの時計を指差して、なまえは言う。
腰掛けようとしたワークチェアの背もたれを持って再びデスクへ戻すと、ソファーに移動する。
暫くして給湯室から戻り、コーヒーの入ったカップを二つ持ったなまえが横に腰掛けた。

「はい、どうぞ」
「おおきに」

差し出されたカップを受け取って口を付ける。苦い。
普段と同じコーヒーであるのに、今日は何だか酷く苦く感じた。
気持ちの問題なのだろうか?

「この間の事だけど……」
「……」

口火を切ったのは、なまえだった。
やはりその話題かと思って、彼女の方には向かず、じっと手の中のマグカップを見つめていた。
コーヒーの香ばしくてほろ苦い香りが鼻腔を満たす。
そんなどうでもいい事に、僅かでも意識を傾けていなければ、正直しんどかった。
自分には意識の逃げ道が必要だった。

そして、予想通りというべきか、なまえは先日の誘いを受けた旨を語り出した。
ガラルに帰ること……今の状況で、逆にそれ以外の話題があるはずもないのに。

「本当は、まだチリちゃんに言うつもりは無かったの。ちゃんと決心してから伝えるべきだったのに……その、ごめんね」
「いや、それは無理に聞き出してもうたから……」

無理に聞き出さず、彼女が考えをまとめて、結果まで導き出してからこの話を聞いていれば、現状は違っていたかもしれない。
――いや、そんな事は無い。
結果がどうであれ、話がどうであれ、それでも自分はなまえに言っただろう。
“行かんといて”と。

「やっぱり、迷ってるん?」

一呼吸置いて、再度尋ねた。
心臓が飛び出しそうなくらい大きく打っている。
なまえの口から“行く”という言葉が出たらどうしようか。そればかりぐるぐると頭の中を巡っていた。

膝の上に置かれたなまえの手に、自分の手を重ねてきつく握り締めると、 あの日と同じ眉を下げて困ったような表情で彼女はこちらを見て、そして笑う。

「ううん」
「……」

一言だけ口にして、なまえは首を左右に振った。
それが彼女の出した答えだろうか?ならば何故、そんな諦めにも似た表情で笑うのか。

その一言が彼女の本心でないことは明らかだった。

それでもひき止めてしまう自分が嫌になる。
本心からの答えではないと分かっているのに。
いや、そう言わせているのは自分のせいだ。狡いのは自分自身だった。

嫉妬して、固着して、耽溺して、女々しくなってしまうのが嫌だった。
そして何より、なまえの気持ちに気付いていて、そうさせてやれない事も嫌だった。
彼への恩義を知っていて、尚。

「だから今夜ダンデくんに断りの電話を入れるから、そんな顔しないで?チリちゃ――んぶ」

無意識になまえの口を手で塞いでいた。
これ以上喋らなくていいと言わんばかりに。
いっそ塞ぐなら手ではなくて唇でそうすれば良かったなんて、邪な気持ちに今は気付かなかった事にしておく。

当然ながら、なまえはポカンとしていた。
それもそうだ、今後を左右する大切な話の途中で、しかもこんな力技で遮られてしまったのだから。

「だぁー!! もうアカン! 無理や! 性に合わん!」
「えと……チリ、ちゃん?」
「本当は行きたいんやろ? ガラルに。分っとるのに知らん振りなんてでけへん……」
「……」

なまえは、ただただ静かに聞いていた。

「ダンデくんの力になりたいって思っとるんは知っとる……。けど、それを我儘で諦めさせるんは、やっぱ違うやろ」

言ってしまった。

あーあ、何お膳立てしてんのやろ……本当は離したくないし、帰したくもない。
けど、好きな子を独りよがりな感情で縛り付けるんは、もっと違う。

「でも、チリちゃん……あのね」
「行ってき。ダンデくんの力になりたいんやろ?」

格好悪い所も、情けない所も散々見せた。
それならせめて、これ以上なまえをがっかりさせたくないやんか。

なまえを腕の中に包み込んで、そのままぎゅうっと抱きしめた。

「いい、の?」
「いややよ、ホンマは」
「え! どっち!?」
「行ってほしくない。……けど、チリちゃんの我儘でなまえを縛るんは、もっと無い」

「せやから……」と言いかけて、腕を緩める。
なまえの頬を両手で包み込み、コツンとお互いの額を重ね、静かに尋ねた。

「行く前に、なまえの気持ちチリちゃんに教えて?」

そうすれば、離れていても乗り越えられる。待っていられる。

「ごめん、チリちゃん……」
「……うん。……はああああ!?」

彼女の返事は、まさかの“ごめんなさい”だった。
想定外にも程がある。思わず目を剥いて叫んでしまった。

いやいやいや! 今めっちゃええ雰囲気やったやん?
ここはお互の気持ち確かめ合う所やん?
ごめんて何? フラれた? フラれたんか、チリちゃん……待って待って!?
最近ものごっつええ雰囲気やったん? ハグもキスも受け入れてくれとったやん!?
どっからどう見ても両思いのハッピーエンドの大団円やんか!?

表面上は放心して固まっている風だったが、内心は大パニックだった。

チリちゃん泣いてええ?

「あ、えっと、違くて!」
「いや、だって今……ごめんなさい言うたやんな?」
「その事じゃなくて」
「じゃあ、何がごめんなさいやの!?」

思わず彼女の肩を掴んで問い質すと、なまえは肩に掛かった手を外し、それを自身の手で握り直す。
そっと包み込むように優しく握って、まるで幼子に言い聞かせるように目を見て話した。

「ダンデくんの申し出は受けないよ」
「へ?」
「だけど、ガラルには帰る」
「……、……どういう事!?」

つまりは、こう言う事だった。
彼の申し出とは、パルデアのリーグを辞めてガラルに戻り、正式な彼の秘書になる――と、言うものだったらしい。
また随分大きく出たものだと、なまえの話を聞きながら思った。
いけしゃあしゃあと、と思ったのは内緒だ。今までの葛藤が全て台無しになってしまうから、ぐっと堪えた。

そして、なまえはその誘いを断るということらしい。だから、さっき彼に断りの電話を入れると言っていたのだ。
では、彼女の言う“帰る”とは、どういう事なのか?

「私、ガラルに帰ってダンデくんを手伝いたい。ローズタワーをバトルタワーに改修して、軌道に乗るまでの間だけ、ガラルでダンデくんの手伝いをしようと思ってる。力不足かもしれないけど、でも……私が出来ることをしたいって思う」
「……」
「期間は一年。オモダカさんにも相談して、了承してもらった」

交渉の余地なし。
彼女は自分が思っている以上に、きちんと考えて、将来を見据えて、しっかりと地に足を付けていた。
こちらを見るなまえの瞳には確固たる意志が宿っていて、普段は頬を染めて限界化してばかりの彼女とはまるで別人のようだった。

何やねんそれ。惚れ直してまうやん。

「私、欲張りだからダンデくんの力にもなりたいし、チリちゃんとも一緒に居たいって思う」

なまえは「自分勝手で、ズルくてごめん」と付けたした。

「別に……そんなん、ズルくないやろ……」
「ズルいよ。だって、この一年間私は自分の都合でガラルに帰るんだよ? でも、その間チリちゃんには好きにしていいとは言えない。待っていて欲しいって思っちゃう」
「待つに決まってるやん、そんなん」
「余所見しないで、会えない間も私だけを好きでいて欲しいって思ってても?」
「ははっ……もう、なまえ以外に誰も見えへんわ。そんなん今更やんか」

改まって、彼女は今更何を言っているのだろうと思った。
意地らしくて、やっぱり狡くて、そして最高に愛おしい。

今度は、なまえの両手に頬を包まれる番だった。
瞳が閉じられ、緊張しているのか睫毛が微かに震えている。
鼻先が触れ合ったのを合図に、そっと瞳を閉じた――それは軽く触れるだけの、キスと呼ぶには些かぎこちないものだったけれど。
初めてなまえから贈られたキスだった。

「私も、チリちゃんの事が大好きです」
「アカン、めっちゃ嬉しい……嬉し過ぎてこのまま死んでまう」
「大袈裟だって」
「ホンマやもん」

その言葉をどれだけ待ち望んだか。欲していた事か。
彼女の存在を確かめるように今一度抱き締めると、当然のようになまえが背に腕を回す。
こんな当然の事でさえ、嬉しくて堪らないのだ。

「一年……上等や。こちとら十年拗らせとったんやから、一年くらい余裕で待ったるわ! 余裕や余裕!」
「本当?」
「けど、それ以上は待たへん」
「ええ!?」
「一年経っても帰って来んかったら――」
「こ、来んかったら……?」

なまえはゴクリ、と固唾を呑む。
何を言われるのだろうかと不安そうな表情でこちらを見る。
別れるとか、待つのを止めるとか、そんな事を思っているのだとしたら、随分と舐められたものだと思う。

「ガラルまで、なまえの事攫いに行ったるわ」
「んな!?」
「ナッハッハ! 覚悟しとき」

それは冗談ではなく、本当にそうしかねないので恐ろしいと、なまえは言った。
さすが、チリちゃんの可愛い可愛い彼女は、恋人の性分を良く分かっていらっしゃる。

「チリちゃんの愛情、舐めんなや?」
「……ふぁい」
「かーわいい」
「ひいっ……!」

そこにはもう、瞳に強い意志を宿した彼女はおらず、ただただ頬を真っ赤に染めていつものように語彙力をなくした普段通りのなまえだった。

あー……もうこのまま食うてもええやろか?


20230104


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